四
破竹は目を覚ました。
冷たい瞳をした若い男と視線がぶつかった。
「直ったぞ」
ぶっきらぼうに言って、若い男が誰かの名を呼んだ。横臥する破竹に向けて駆けて来る慌しい足音が聞こえた。
「食べてから来い」
「嫌だ。今見る」
破竹の視界に幼い少年の顔が飛び込んだ。飯粒を頬につけ、もぐもぐと口を動かしている。破竹は反射的に、この子供を死なせる策を練り始めた。
満たされていることは、一目でわかった。
「オレ、水魚。よろしくな」
水魚は値踏みするような目で破竹を見た。価値の無いことは一目瞭然だった。破竹はついと視線を逸らし、切れて熱を持った唇を小さく動かした。
「破竹だ。よろしく」
挨拶が口を突いて出た。必ずしも、水魚と対等であることを望んだ訳ではなかった。言葉に出来ないものを求めていた。破竹にわかるのはそこまでだった。
水魚は瞠目して破竹の顔を窺った。横にいた若い男がその肩に手をやる。
「水魚、驚くことはない。この大きさまで成長していれば、ある程度の自我は芽生えている。会話が成立することも許容範囲内だ」
男は水魚を宥めるように言った。破竹にも、自分が通常の知性の枠組みを大きく逸脱している自覚は無かった。死に特化して肥大した自意識は、この年齢において明らかに異常であったが。
水魚は困惑を顔に残したまま、首を横に振った。咀嚼中の昼飯を嚥下してから呟く。
「こいつにも名前なんかあるんだ、って思って」
破竹は故郷の匂いを思い出した。郷愁に浸って癒されようとする心根を砕くように、全身の傷が一斉に痛み出した。おかげで破竹は狂気の渦から無事に抜け出した。水魚を睨みつけた。口を開きかけた。
「無駄な手間が省けたじゃないか」
破竹の機先を制すように若い男が笑った。破竹は黙った。永遠性に裏打ちされた禍々しい笑みだったが、その頬と目元に夾雑する哀切が不可解だった。
「しばらく出る」
男が、水魚と連れ立って出て行き、破竹は一人残された。痛みの中で、漠然と祝福を待った。自分の生存を祝ってくれる掛け替えのない誰かを求めた。肝心の祈りは埃と一緒になって空中に淀んだ。どこにも届きそうにない。
逃げるように眠りに落ちた。瞼の向こうから誰かが自分を見詰めているような気がした。その誰かは妄想の中ですら破竹を受け入れてくれない。
破竹は価値を持たなかった。
詩人に轢かれた破竹は、しぶとくこの世に食らい付いた。破竹自身にすら意外だった。
屍になり損ねた破竹の前を偶然水魚が通りかかった。腕白盛りの少年には、正常な価値感覚など通用しない。
殊に、芸術など以ての外である。水魚は、破竹のすぐ横で朗々と謳い上げられていた珠玉の詩篇に露ほどの興味も払わなかった。
襤褸切れのように転がっていた破竹の裾を持ち、戯れに引き摺って駆け回った。掴んだ手が血にまみれても気にしなかった。
水魚はがむしゃらに笑った。邪気の無い笑顔だった。
水魚は破竹を父親と宿泊している部屋に連れ帰った。父親はぐったりした破竹を一瞥し、どうしたんだこれ、と咎めるように訊いた。厄介ごとを持ち込みやがって、とその目が雄弁に語っていたが、予想より寛容な態度だった。
「拾った。壊れてるから直して」
「こいつは壊れているんじゃない。死にかけているんだ」
「死にかけている、って何?」
「俺達が気にする必要のない言葉だ」
「父ちゃんでも直すの無理?」
「いや、そんなことはない」
水魚の父親は、清潔なシーツが汚れるのも構わず破竹の体をベッドまで運んだ。
「俺に直せない躯はない。飯でも食いながら待ってろ」
ずたずたになった破竹の足に、炎で炙ったナイフが当てられた。男は手際良く、躊躇することなく破竹の治療に当たった。その顔には、破竹が後に感じた哀切が既に染み付いていた。
破竹がその次に目を覚ましたのは、さらに別の場所でだった。見上げる天井は未知で彩られていた。
「父ちゃん、破竹が起きたよ」
水魚が破竹の頬を突付いて遊んでいた。ガーゼを当てられた傷口に好んで触る無神経さに辟易したが、動くのが億劫だったので堪えた。鼓動に合わせてリズムを刻む痛みと、熱に浮かされたような倦怠感が破竹の体で覇権を争っている。
水魚の父親が現れ、破竹の上半身を起こしてくれた。慎重な動きだったが、至る所に電流のような痛みが走った。本能的に頬を緩ませた破竹を見て、父親が不審そうに片眉をあげた。
「食え」
小さな椀が差し出された。残飯をミキサーで掻き混ぜたらしい、柔らかい粥状の食事が入っていた。歯の生え揃わない破竹にはありがたかった。
「気持ち悪。もっとまともなもん食わせた方がいいんじゃないの」
「お前は黙ってろ」
親子で争う二人を後目に、破竹は匙で椀の中身を掻き込んだ。痛みで味などわからなかったが、ささやかな幸福が喉を流れて落ちるのを感じた。
まだ、生きている。
特に執着していなかったはずの生が、無性に胸に染みた。理性よりも下位の部分で、埋められない欠落をようやく認識したのかもしれない。
破竹の中で、幼い均衡が崩れ始めていた。
「ここはどこだ?」
人心地がつくと、ぞんざいな口調で尋ねた。水魚の父も、それに劣らぬ冷徹さで返した。
「うちの診療所だ」
「聖地での診療所・病院の開設は違法のはずだが」
「乳幼児の分際で利いた風なことを言うな。ここは聖地から南に十里ほど外れている」
「そうか」
「先に断っておくが、俺は医師ではない」
「復元技師か」
「その通り。基本的に生身は専門外、お前に施したのも無免許治療だ。悪く思うな」
「結構。それで十分だ」
突然、膨れ面をした水魚が、難しい話ばっかでわからん、と叫んだ。疎外感を短絡的に怒りに変え、感情エネルギーでタービンを回し、どこかへ走り去ってしまった。
「追わなくていいのか?」
水魚の父は睨むような目で扉を見、肩を竦めただけだった。
破竹は糸が切れた人形のように、ベッドに横になった。慣れないことはするものでない。言葉を吐き出すたびに、体の隅々まで倦怠感が行き渡る。その分痛みがなりをひそめてくれるのは不幸中の幸いだった。
「歩けるようになるまでどれくらいかかる?」
カートで押し潰された左足を思い出した。ギプスでも巻かれているのか、感覚が無かった。
「杖無しでという意味でなら、五年は見ておいたほうが良い」
「五年? 五週間の間違いでなく?」
「全身打撲の方は一ヶ月もかからず治る。何せお前は究極的に若いからな。だが、徹底的に破壊された足はそうは行かない。そもそも俺は復元技師だ。偽骸を直すのが本分で、怪我を治すのは埒外だ」
「まさか、直せなかったのか?」
「安心しろ。復元技師でも出来ることはある。偽骸を造る時間が無かったので、千切れた神経系統を生体内で機械的に接続し直して対応した。配列が従来と異なるため、可動域も変わるし動かし方も変わる。それに慣れるまでかなり時間がかかるだろう、というだけの話だ。歩き始めて何ヶ月と経ってないお前なら、必ず適応出来る」
破竹は、黙って瞼を下ろした。寝返りさえ満足にうてない。怪我には慣れていたつもりだったが、後遺症のようなふてぶてしさが伴うそれは初めてだった。
「行く当てが無いなら、しばらくここにいて良い。水魚の遊び相手くらいは出来るだろ。乱暴な奴だから一緒にいると生傷は絶えないだろうが、死ぬよりは余程ましだ」
破竹は、死という言葉に反応してのろのろと目を開けた。首の向きを変えて水魚の父を眺めやる。
「そういえばそうだ。どうしてわざわざ価値の無い人間を助けた? どうせいつか死ぬんだぞ。無駄骨だ」
水魚の父は、それを聞くと口元だけで笑った。その笑みは永遠性を備えているが、それと裏腹なアイロニーがべったりと張り付いていた。泥地に屹立した塔でも見ているような、倒壊の不安に襲われた。虚飾はすぐにでも剥がれ落ちそうだ。
「乳幼児は、そんな難しいことを考えなくて良い。寝て、泣いて、飯食って、笑顔振り撒いて周りの人間を和ませてれば良いんだ」
答えになっていなかったが、破竹は何故か素直に納得出来た。感謝という概念をよく知らなかったので礼は言えなかった。柔らかく温かい膜に包まれて、宙を浮かんでいるような心地だった。
居場所を見つけた。
破竹はおそらく、この時初めて地上に生を受けた。そう思えた。
「名前を教えてくれ」
破竹は、何の不安も無く眠りに吸い込まれていった。この落下感が永遠に続けば良いのに、と身に余る願いが頭の片隅で疼いた。
破竹は死を内包している。
それでも今は生きているのだと初めて気が付いた。
まどろみの中、まだ若い復元技師の男が呟くのが聴こえた。
「鳳」
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