20020225―柔らかなる木々の遺言―
理由もなく、ただ泣きたくなることがある。
「僕は弱い人間なんだと思う」
アイニゲは、暇があると良く来るこの泉のほとりで、よく幻覚を見た。
それは、樹木から生え出るようにして現れる、肌の色が緑の半裸の女性で、いかにも妖精や精霊といった類の存在に見えたが、彼の一族はあくまで刀鍛冶で、そんなものが見える家系ではないはずなので、幻覚に決まっていた。
それでも、彼はそれを話し相手にすることがよくあった。
「そんなことはないわ。あなたは決して弱い人間なんかじゃないわ」
アイニゲは、暇があると良く来るこの泉のほとりで、よく幻聴を聞いた。
それは、鈴の鳴るようなという形容がまさに当てはまるような美声であり、あたかもその幻覚で見えている妖精が話していることのようであるので、嫌いではなかった。
「僕は、剣を打ちたくないんだ。父さんは、魔王を倒すための剣を作れるように毎日頑張って剣を打ってるし、僕も本来は修行しなければならないんだけど、でも、僕は他人を傷つけるための剣なんて作りたくないんだ。僕は、誰かが傷つけられるのは、それが仮に悪い人であったとしても、耐えられないんだ」
理由もなく泣きたくなることがある。
でも、それは理由が多すぎてわからないだけなのかもしれない。
幻覚の妖精は、静かに笑った。それにあわせて、木々が葉を揺らした。
風だ。きっとそうだ。
「アイニゲ。あなたは、とてもやさしい人間です。他人が何と言おうと、あなたが自分のことをどう思おうと、私はそんなあなたが大好きです。人を傷つけたくないということは、弱いということではありません。逆に、全ての人を受け入れようとしているあなたは、とても強いのですよ」
幻聴の声は、そんな風に言った。
心が癒されるような気がした。
この幻覚や幻聴に自分は支えられているのかもしれなかった。
「僕は、誰一人として傷つかずに、皆が幸せに暮らせる世界っていうのが絶対実現できると思うんだ。力で相手を従わせるとか、そういうのは間違ってると思う」
幻覚の妖精は、再び微笑んだ。
「そうですね。私は、きっとあなたがそんな世界を作ってくれると信じていますよ」
その時、アイニゲを呼びに来る叔父の声が聞こえたため、彼は泉を後にした。
帰り際、振り返ってみると、もう幻覚は見えなかった。
そして。
その夜。
リアルカスタム家の本家が隠れ住んでいたその森は、魔王の手下に急襲された。
アイニゲの父、母、叔父、祖父、二人の妹は、皆、殺された。
アイニゲはたった一人、地下に隠れていたので助かった。
地上は、鍛冶場どころか、近くの森も含めて全てが根こそぎ破壊された。
恐怖の一夜を震えながら過ごしていた間、何故かアイニゲは泣きたいとは思わなかった。
朝が来て、魔王の手下は帰って行った。
アイニゲが地上に出た時、真っ先に見えたのは、幻覚だった。
折れて焼け焦げている無数の木々の全てに、例の精霊の姿がだぶって見えた。精霊は、幻覚でありながらあまりにも痛ましく、無残なほど傷つけられた姿をしていた。
彼女らは、呆然と立ち尽くすアイニゲの姿を見つけると、何故か安心したように笑った。その微笑みは、もはや生気が感じられぬほど弱々しかったが、ひどく美しかった。
その彼女らは、口々に何かを言っているようなのだが、何故か幻聴は聞こえてこない。
彼は、泣きそうになり、夢中でいつもの泉に向かった。走っているのに全然進まない気がした。いつもならすぐ辿り着く泉が見えてこない。走っても走っても破滅の跡と痛々しい幻覚が続くだけで、彼はどうしようもないくらいやるせなくなり、ぼろぼろと涙を流して泣いた。
もしかしたらもう泉もなくなってしまったのかもしれない、と絶望しかけた頃、ようやくそれは見えてきた。
かろうじて、泉だった。辺りはやはり相変わらずの破壊されようで、悲惨な幻覚はやはり同じだった。
が。
そのほとりで、彼はようやく幻聴を聞いた。
聞くことが出来た。
「それでもあなたはかわらないで」
「それでもあなただけはかわらないで」
「それでもあなただけはけっしてかわらないで」
幻聴は木霊した。
ただ、それだけ聞こえてきた。延々延々と、ただ変わらないで、とそれだけがひたすらに聞こえてきた。
何のことだかまるでわからなかった。
「かわらないで」
全てが破壊された中、自分一人残され、止め処なく溢れる涙を拭いもせず、ただ泉のほとりに立ち尽くすアイニゲは、気付いてしまったのだ。
「あなたはかわらないで」
自分の考えが、甘すぎたということを。
「どんなにぜつぼうしても、ちからにおしつぶされそうでも、あなたのりそうはあきらめないで」
力がなければ、全てを失ってしまう。
「あなたは、やさしいあなたのままでいて」
他人を傷つけなければ、自分が傷つけられてしまう。
「へいわなせかいをみちびいて」
妥協してはいけない。中途半端ではいけない。負けてはいけない。
「…………」
戦わなくてはいけない。
「…………かわらないで」
平和を目指すには、そこに立ちはだかる敵や障害を駆逐しなければいけない。
理想だけを並べて、現実から逃げていても、どうにもならない。
アイニゲが決意を固めて涙を拭った時、そこに幻覚は既になかった。
ただ、幻聴は聞こえてきた。
「お前は、愚かだ」
それは、これまで聞こえてきたどんな幻聴よりも辛辣であり、しかしどこか有無を言わせぬ凄みがあった。
「お前は愚かだ。『世界の声』に耳を傾けず、その中で他人の悪意によって蝕まれ汚され貶められてきた卑しい世界の真理を真面目な顔で悟ってしまうお前は、ひどく愚かだ。あとわずかでも聡くあれば、この世界を救うこともできただろうだけに実に惜しい。どうしてこう、どうしようもなく、世界とはうまくいかないものなのだろうな」
アイニゲは、その声が何を言っているのか良くわからなかった。
幻聴だから当然かもしれない。
「お前は、近い将来システムに巻き込まれる。それが吉と出るか凶と出るかは全くわからないが、ただ言えることは」
頭痛がした。
「気付いているだろうが、お前は今、道を踏み外した」
「だまれ!」
アイニゲは叫んだ。
幻聴は掻き消え、あとには抜けるように青い大空と、狂ったように倒れ散らしている木々と、鳥の囀りさえ聞こえない空ろな静寂が残った。
涙が出た。
もうどうしようもないのだ。
世界は甘くないのだ。
幻聴に惑わされている場合ではないのだ。
今自分が立たされている、この、最低ともいえる状況をかえりみる。
理由もなく泣きたくなっていられた頃は、
ひどく、
幸せなのだと思った。
全てを否定したかった。
これまでの自分も、この破滅の様子も、魔王も。
そして。
この世界も。
涙は止まらなかった。
決意は固かった。
彼は、魔王と戦うために剣を打とうと決めた。
敵、障害は否定しなければならない。
そのためには、力が必要なのだ。
アイニゲは、全てを失った代償として、不屈の意志を手に入れた。
けれども。
もう、今後二度と、幻覚を見ることはないだろう、ということが、何故かわかってしまったので。
それがひどく、悲しかった。
泉は、かろうじてまだ泉だった。
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