20020208―天城の杞憂―

 高校の教室というのは、彼女にとっては憩いの場所と言う意味合いぐらいしかないのではないか、と松倉天城はかねがね思っている。少なくとも教えを請うためにそこが使われることは、彼女に関して言えば間違いなく皆無である。今日も今日とて古典文法について無気力に説明する眼鏡の青柳を完全に無視し、窓際の前から三番目という日当たりの良い特等席で惰眠を貪っている彼女の背中を、桂馬の位置にあたる座席から眺めつつ、天城は軽く溜息をついた。安いシャープペンシルを指先で弄びながら、青柳のありがたい講釈を上の空で聞く。別段どうということもない。今使われていない言語の助動詞がどのように活用するのかがわかったところで、天城の生活には何のメリットもない気がした。それでもテストのために勉強しなければならないという立場にあるのが高校生と言う職業である。しかし授業中に眠ったくらいで声を荒げる熱血教師も少なくなり、黒板に増えていく文字だけを単調に書き写し続けるという作業は常に催眠効果を孕んでいる。眠る者もおり、上の空の者もおり、これがごく自然な授業風景ではある。

 時間の進む速さが普段の三〇分の一ほどになった気がして、授業の終わりはまだなのかと天城が腕時計に目をやろうとしたその時、ようやくチャイムが鳴った。とはいえ、鳴った瞬間に授業が終わるほど都合の良いこともあるわけはなく、切りのいい所までやってしまおうという教師の考えのもと、授業時間が延長されるのは目に見えていた。チャイムの音で目を覚まし、机にうつ伏せていた寝ぼけ顔をむっくりと上げる者が幾人か。彼らに告げるかのように青柳は、

「あと已然形と命令形だけですから」

 と、言い訳がましいことを口走り、やはり淡々と説明が続く。

それを見越してか、チャイムの音でも彼女は、起き上がる気配がなかった。自身の両腕を枕に、背中をゆっくりと上下させ、静かに寝息を立てている。天城は苦笑しつつ、黒板に書かれた大量の神経質そうな細かい文字の中から要点だけをノートに記すと早々に机の上を片付けた。体を傾け、机横に放置されている学校指定の肩掛け鞄に手だけを突っ込み、手探りで、校則違反を承知で持ってきているノートパソコンをわずかに開け、その電源を入れる。

 眼鏡の青柳の授業はまだ続いている。廊下からは、すでに休み時間に特有のざわめきが聞こえてくる。談笑する生徒の声、何事かやけに急いでいる靴音、それらが交じり合い、独特の雰囲気をもって授業の成立を精神面から切り崩そうとしているようだ。現に、青柳の説明の声などもはや誰一人として聞いておらず、ムードは完全に休み時間に持っていかれている。

「じゃあ、今日はここまで」

 教師も、その雰囲気に流されたのか、もともと大した量の説明があったわけではなかったのか、ともかく意外と簡単に延長は終了した。天城の予想ではもうあと二分は延びるはずだったので、これは本当に意外だったが、まあ授業が早く終わるに越したことはない。

「起立」

 どこか気だるい委員長大津の号令の声で、ばらばらと全員が立ち上がる。その音に反応して、彼女も目を覚ますと同時に立ち上がった。タイムラグはゼロである。

「礼」

 すでに「気をつけ」をする気がないのがいかにもこのクラスらしい。適当を絵に描いたようにてんでばらばらに頭を下げる生徒達を眺めて、それすら慣れてしまっている眼鏡の青柳は何も言わずに、教科書とチョークの箱と出席簿と閻魔帳を小脇に挟んで、だらだらと教室を出て行った。

 天城は、ノートパソコンを取り出して机の上で広げた。ちょうど起動し終わったところだったので、迷わずデスクトップ上に表示されているアイコンをクリックする。

「今回はデューイットっていう話」

 隣から聞こえてくるのは、もちろん彼女の声だ。天城の机の横からこちらを見下ろすようにして立っている。毎休み時間がこうなので、別段驚くにも値しない。天城は彼女の顔を見上げようともせずに、ノートパソコンに記録を始める。

「デューイット? 入力しづらいな」

「仕方ないでしょ」

「ジャンル的には?」

「わかんない」

「情報源はやっぱり夢?」

「……うん。今朝の明け方くらいに見た」

「今じゃないのか?」

「今寝てたら思い出したの。急にその単語が目の前に浮かび上がってきたから」

 天城は実はブラインドタッチが出来ない。それなりに早く打てる自信はあるが、言われた通りそのままを入力したのでは間に合わないため、要点を頭の中でまとめて、それから書き込んでいるのだ。だから要約は得意だ。

「内容の詳細は?」

「五人の人間が集まって、一人ずつがその場から逃げていくという条件が揃うと、最後の一人がデューイットという存在になって、他の四人を追いかけることになる。他の四人にもデューイット本人にも何故かデューイットが誰かはわからなくて、その五人の中にいるということだけがわかっている。デューイットが四人の内の一人を捕まえた瞬間、捕まった方はこの世に最初から存在しなかったことになる。デューイットが時間内に誰も捕まえられなかった場合、デューイットはこの世に最初から存在しなかったことになる」

 天城は、少しの間入力だけに集中した。

「これは……実在するとしたら、かなり状況的にまずいな」

 そしてそれだけを告げた。依然、指は動き続けている。

「やっぱり?」

「最初に逃げ出す理由が言及されていないから発動条件が甘い。五人の中の誰かがデューイットになってることを全員が知ってるから、お互いのコンタクトがとれない。制限時間がはっきりわからないから期限がわからない。この世に最初からいなかったことになるから、経験者も探せない。システム的に、発動したが最後全員無事に終わることがありえない。ほとんど八方ふさがりだ」

「どうにかならない?」

「……たぶん無理だな。デューイットをつくらないようにするくらいの予防しかできない」

 それを聞いて、彼女は少し悲しそうに俯いた。それが何となくわかったので、天城は初めてモニターから顔を上げた。ただでさえ背が高い彼女を、椅子に座った姿勢から大きく見上げる。

「まさかお前、既に渦中にいるわけじゃないだろうな?」

「ああ、それはないよ。大丈夫だよ」

 胸の前で両手をぶんぶんと横に振り、どことなくあせった様子で否定した。

「天城ちゃん」

「何?」

「例えば、デューイットのシステムが発動した五人の中の、任意の二人を確実に生存させる方法ってないかな?」

「それならいくらでもあるだろ。残りの三人を鉢合わせさせるようにして、その中にデューイットがいたらそれでオーケー。三人の中の誰かが消えて、関わらなかった二人は助かる。いなかったら、制限時間内に残りの二人を一人ずつ、三人の内の誰かと鉢合わせさせる。どっちかがデューイットだから、鉢合わせした相手が消える。よって助かる。ただし、これは外部からの介入が不可欠だし、かなり荒っぽい方法になる。何より」

 天城は目を閉じた。それはあたかも誰かの冥福を祈るかのようだった。

「根本的解決に至っていない」

 その声に返事はなかった。

 当然だ。

 別段どうということもなく、普段どおりにいつもの作業を終えてノートパソコンをしまいながら、天城はクラス内を見回した。

 クラスメイトは毎日飽きもせず、結論もなく得る知識もない、同じ展開で繰り広げられる雑談と言う名の議論に花を咲かせている。まあ、それも良いだろう。

 ただ、天城にはあまり関係しないことだ。勉強も、友人も、そんなものは実際のところどうでもいい。ただ、解決しなければならない、しかし誰も気付かない大きな問題が世界にはいくつも転がっているということこそが、彼が生きる上で大きく関わっていることなのだ。その問題を、他人は妄想と呼ぶかもしれないし、事実そうなのかもしれない。

 それでも、

「もしかしたら、このような問題にぶつかって、その被害を受けている者だって大勢いるのかもしれない」

 と思うと、いてもたってもいられないのだ。

たとえそれが杞憂に終わるのだとしても。

「……杞憂、か」

 天城は、真っ白なカーテンのかかった窓のその隙間から、さすがにそれが落ちてくることは考えつかないが、雲一つ無い空を見ようとした。

 やはり、別段面白いことなどなかった。

 だが。その時何故か、ふと視界に入ってきた窓際の机の一つに、違和感を覚えた気がした。あまり話したことのない真面目な男子生徒の座席であり、日当たりが良さそうなので次の席替えで行ってみたい席ではあった。いつもと変わったこともなく、その男子生徒は近くのクラスメイトと週刊誌についての話で盛り上がっている。

 教室は憩いの場、というわけか。

 何となく、天城は苦笑した。

 そして、次の授業の準備に取り掛かる。

 いつものように、やはり別段どうということもなく。

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