六
歩けるようになった。左足を少し引き摺る癖が残った。
水魚に拾われてから丸六年経っていた。破竹はまだ子供だった。水魚は体つきが大きくなり、声も低くなった。
本質的に水魚の暴力性は変わらなかった。破竹はひょこひょこと不器用に逃げた。水魚はそれを見て笑った。酷薄な笑みだった。幼少時の無邪気さは微塵も窺えなかった。
水魚は決して破竹に価値を見出さなかった。何年間傍にいたところで、死を運命付けられた者に情を寄せるような愚を犯さなかった。
その姿勢はこの国において概ね正しかった。だが、破竹を鬱憤の捌け口としたことは決定的な誤りだった。
時に水魚は友人を呼んだ。価値の無い破竹を見せびらかして笑いものにした。破竹は黙って耐えた。
水魚は破竹に石を投げつけ、友人にも同じことをやらせた。破竹は頭を庇って耐えた。
水魚は破竹に冷水を浴びせ、友人にも同じことをやらせた。破竹は唇を震わせて耐えた。
水魚が金属製の棒を持ち出して近付いた。破竹はようやく逃げた。破竹の走る後ろ姿を見て、友人達が弾けるように笑い出した。
診療所に逃げ込んだ。誰もいない部屋を探した。仕事中の鳳には迷惑をかけたくなかった。破竹は水魚と上手くやっていると、鳳を騙していた。騙したつもりになっていた。鳳はとっくに水魚の問題行動を知っていたが、口を挟まなかっただけだ。
鳳は、水魚を諌める言葉を持たなかった。水魚の出自に触れることなく説得力のある論理を構築するのは不可能に思えた。
破竹と鳳のすれ違いは、結果として小さな問題に過ぎなかった。個の価値が個に依拠するように、個の因果も個に依拠する。二人とも異端ゆえ、それを失念していた。
破竹は、水魚への反撃を試みようとはしなかった。破竹が死なない限り、水魚は破竹の命の恩人であり続ける。
代償行為として、乱暴に加わった水魚の友人に手を出した。友人の帰り道を探り出し、罠を編んだ。足先だけ嵌り、引き抜けなくなるような穴を掘った。強酸を注いで待った。
罠にかかった者は、絶叫しながらのたうった。ぐずぐずに溶けた足を引き抜くと、破竹と同じように不器用に走った。破竹はその背に石を投げた。
全員を同じ目に合わせると、水魚の友人は誰も破竹に手を出さなくなった。友人達の足は数週間で快癒していた。破竹は永遠を憎み、不公平を呪った。角の無い額がやけに寂しく思えた。
ある朝破竹は、水魚の絶叫で目を覚ました。居間に急いだ。異変は明らかだった。
水魚の角が、一夜にして半分ほどの大きさに縮退していた。常識では考えられない事態だった。鳳は水魚をとにかく宥め、鎮静剤を打って寝かせた。顔にはさすがに動揺が見られた。
「鳳、水魚はどうしたんだ?」
「わからない。最悪、角を失うかもしれない」
「何故? 価値のない人間から生まれたからか?」
「可能性はある。無価値はやはり価値を生まないのかもしれない」
「それを否定したのはお前だ」
「そうだ。そして水魚は俺の息子であって、俺ではない。さらに言えば、神も俺ではない」
無力だった。
だが鳳は塞ぎ込むようなことはなかった。いつものように仕事に出た。鳳は水魚の父であって、水魚ではない。
破竹は黙って水魚の隣に座っていた。時折目を覚ました水魚は、幼子のように泣いた。破竹をがむしゃらに殴ったが、その手にいつものような力が無かった。
「オレはお前とは違う。永遠なんだ。価値があるんだ。祝福を受けているんだ。塵とは違うんだ」
嗚咽混じりの声は空虚だった。破竹は一度だけ水魚の頬を張った。水魚は呆気にとられたように破竹を見た。
破竹はやはり、黙って水魚の隣で座っていた。何故か涙が出てきた。
次の日になると、水魚の角はさらに小さくなった。鳳は水魚の角の偽骸を設計し始めた。そんなもので本質が誤魔化せるはずは無かったが、見た目の印象は違うかもしれない。苦しい対症療法に過ぎなかったが、無いよりましだった。
水魚に、母親のことを伝えるべきではないか。破竹は鳳に詰め寄った。鳳は首を横に振った。水魚が真実を受け止められるとは思えない。それが答えだった。破竹は不可解な怒りの矛先を探し、迷った。
水魚は食べ物を口にしようとせず、破竹が何を話し掛けても黙っていた。瞳が時折、思い出したように涙で溢れた。
水魚の友人達が訪ねて来た。出迎えた破竹は見舞いが来たと水魚に告げた。水魚は友人達を招き入れ、破竹を部屋から追い出した。
部屋の中から、水魚の縋るような声が聞こえた。オレの角が消えてもお前らは友達でいてくれるよな。オレの価値は消えないよな。破竹とは違うよな。オレはオレだよな。頼むよ、なあ、何とか言ってくれよ……。
破竹は耳を塞いだ。あまりにも酷かった。友人達は声に困惑を滲ませながらもせせら笑っていた。追い返すべきだった。悔いた。
全てが遅かった。
破竹は友人達の帰り際、憎悪を込めた目で思い切り睨みつけてやった。巧みに視線を逸らされた。破竹の憤りは放物線を描いて落ちた。落ちて爆ぜた。
言いようのない悪寒があった。水魚から目を離してはいけないと思った。
仕事を終えた鳳と話し合った。水魚に偽骸の角を付けて、親子を知る者のいない地域に逃れることさえ視野に入れた。
「第六の長老連と繋がりが切れるのは痛いが、背に腹は代えられない」
鳳も破竹も、恐れていることはたった一つだった。水魚が死んでしまうかもしれないという、最大の最悪だけだった。
次の日、水魚の額から角が完全に消えた。
水魚の顔から満たされた印象が掻き消えた。
水魚は一晩で価値を失った。
朝から一言も喋らなかった。鳳はさすがに心配し、診療所を休もうとした。水魚は素振りだけで父親を追い出した。鳳は目線で破竹に後のことを任せた。破竹は僅かに頷いて応えた。
水魚は部屋に篭った。破竹はドアの外で見張っていた。物音がしたらすぐにでも駆け込むつもりだった。
「お前さあ」
室内から、くぐもった水魚の声がした。
「最初からそんな風で、辛くないか?」
どんな風で辛いのかと、聞き返さなかった。
聞き返せなかった。
「別に。自分はこういう者だと胸を張れば、それだけで容易に開き直れる」
嘘だった。破竹の言葉は何の価値も持たなかった。口の端に乗るや否や、ぼろぼろと崩れていくようだった。
空疎な文字列を並べるだけでは、相手に何も響かない。
ならばせめて、相手の側にいたかった。
「今を切り取れば、私は他の人間と同じだ。しっかり生きている。明日にはいないかもしれないし、一年後には腐り果てているかもしれない。それでも、今は生きているのだ」
自分でも、愚かな言説を引っ張り出していることはわかっていた。それでも破竹は言わずに置けなかった。
「だからせめて死ぬまでの間は、自分で自分の価値を認めてやっても良いと思う。私はそう信じる」
どれだけ言葉を重ねても、見苦しい自己弁護にしかならなかった。
破竹を産んだ両親は賢者として楽園で必要とされていた。
一方、破竹は捨て置かれた。
破竹を通して死を見た詩人は神となって聖地で崇められた。
一方、破竹は故意に轢かれて死にかけた。
「……オレは、無価値じゃないんだよな? 生まれてきて良かったんだよな?」
ドアの向こうから、縋るような声がした。
破竹を拾った水魚が、角を失った。
破竹は心底救いたいと思った。
せめて、無価値から価値が生まれると信じたかった。
「当たり前だろう。角が無いくらいで、水魚の本質は変わらない」
言葉は自然に紡がれた。相変わらず中身は空っぽだった。自ら認識してしまうのが余計だった。無知でいられれば自分くらいは好きでいられた。
「これまで、ごめんな」
水魚の声は震えていた。明らかに怯えていた。破竹は逼迫感に喉を詰まらせた。
「でも、オレはお前とは違う」
水魚の呟きは破竹の心を死なせた。詩人の車椅子より余程痛かった。
ドアに手をかけたが、何かが引っ掛かって開かなかった。室内で幾つかの物音が連続した。破竹は咄嗟に走り出した。不自由な左足を痛罵した。
裏口から外に回りこんだ。水魚の部屋の窓が開いていた。中には誰もいなかった。
逃げられた。破竹の頭が真っ白になった。
水魚の行きそうな場所に心当たりは無かった。破竹は滅多に外を歩かない。辺鄙な土地では角の無い体や足を引き摺る姿が目立つからだ。無価値の証がここに来て祟った。
鳳に知らせた。鳳は患者を帰し、すぐに町中を駆けた。破竹は家で待つように言いつけられた。部屋の隅で恐怖に震えた。
後悔ばかりが脳裡をよぎった。腹立たしいほどに間延びした数時間が過ぎた。破竹は何度も過去を反芻し、涙を堪えた。
深夜になって、鳳が戻って来た。
鳳は憔悴し切っていた。ぐったりとした水魚を背負っていた。
水魚の首には細いロープが巻きついていた。
「林の奥で死んでいた」
鳳が告げ、破竹は泣いた。壊れたように涙が零れた。壊れたのは、破竹の価値観だ。
水魚は死んでしまった。
喪失は透明だった。破竹の頭のどこかで、水魚は既に価値を失っていた。
破竹の嘆きは水魚ではなく、不様な自分に向けられていた。その残酷が破竹を苛立たせた。
鳳は悲哀を微苦笑に溶かしてやり過ごしていた。いつものやり口だった。目元だけが真実を語った。
「水魚は無価値だった」
「……親のくせにそんなことを言うな」
「少なくとも、皆がそう思った。たかだか角が消えただけで。死ねるというだけで」
淡々と、死体を顎でしゃくった。挙動の端々から怒りが漂った。破竹は涙を拭いながら動かない水魚を検めた。水魚の体は痣だらけで、出血している箇所もあった。服はぐっしょりと水に濡れていた。
片足が折られていた。
破竹は一瞬放心し、何よりも先に恐怖に囚われた。背中の産毛が逆立つのを感じた。
「水魚は試したんだろう。果たして角の無い自分でも友人達に受け入れられるかどうかを……」
友人に縋りついた水魚の嘆声を思い出した。破竹を突き放した水魚の本音を思い出した。
水魚は結局最期まで、破竹に価値を求めなかった。認めなかった。角のある友人を選んだ。頼った。
傷を舐めあうことを潔しとしなかった。
破竹に言われるまでもなく、自らの価値を自らに信じた。
そして最後の賭けに出て、
負けた。
友人達は水魚を無価値と断じた。
水魚は破竹と同じ目に合わされた。おそらく石をぶつけられた。おそらく冷水を浴びせられた。おそらく金属の棒で打たれた。おそらく折った足を引き摺って不様に歩かされた。
そして、首を括って呼吸を止められた。少なくともそこまで追い詰められた。
角が無くなったというだけで。
破竹の肺が急に暴れた。酸素を欲して震えた。視界が白く閉ざされてふらついた。
もう悪意には安息を覚えない。
眩暈がするほど呪わしい。
「鳳」
「何だ?」
「少し出かけてくる」
破竹は左足を引き摺って歩き出した。
水魚を痛めつけた者に罪は生じない。水魚は無価値の破竹に暴力を振るい、その正当性を信じていた。因果応報の原則は原罪を越える。あの友人達を裁ける者は誰もいない。
水魚は破竹に価値を認めず、虐げ、傷つけ、罵った。だが、それでも破竹の恩人だった。
友人だった。
仇を討つのにそれで十分だった。
「待て」
鳳の鋭い声に、思わず立ち止まった。破竹は両目を拭って涙を切った。文句があるのかと振り返って睨みつけた。
鳳は破竹の視線を意に介さず、水魚をソファに横たえさせた。死に顔を眺めてから、無言で台所に消えた。
戻って来た時、その手には調理用の刃物と太い金属棒が握られていた。
「俺も行こう」
その鋭い瞳が水魚のものと瓜二つだったことに、破竹は今更ながらに気が付いた。
破竹と鳳は水魚の友人達を襲った。夜の闇に悲鳴と怒号が交錯した。動かなくなるまで打擲を加え、角を根元から叩き切った。少しでも治りが遅くなるよう傷口を不潔な布で縛り、細菌に感染させた。
仇を討ったところで、水魚は決して戻って来ない。友人達も怪我ごときでその真価を損ねることはない。
それでも、破竹は復讐を徒労であるとは思わなかった。
水魚の友人達は当然の権利を行使した。暴力による被害を訴え、鳳を裁きにかけようとした。ここでも破竹は無視された。
鳳は、破竹を連れて診療所を捨てた。
官憲から逃げ出した。
水魚の体は連れて行けなかった。代わりに、水魚の角の偽骸を持っていくことにした。鳳が完成させてくれた。
水魚の体は幾つかの品と共に庭に埋めることになった。
何故か、水魚の部屋から母親のフォトグラフが見つかった。机の奥にひっそりと隠されていた。水魚は出自を知っていたのだ。
鳳はそれを見ても何も言わなかった。
ただ、静かに泣いた。
水魚の胸にフォトグラフを抱かせて、体に土を被せて行った。そのすぐ脇には、本物の母の体が埋まっているという。
土の下で横たわる二人に、破竹は祈りを捧げた。死に対して何を祈れば良いのか、見当もつかなかった。母子が揃ったので、せめて賑やかな団欒を願った。
ここにも、永遠があった。
ただし、遅すぎた永遠が。
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