20020214―ラルフリーデス見張り担当の予感―
「私の名前はルイ。でもそれ以外はまったく覚えていないの」
「うわ、出た! 記憶喪失っすよ。ありがちっすよ。その正体が絶対、物語の鍵を握るんすよ。間違いないっすよ」
名を名乗る女を前に、そういう大仰な驚きを率直に言葉に表した結果、
「お前は黙ってろ」
マイゼルグラフト警備主任に殴られた。
「な、何で俺が殴られなきゃなんないんすか! 容疑者は向こうですよ」
「私は容疑者を殴ることはない。私が殴るのは馬鹿な部下だけだからな」
「うわ、出た! 明らかに名誉毀損っすよ。でもそう言って訴えたら、たぶん俺が何らかの策略にはまって負けるんすよ。そういう展開になるんすよ」
「いいから黙ってろ」
もう一度殴られた。ラルフリーデス見張り担当は完全にふてくされて、質問室の隅にある机に腰掛ける。
それを確認してから、マイゼルグラフト警備主任はルイと名乗る目の前の女に穏やかな口調で尋ねた。
「つまり君は、どうしてあんなところにいたのかもわからないし、どうやって入ったのかもわからない、ということで間違いないね?」
「ええ。何が何だかわからないけど気がついたらあそこにいて、そこにいる彼に捕まえられてここまで連れて来られたってのが実情だから、私は何を訊かれてもたぶん答えられないわよ」
女は、机の上に頬杖をついて、アンニュイな雰囲気で呟いた。それと向かい合う形で、腕組みをして椅子に深く腰をおろした姿勢のマイゼルグラフト警備主任は、
「まあ、そんなところだろうな」
と小さく頷くだけで、特に何も言わない。
「信じるんすか? たぶん、こいつスパイっすよ。完全に黙秘を続ける腹づもりの女スパイっすよ。自白剤飲ませたほうがいいって」
「スパイ? どこの?」
口を挟んできたラルフリーデス見張り担当に向け、彼は鋭く問い返した。
「敵対勢力の名はいくらでも挙がるが、いずれにせよありえないだろう。侵入することが不可能という一点の特性だけしかないあそこに行って、一体どんな組織が何の情報を手に入れるというんだ? スパイなら、もっと百倍は楽な方法で、効率よく情報を収集するに違いないだろう」
「いや、だからその裏をかいて逆に」
「何のために?」
「……念には念を入れようって奴じゃないすか?」
「そんなスパイが、自身が脱出する算段も整えられないあそこに侵入するかな?」
「う……」
ラルフリーデス見張り担当は完全に言葉に詰まった。
「第一、あそこに侵入するのは外部からでは不可能だ。君の、パターンUという、とんでもないポテンシャルの能力に対抗する力を持っている者が、そうざらにいるとは思えないし、彼女がそうなら君が気付いているはずだろう?」
「まあ、そうなんすよね……」
ラルフリーデス見張り担当のパターンHの能力で、この女性の能力保持状況を調べた結果、パターンAを相殺方向の力として持っているだけで、つまるところ完全な一般人であることがわかった。
「だからこそ、わかんないっつーか納得できないっつーか……」
「それを逆に考えてみろ。今、仮に、彼女に聞いて、その納得できる侵入方法がわかったとしたら、おそらくそれは一般人にも出来るという方法に違いないわけだぞ。それが存在する確率が極めてゼロに近い以上、侵入方法は彼女にもわからんとするのが実は不合理に見えて一番ありうる線だ。記憶喪失も、まあおそらく間違いあるまいよ」
完全には納得出来ない状況らしいことは完全に納得した。
時々、ラルフリーデス見張り担当は、この警備主任をものすごく尊敬する時がある。絶対に自分には敵わない理論を展開する時や、さりげなく開放させているパターンBの防御方向の能力を気付いた上で、それを上回るぎりぎりの力で殴ってくる時、そして、社内の女性から実は圧倒的な人気を誇っているということを痛感する時だ。何でも出来るという印象は無いが、この警備主任に出来ないことを思い浮かべようとしてもすぐには出てこない。この男、ただものではないのである。
「じゃあ、この人どうするんすか? 捕まえる理由もないし、かといって家に帰そうにも、自分の家とかもわからないんでしょ?」
状況を理解したら、柔軟に対応する。切り替えの早さにかけては、ラルフリーデス見張り担当の右に出る者はいない。
ルイは、しばらく考えているようだったが、
「うん、ちょっとわかんないわね」
と簡単に答えてきた。
「保護だな」
その発言は突然だった。
「は?」
「誰か、適当な女子社員を呼んできてくれ。一人暮らしで、家が広い者がいい。そういうのは、君の方が詳しいだろ?」
「え、で、どうするんすか?」
「決まっている。その社員と一緒に暮らしてもらって、彼女自身もうちの一員になってもらうのさ」
「マジっすか? 社長の許可もとらないで?」
「構うものか」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべながら、マイゼルグラフト警備主任は言い切った。そして今度はルイの方を向き、
「君も、それでいいだろ?」
と、同意を求めているようで有無を言わせぬ雰囲気のある不思議な口調で尋ねた。
「え、ええ」
どこか釈然としない様子のルイの返事は、明らかに引き攣っていた。本来自然に口に出てもおかしくない感謝の言葉も、言うべきかどうか決めかねているようだ。
「しょうがないっすね。とりあえず、テリアハムラフィ罠設計担当にでも話つけてきますんで、ちょい待ってて下さい」
ラルフリーデス見張り担当は、身軽に動き、質問室を後にした。本部事務所につながる廊下を全速力で駆け抜ける。
記憶喪失。
この単語がひどく気にかかっていた。本当に、彼女の正体がわかった時、それはつまり彼女があそこに入った理由も方法も明らかになるということで、その時には何かこう、とてつもなく大きな変化が自分達に襲い掛かりそうな予感がする。
いや、というより、つまるところ、もうその大きな変化は始まってしまったと言うべきなのだろう。
いっそ、口を割らないスパイだった方が楽だったんすけどね。
そう思って、先ほどから記憶喪失なんて嘘だ何だとわめいていたわけだが、やはり、変えられない。状況は、変えられない。自分に状況は変えられないのだ。
自分は、状況に、動かされていくだけ。
その中で対応を考えるだけ。
それではダメだ。
わかっている、わかってはいるが。
結局、テリアハムラフィ罠設計担当に状況を説明し、幼馴染の彼女とああだこうだ言い合いをした末、予想通り説得に成功し、最終的に彼女とルイの共同生活を始めさせてしまうという、
完全に予想された状況を招くことだけが、
自分に出来た、
最大限の、
行動だった。
噛み合わない歯車が無理やり動き出す瞬間のような、ひどく不自然なのに表にはそれが見えてこないという気味の悪い状況に喉を詰まらせながら、
ただ、ラルフリーデス見張り担当はいつも通りに振る舞っていた。
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