20020210―マイゼルグラフト警備主任の脱出―
精神的に、非常に追い詰められていた。仮に今、大丈夫どうにかなるさと言ってくる奴がいれば、もしかしたら確かにどうにかなるのかもしれないが、そんなことは別として、そいつを殴り倒してでも自分がどうにもならないことを認めさせてやるくらいの所存である。こんな状況にならざるをえなかった自分の不運を嘆く暇もあらばこそ、とりあえずマイゼルグラフト警備主任は身を潜めていた暗がりから飛び出した。長いコートでは走りづらいが、如何なる証拠をも残すわけにはいかない。あいつらに自分の正体を晒さぬまま、ここから脱出する必要がある。きっとある。
「いたぞ! あそこだ!」
という半ば叫びにも似た声が後ろから聞こえてきた。後ろからで良かった。顔も見られないし、後ろからの狙撃に対してはパターンBの能力が完全に防御してくれる。マイゼルグラフト警備主任は、つばの長い帽子を右手で押さえながら振り向きもせずに走り続けた。
硬い床を革靴で蹴りつける音が断続的に響く。しかしそれはあくまで自分の足音だ。後ろから声をかけてきた奴は、こちらを追っていないらしい。発砲された様子もないし、相当やる気の無い追っ手だったようだ。まあ、この迷宮で他人を追いかけることはかなり難易度の高い所業だ。特に、ここを知り尽くしている自分を追うことなど、迷宮の構造を把握していないあいつらには、ほぼ不可能だろう。それを考えると、少し余裕が出てきた。
「だがしかし、先に出口を抑えられると厄介だな」
迷宮の構造上、人数の多いあいつらが、出口へのワープを偶然発見する可能性はゼロではない。何より、あの凝り性のユドリフマーカス順路変更担当の趣味で、昨日からそのワープは『いかにも出口』であるかのような装飾が施されている。それによって逆に、目の肥えてきたプロの迷宮破りの裏をかこうとしているわけだが、今の場合に関して言えば、完全に裏目に出たと言うしかない。あいつらが、馬鹿であればあるほど、ゴールを発見しやすくなる。
マイゼルグラフト警備主任は、三十七個目の十字路を右に曲がり、行き止まりに見せかけて回転する扉を抜けて、すぐ左の壁にあるボタンを押した。壁がせり上がるようにして小さなスペースが現れ、そこにさっと飛び込むや否や、彼のすぐ後ろで、音も立てずに通路の幅と同じ分だけ分厚い天井が落下してきた。暗闇に包まれた小スペースの中で、ほっと息を吐く。このトラップは相当酷いと思うのだが、テリアハムラフィ罠設計担当によると、プロの迷宮破りでこのトラップに引っ掛かる者などほとんどいないそうで、ランク的に初級の部類に入るらしい。構造に詳しく、突破法を全て知らされているマイゼルグラフト警備主任は、しかし実際にその突破法を一瞬で思いつくらしいプロの迷宮破りを見たことはない。何せ、この迷宮はかなり広いので、巡回にあたっても本来ならば人と会うことなどないからだ。しばらくすると、またも音をたてずに、落ちて来た天井が持ち上がり、マイゼルグラフト警備主任はスペースから飛び出して斜め前方に全力疾走し、そこにあるボタンを押して、壁に現れた小スペースに転がり込み再び降って来る天井をやり過ごした。休まる暇は無い。迷宮の構造上、こんなに苦労しなければゴールに辿り着けないのは、こちらのルートがしっかり財宝も置いてある本格派のルートであるためで、別段あいつらが必ずここを通らなければならないというわけではない。自分が、あいつらの侵入にもっと早く気付いており、事前に隔壁を下ろしておけば、事態はもっとましだったかもしれない。しかし、事実として奴らは迷宮内に完全に分散してしまったし、目撃者を抹殺しながら計画を実行している。まあ、その計画が、迷宮構造を前もって把握してしまっては実行できないという類のもので本当に良かったところだ。天井が持ち上がる。マイゼルグラフト警備主任は、今度は真っ直ぐ壁際に走り、途中で壁に付いたボタンを押して、さらに走り続け、右手前方に壁がせり上がって現れた隠し順路に滑り込んだ。後方ではもちろん天井が落下している。間に合う場合は間一髪間に合うようになるべく実は巧妙に設計されたその罠を突破し、一息つく暇もなく再度走り出した彼は、
「きゃっ!」
四つ角で、危うく左から走って来た女性にぶつかりかけた。心臓が止まる心地で、相手を確認せぬままに拳銃を抜き、こちらの顔を隠すように帽子を目深にかぶり直しながら、相手に銃口を突きつける。セーフティーは一瞬で外し、いつでも発砲できるようになっている。そこまでなって、相手の顔を見てみると、
「警備主任じゃないですか! 無事だったんですね!」
こちらと同じように、しかしこちらより数段遅い動きでもたもたと拳銃を構えようとしていたその女性は、彼の部下であるキルトカルテット警備担当だった。彼女は構えをといて、拳銃をしまいこむと、ほっとした表情で大きく息を吐いた。
マイゼルグラフト警備主任も、その様子を見て拳銃をしまった。しかし、警戒は解いておらず、セーフティーは解除したままだ。
「……無事だったか、と確認したということは、君もあいつらの侵入を知っているということだな? どうやって逃げてきたんだ?」
「もしかして、私があいつらの仲間じゃないかと疑ってるんですか?」
「いや。迷宮の構造を把握している者が物質存在否定の紋章を持っていたところで、その能力はほとんど効果をなさないことはわかっている。だから、迷宮否定主義団体のあいつらの仲間に、迷宮関係者はいない。ただ、どうして無事だったかを訊いているだけだ」
キルトカルテット警備担当は、それはそうですよね、と小さく何度か頷いた。
「ええと、正直に言わなきゃ駄目ですか?」
「言い難いことなのか?」
「ええ、たぶん言ったら驚かれるでしょうし」
「……私に驚いてもらいたくないということか?」
「というか、まあ下手をすれば差別の対象になりそうで……」
「どういうことだ?」
キルトカルテット警備担当は、その質問に答えず、自分の左胸の辺りを指差した。そこには、見慣れないマークがついており、何語かわからない言語の刺繍も入っている。マイゼルグラフト警備主任が、何事かと思って彼女の顔と指差されたマークを交互に見つめていると、ようやく彼女が口を開いた。
「これ、あの人達のマークみたいです」
「そのマークを付けていたからあいつらに味方と思われて助かったということか?」
それのどこが言い難いことなのだろうか?
「元々は違うお洋服を着て巡回してたんですけど、突然後ろから羽交い絞めにされて、ナイフ突きつけられて、抵抗すると殺すぞって言われたんですよ。で、反射的に右手で相手の首の骨を折って殺したところ、反動で首にナイフが刺さってしまいまして、血がたくさん出るわけですね。で、お洋服が血まみれになってしまったんです。だから、そんな格好で歩くのも何なので、出血が止まった後、その男の服を奪って着替えたんです」
マイゼルグラフト警備主任は、しばらく絶句していた。首にナイフが刺さっても生きているということは、明らかに人間ではあり得ない。
「……君は不死種族だったのか」
「はあ。今まで黙っていて申し訳ないです」
「いや、我々の偏見が強いせいで、かなり苦労していると聞く。謝るのはこちらの方だ。私も実際、不死種族は皆角が生えていて凶悪なのだと思っていた」
しかし、キルトカルテット警備担当は、何をやらせてもいまいちぱっとしないが人を和ませるその雰囲気が良い、という印象のある女性で、どうも、凄まじい怪力と桁違いの回復能力を持つ不死種族という感じはしない。おそらく、その潜在能力のほとんどを隠して生活しているのだろう。
「……まあ、そういう人が多いのも事実ですけど」
キルトカルテット警備担当は曖昧に笑った。
「ところで、着替える前に着ていた洋服や血痕などの証拠は残していないな?」
「あ、そういうことなら大丈夫です。追跡用の能力を考慮して、死体もろとも完全に隠滅しました」
「よし、とりあえずここで話していても仕方がない。出口に向かおうか」
「そうですね。あの人達は私達の手に負えないですから、助けを呼ぶのが一番ですよ」
「……君はやろうと思えばどうにかなるんじゃないのか?」
「もう、何言ってるんですか。か弱い乙女でに人殺しをさせるつもりですか?」
襲われたら反射的に首を折るというか弱い乙女は、笑いながらそんなことを言って、一足先に走り出そうとした。が、
「おい、ゴールはそっちじゃないぞ」
「あれ? そうでしたっけ」
「そっちは君が来た方向だろう。ゴールとは真逆だ」
「はあ」
「……方向音痴は素なのか?」
「まあ、その、私は一族の中でもかなりの落ちこぼれでして……」
マイゼルグラフト警備主任は、声をたてて笑った。
「君は、私の部下の中では全く落ちこぼれなどではないから、胸を張って自慢すると良い」
ぽん、と彼女の頭を軽く叩いてから、先導するように、彼女の来た方向と逆に向かって適当なスピードで走り出した。忘れない内に拳銃のセーフティーをかける。
キルトカルテット警備担当は、叩かれた頭に少しの間手をやって、微笑を浮かべると、憧れの人でもある、頼れる上司を追いかけた。
自分達はどうにかなる、大丈夫だ、という共通の思いが、二人の間に生まれていた。
二つの足音は、迷宮内に場違いなほど明るく響き渡る。
そして二時間後、二人は――
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