三
破竹は詩人に連れられて楽園を後にした。西進し、第六聖地を目指した。道すがら、破竹という名前を貰った。破竹と塵芥という不条理な二択を迫られた結果だった。
悪意は感じなかった。慣れ親しんだ空気に触れて、肌が粟立ち呼吸が荒れた。それが安心感だと破竹は教えられた。疑う理由も無かった。安らぎすら偽られた。
泣くしか能の無い破竹は、無知に救われた。無垢を盾にした。
詩人は時折、破竹を置き去りにした。宿場町の四里手前を示すポールに手探りで気付くと、決まってその根元に破竹を捨てた。自立歩行の出来ない破竹を持ち運ぶための、籐で編んだ籠も一緒に投棄した。振り返ることもなく駆けた。木の根に足を取られて何度も転げていたが、気にせず逃げた。
詩人は絶対に破竹を迎えに来なかった。破竹が泣いていると、通行人は僅かに眉を顰めた。しかし破竹の顔を見て、破竹が死を内包した無価値な存在であることに気付くと、すぐに興味を失った。路傍の石を大切に掻き抱く狂人はいなかった。東の楽園に近いというだけで、民草の人間性も洗練されている。
初回こそ無為な二週間を過ごしたが、破竹は軒並み適確な対応をした。寝床である籠を引き摺りつつ、這って宿場町まで進む。疲れ果て動けなくなれば、籠の中で休む。単純な反復動作で済んだ。
手足は擦り切れてぼろぼろに傷付き、膿んで赤黒く色を変えた。じめじめと鈍く痛んだ。思わず破竹は頬を緩めた。他人からは笑っているように見えた。破竹には何の打算も無い。街道沿いに血とリンパ液の跡を残した。孤独を抱いた。
宿場町に着くまでに輪郭が変わるほど痩せ細った。破竹がもう少し賢ければ死んでいた。死を解してさえいれば、間違いなく破竹の体はそれを選んでいた。
泣き笑いの表情で這う破竹は、詩人を見つけるとその足に縋りついた。必死で注意を引いた。
詩人は必ず、幼い少女を買い上げて好き放題楽しんでいた。破竹に気付くと、一緒に居た少女は決まって悲鳴を上げた。性を解放されたばかりの彼女らは、その対極にある破竹を異物として認知し、拒絶した。詩人は、発狂を間近に控えた彼女らに冷静な質問を投げかけ、貪欲に死の内幕を漁った。
試問が済むと、少女は詩人から崇高な詩を幾篇か受け取り、脳病院に走る。二者間には簡潔にして正当な取引が認められ、糾弾の余地は無い。
無価値に価値を見出すことに罪は無く、罰も無い。
詩人は破竹を抱き上げて治療を施し、食事を与えた。破竹は傷を癒し、腹を満たした。詩人を怨むことはしなかった。消毒液の匂いと離乳食の舌触りで全てが水に流れた。
詩人は貪るように食う破竹を食器の音から察し、笑い、そして詩を書いた。叙情的な四行詩は最低でも宿代一年分に匹敵した。詩人はそれを惜しげもなく宿の主人に振る舞い、破竹を抱えて町を後にした。どの宿場町でも大同小異なやり取りが繰り広げられた。
破竹は籠の中でようやく安眠にありついた。詩人は子守唄に乗せて愛の詩を囁いた。意識の無い破竹にはその価値がわからず、全てを聞き流した。金剛石を溝に放るような真似を懲りずに繰り返した。破竹には分不相応だったのかもしれない。
第六聖地に辿り着くまでに二年かかり、破竹は二本の足で歩くことと話すことを覚えた。置き去りにしてもすぐに追いつくので面白くない。詩人は心底嘆いた。支離滅裂な言葉を口にする破竹に苛立ちを覚えることも多くなった。
覚束ない足取りながら、破竹は時に盲いた詩人よりも早く走った。遥かに先行し、巧妙な罠を仕掛けて詩人を待った。
詩人は罠にかかり見苦しくもがいた。鋭く尖らせた竹筒に体を貫かれて血を吐いた。破竹は言った。
「失敗だ」
罠は正常に作動していた。失敗と断ずる理由はどこにも無いように思えた。
科白を聞いていた詩人は回復を待って真意を問い正した。支離滅裂な単語の継ぎ接ぎが返ってくると高を括っていた。しかし、破竹は屈託の無い表情で答えた。
「お前は罠に囚われ死ぬはずだった」
死を内包する破竹は、持て余した概念を無軌道に外へ向けていた。永遠を約束された詩人に対して、あまりにも傍若無人な態度だった。赤子同然の未熟さゆえ、破竹は他者を、自己を投影することでしか把握出来なかった。想像力の使い方を知らず、自他の別なく自らの経験を当て嵌めて物を語るのが万能と信じていた。異端者にありがちな盲信を常とした。
詩人は静かに怒った。破竹を柱に括って火で炙り、道徳の観念を教え諭した。傲慢を改めるよう促した。暴力の無い辛抱強い説得が続いた。
破竹は大声で喚きたてるばかりで、一向に話を聞こうとしなかった。個としての死を頑として受け入れようとしない。運命を共にしてくれる虚構の存在への甘えが見られた。永遠を求める刹那的な欲望に身を任せていた。詩人の迷惑を顧みず全てに抗った。恩を二倍にも三倍にもして仇で返した。
詩人は好悪の感情に振り回されるのを良しとしなかった。そのため懸命に自分を抑えたが、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
「お前を死なせてやる。それしか能のない無価値なお前を。今すぐにだ。私の全てを賭けて、屠ってやる。目を瞑れ。祈れ。あらゆる生命に謝れ。お前の傲慢さで侮辱を受け、尊厳を傷つけられ、汚された者達の憤りをその身に刻め。全身全霊を込めて償え」
刃は振り下ろされなかった。
罵倒の言葉に価値が付かなかったことで、詩人は我に返ったのだ。
詩人の本懐からこの場所は遠過ぎる。美は、行き場のない情熱には決して追従しない。正統性の指標はその身の内、確固たる信念となって細胞単位に浸透していた。意識などせずとも常に同道していた。詩人は己を律するために美の前に膝を折り、高空に剥き出しの魂を晒して客体と化した。
密にして疎。疎にして密。偏在と遍在を併存させた『我』の境地。
破竹には不可知の領域だった。
詩人は嘆息し、諦念をもって答えとした。何も知らない破竹に憐れみを教えてやった。憐れむ価値すらない破竹にあえてそれを向けた。破竹は卑屈になることなく受けた。
破竹は無知であり、無恥だった。愚かと括るには幼さが不釣合いだった。
罠は繰り返された。物理的な仕掛けは高度に複雑化した。幼児の手になるとは到底思えない代物が多数完成した。
だが、そこまでだった。目的を達成出来ていない以上、それらは全て破竹にとって失敗作であり、無用の長物であった。ひねりのない反復は無策の一言に尽きた。役に立たないまま朽ちた。
死は単独では何物をも生み出せない。
詩人は一度として破竹の罠を避けず、結果として第六聖地に至るまでに四肢を全て失った。勿論、本質的価値は貶められていない。詩人の紡ぎ出す僅か一行の言葉で、身の回りの世話をしたがる老若男女が両の手で足りぬほど現れた。一方破竹は、どれだけ気を引こうとしても完全にいないものとして扱われた。
詩人と破竹は異なる次元を生きていた。
第六聖地で最初に宿泊したホテルで、破竹は下膳の食器を乗せるカートに左足を潰された。カートを押していた若い娘はそ知らぬ風で通り過ぎた。偽りの安らぎが甘く漂った。脹脛が内側から破裂したように捲れ上がった。吹き出す液体で絨毯が赤く穢れた。震える指先が凍りついたような痺れを訴えた。
破竹は意識を失う寸前まで、詩人を死なせる算段を考えていた。涙と冷や汗に滲む視界に、詩人の車椅子が見えた。車輪は全速で回転を続け、車体が破竹に迫り来た。
恐怖は無かった。恐怖を知らなかった。
顔面に衝撃が炸裂し、破竹は暗黒の中に飲まれた。理解しつつあった死を覚悟した。失い、喪われる自己を世界に位置付けた。過去、現在、未来を越えて空を掻いた。心臓を中心にして虚が拡大し、血管壁を小さな泡が撫でた。静寂が全感覚を支配した。
詩人は最後にとっておきの別れの詩を披露した。破竹との旅の中で死への深い洞察を得た詩人は、ここに飛躍的な発展を遂げた。覚醒を感じた。至上の詩が綴られて行った。声は光を帯び、言葉は聖性に溢れた。行間から抑え切れない絶対的真理が迸り、一言一句が理性的に永遠の完全性及び自己の完全なる永遠性を肯定した。三文字目で国を一つ賄えるほどの価値を生み出し、以降は一文字ごとにそれが倍になった。
第六聖地に現人神が降臨し、誰もがこれを崇めた。詩人は名を改め、自らの転生の瞬間を何度も証言し、民を心酔させた。煌きを直鎖に並べた心地の良い神託は万人を貫き、あらゆる苦悩を消滅させた。
その口から破竹の名が出ることは金輪際、無い。
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