鳳の見立ては正しかった。破竹が補助なしで歩けるようになるまで何年もかかった。大事なリハビリ中に水魚が邪魔をするのが主たる原因だった。

 水魚は価値の無い破竹に容赦しなかった。拳大の石を投げつけるくらいは平気でやった。鳳が仕事でいない昼の間、破竹は過酷な環境下でのサバイバルを余儀なくされた。

 罠を仕掛けることはしなかった。鳳の言葉を鵜呑みにしたわけでもないが、殺伐とした生き方から脱却したかった。普通の乳幼児はそんなに達者に喋らない、と言われれば語彙を極端に減らした。わけもわからずに泣いて水魚を困らせたりもした。それが理由で叩かれることもあったが、破竹に明確な非がある以上、言い訳は利かなかった。小さな諍いは不思議と破竹を温かい気持ちにさせた。

 安らぎの本当の意味も鳳に教わった。凝り固まった体が解れ、首の裏側に刺さっていた留め具が外れたような解放を感じた。破竹は廃棄された人形ではない。間違いなく血の通う人間だ。空想の留め具は呪わしく輝き、血で濡れた根元から朽ちて消えた。

 痛みで頬を緩ませる癖はどうしても抜けなかった。曖昧な表情で弊害も無いので放っておいた。破竹は、痛撃に対して笑いで応える。それは死と無関係であり、破竹のアイデンティティを少しだけ支えてくれた。

 左足は、踝と膝の動きを同期させるタイミングがなかなか掴めなかった。左足の足首から先が一八〇度反転して接続されたような感触があり、違和感に馴染むだけで時間がかかった。無造作に関節を逆方向に捩り、不意の捻挫に何度も苦しめられた。勿論、破竹は笑って誤魔化した。

 ある夜、鳳が水魚に勉強を教えている間に、破竹は歩行訓練と称して松葉杖を片手に家中を歩き回った。

 破竹は、水魚の母親の痕跡を探ろうとしていた。

 鳳は破竹が来る以前から、水魚と二人、父一人子一人の生活をしていたようだ。母親の不在による不便など微塵も感じさせなかった。事実、家族の欠員という決定的な違和に気付くまで、破竹は数週間を要した。

 誰も言い出さなかったので、訊くに訊けなかった。年端も行かない破竹に男女関係の機微などわかるはずもないが、触れてはいけない事柄を察知する嗅覚には優れていた。自身が禁忌のような存在なので、質的に近似する空気は嗅ぎ慣れていた。

 考えるまでもなく、離縁は世間的に覚えが良くない。神の前で誓い合ったはずの永遠の愛を身勝手に否定するのだ。西の楽園では場合によって流刑も辞さないという大罪だ。罰則規定はともかく、神の見届けた誓いを破っている以上、裏切り行為であることは間違いない。伴侶を選ぶという、人生における最重要の選択で、先見の明が無いことを露呈するのも痛恨の極みである。

 鳳がそれを隠したがるのは当然と言えば当然だが、水魚が何も言わないのが解せなかった。夫と妻の間で離縁が成立したとて、子供は母を恋しく思うことはないのだろうか。

 自然、破竹は両親に対して親愛の情など無いから、水魚もそうなのだろうと勝手に考えていた。だが、破竹はここで考えを止めなかった。詩人に飼われていた頃とは違った。

 水魚は破竹とあまりにも思考経路が異なっていた。天衣無縫だった。入力が同じでも、出力が一致するとは到底思えなかった。

 想像力の使い方を覚えていた。

 結局、最後に背を押したのは純粋な好奇心だった。破竹は誘惑に負け、ふらふらと水魚の母を求めた。

 広い家ではない。フォトグラフの一枚や二枚、どこかに隠されていたところで簡単に見つかるに違いない。まさか鳳が全ての証拠を抹消しているとも思えない。

 意気軒昂として探し始めた。

 破竹の見通しは甘かった。

 物理的に手の届かない場所が多過ぎた。どれだけ複雑な思考を操ったところで、破竹の体は小さな子供に過ぎない。

 手の届く範囲で棚を漁ったが、鳳の仕事関係の書類で溢れ返っている。

 二時間で挫折した。

 気は進まないが、水魚と二人の時にそれとなく探りを入れようと決めた。

 振り向いたら鳳がこちらを睨んで立っていた。破竹の全身が強張った。

「……水魚の勉強は?」

「終わった。あいつはもう寝た」

 破竹は射竦められたようにそれ以上何も言えなくなった。

 何をしていたことにすれば最も穏便に済むか、答えを必死に探していた。目が泳いだ。

 謝ってしまえば楽になれる。浅ましい性根が顔を出しそうになった。何も言わずに逃げることすら考えた。馬鹿げた行動が賢そうに見えた。肝心な時に限って脳は空転した。

 鳳が溜息を吐いた。冷たい目尻が柔らかく歪んだ。

「俺の妻のことが気になるか」

 平坦な口調だった。

 どうしてわかったのか。破竹は、恐怖を知った気がした。得体の知れない感情に心臓が縮み上がっていた。

「違うのか?」

 破竹は答えなかった。空想に逃げ込んでいた。松葉杖で鳳をぶったらどうなるか、それだけを考えていた。

 血は、散るだろうか? 破竹には想像出来なかった。

「気になるなら、付いて来い」

 鳳が背を向けた。今がチャンスだ、と誰かが耳元で囁いた。水魚の声に似ていた。

 破竹は松葉杖を振り上げた。

 振り下ろす前に、鳳は廊下に消えた。

 ……助かった。その安堵の正体が破竹にはよくわからなかった。

 破竹は鳳を追った。鳳は隣接した診療所に向かっているようだった。

 月が蒼く夜を照らしていた。破竹は冷たい空気を肺に押し込んだ。緊張の残滓で見苦しく暴れる心臓を制した。

 鳳のことが理解出来ない。

 違う。他人のことなど、理解出来たことなど一度も無い。生まれた瞬間から、不条理に包まれた。破竹は死ぬために生まれた。永遠を知らなかった。

 月明かりの下、鳳が一枚のフォトグラフを持って出てきた。

「妻だ」

 破竹は絶句した。フォトグラフには、婚礼の儀の衣装に身を包んだ若い女が写っていた。鼻の形と口元が水魚と似ていた。優しそうな笑顔だった。

 だが、どう見ても不具だった。その額に角が無かった。

 破竹と同じく、永遠性の象徴を欠いていた。

 価値を持たない女がそこにいた。

「水魚を産んですぐに死んだ」

 鳳は静かに告げた。破竹の背を戦慄が駆けた。

「水魚はこのことを?」

「知らない。妻とは離縁したことになっている。妻は罪人だったと言ってある」

「死ぬ人間と、何故結婚を?」

 価値の無い人間、とは言えなかった。

「今となってはわからない。当時は、死ぬことの中に美徳を見ていた」

「まさか。復元技師なのに?」

「だからこそ、かもしれない。老いた肉を持て余し、若い偽骸にこぞって移る長老連の見苦しさに辟易していた。魂の不滅を神に呪ったことも一度や二度でない」

「鳳は悪魔崇拝者なのか?」

「馬鹿言うな。妻との婚姻は正統だ。異端派ではあるが洗礼も済んでいる」

 鳳は黙って煙草を吸い始めた。破竹は、細い煙を目で追った。清涼な空気に紛れて汚濁が拡散し、消える。小さな奇蹟に触れた。

「死ぬことが出来るお前達の方が、正しいのかもしれない。俺はそんな風に考える」

「正しい? 価値が無いのに?」

 結局、議論はそこに行き着いた。破竹は懐疑主義的ではあったが、最低限崩れ得ない立脚点も意識していた。

「妻は水魚を産んだ。水魚は価値を持つ。妻は、価値を持つ水魚を産んだという価値を持つ」

 鳳は平然と持論を口にした。破竹は痛くもないのに笑った。

「……有名な詭弁だな」

「そうだな。個の価値は個にのみ依拠する。存在の必然性に惑いは無い。個の実在を支える関連を全て辿れば、塵芥にすら価値を見出せてしまう」

 塵芥という言葉の響きに、破竹は共感を覚えた。

「ただ、俺はそれでも良いと思っている。朽ちるものに価値を見出さないのは、永続の中にある者の傲慢だ」

「だから、死を内包する私を拾ったのか?」

「それもある。無価値に価値を見出すことは罪に問われない。ほんの些細な反逆だ」

「鳳は変わっている」

「お前ほどではない」

 鳳はフォトグラフを診療所に戻し、咥え煙草で引き返してきた。

「戻ろう」

 二人は歩き出した。鳳は破竹に合わせて足取りを緩めた。

「水魚にはこの件、黙っておいてくれ」

 破竹は了承した。伝える気など無かったし、伝えたとして水魚が聞く耳を持つとも思えなかった。

 石畳を杖で突く音が冷たく跳ねた。

 何度も跳ねた。

 秘密の共有は肌にざらついた。

 両足で歩けるようになったらどこに行こうか。破竹は鳳の背中を見ながら考えた。

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