20020430―物語が動き出す前の物語―

 何となく、自分の人生が平穏無事に済むものだとは思っていなかった。それは直感というより何というか先の展開を知っている映画やドラマを見ているような、確信に満ちた感覚として彼女をいつも苛んでいた。苛んでいたという言い方は悪いのかもしれないが、その感覚が快か不快かと問われたらもう確実に後者なので、まさにそういう感じだった。

 その感覚を、詳しく話した後、彼女は

「もしかして、私って変なんですか?」

 と、率直に師匠に訊いてみた。十五歳の時だった。師匠は、何だか怖いくらい難しいことをたくさん知っていたし、彼女に関して本当に真剣に考えてくれるので、困ったことがあった時は、両親よりも誰よりも先に、彼に相談することに決めていた。第二次性徴が始まった時ですら、母親より先に師匠に相談したくらいだ。

「変だね」

 てっきり否定してくれるかと思ったので、その一言を聞いた時はさすがにショックだった。だが、師匠は、その良く通る声で、全くふざけたりからかったりする様子もないまま、続けた。

「ただ、それは今の私の立場からの発言に過ぎない。正直な話、君は既に今の私の領域の人間ではあり得ないと言えるほど、明らかに変だ。個性であるとか、そういったものの話ではなく、純粋に、ね。怖くなることすらある。それでも、君は一日本国民として、今この瞬間を普通に生き抜いている。生き抜いてしまっている。君の、明らかに他人とは違う波乱への確信と、明らかに他人を凌駕するほど迫りつつあるシステムの核心を胸に。君は、今の私の世界から一線を画している。だが、それこそが、もはや既にある種の可能性であると言える」

 システム?

 彼女には良くわからない話が混ざった気がした。

「前々から思っていた。はっきり言おう。君は、自分がどれだけ危ういところを歩いているか、良くわかっていないんだ。私の教えている格闘技術は、その場合全く自衛の手段になんてならないし、君を守る存在も今のところ見つけられていない。自分の未来が平穏無事に済むと思えないでいるということそれ自体が、君の身の危険を常に警告している」

「はあ」

 頷くことしか出来なかった。

「そのうち、『君に最終的に手を貸してくれる者』と、『君が最終的に手を貸そうとする者』が必ず現れる。その時、その相手のことを変であると思い、相手に変であると思われることから最初に生じる致命的なまでの亀裂を、修復する手段が確立してしまった瞬間に、事態は大きく動き出すのだろうな」

「あの」

 二人は、道場の中で道着を着たまま正座で向かい合っている。師匠が、彼女に話し掛けているというより確実に独り言に近い語りを始めた時点で、彼女の居心地はかなり悪くなっていた。

 結局、何だかやけに自分が変な人間であることを強調されただけだったし。

 それでも不快にならないのは、師匠の人徳というものであろうか。

「結局、どうしたらいいでしょう?」

 こんな風にさらに詳細を訊かねばならない様な問いかけを自分はしたのだろうか?

 否、そんなことはない。だがそれでも訊いているのだから、最早こんなことを考えていること自体が無駄なものなのだ。

 師匠は、いつものように真面目な中にやさしさが垣間見える不思議な表情に戻った。というより、もしかしたら終始こんな顔をしていたのかもしれない。

 場の雰囲気で、そうは思えなかったけれども。

「君は、他人からどう思われたい? 変であると思われるのが嫌なら、世界に自分をうまく適応させて、目立たないように生きていけばいいだけの話さ。ただ、それでは人生はどうにも味気ないものになるだろう。いや、むしろ君はそうなるのが夢なのかもしれないが。味気ない人生というのは、必要以上に、そして予想以上につらいものだよ」

 師匠は、自虐的に少し微笑んだ。それは、自分は味気なくてつらかったんだ、というアピールみたいなように思え、これを言ったのがこの状況でなければ、そしてこの師匠でなければ、彼女は間違いなく怒り出していただろう。基本的に、こういう思わせぶりな所作が大嫌いなので。

「特にどうということもないなら、君は君として胸を張って歩くべきだ。何をどうする必要もない。状況は、君よりも先に君を捉え、きっと君を翻弄するように動く。人がそれを運命と呼ぶのなら、その運命に導かれるように、君は進む。予定調和、因果律、どんな形容をしてもいい。君は君の道を、他者の感情の渦の中、張り巡らされた謀略の中、全てと関わりを持ちつつ、全てから切り離され、歩いて行くことになるのだろう」

 師匠は、彼女の目をしっかりと、睨むように見据えた。彼の目は一点の曇りもなく、ただ何かをひたすらに確信している、彼女と良く似た種類の瞳をしていた。

「つらいだろうが、人生は、どんな形であれ、つらいものだ」

 話を聞いていた彼女は、その内容の詳しいところは勿論よくわからなかったが、何となく感動していた。真理、と言おうか。何か、世界の全てをまとめて語っているような師匠の口振りに、鼓動が高鳴るのを感じたのだ。

 しかし、どこか自分が立ち入ってはいけない領分の話である気もしたので、

「わかりました。失礼します」

 そろそろ話を切り上げようと立ち上がった彼女の背に、最後の一言がかけられた。

「君が何もわからないこのタイミングで言うのが一番微妙だからあえて今言っておこう。もしもに会ったら、その時はよろしく伝えてくれ。私の存在は、君の切り札か、またはそいつの切り札になるだろう」

 当然のようにこれもよくはわからなかったが、彼女は礼儀正しく辞儀をして、道場を後にした。

 結局、彼女はこの時のことをあまり深く考えなかった。師匠は時々不思議なこと言っていたし、確信に反して世界は至って平穏無事に過ぎて行ったからだ。

 事態が動き出すのは、しばらく後。

 彼女が生まれて初めて人を嫌いになった瞬間からだった。

 それは、『切り開く者』山上舞がようやくシステムに関わってきた瞬間であり、

 彼女の師匠の前にヒューズを名乗る女が現れた瞬間でもあり、

 一人の少年をあちら側の住人にしてしまうための本格的な足がかりを作ってしまった瞬間でもあった。

 だが、それはまた、別の話だ。

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