回転猿②

 果実の匂いが鼻腔を満たす。脱色された風景に、一瞬だけ光が宿る。頭には、常に薄もやがかかったようだった。ずっと不安が脳を埋めて、疲弊しきっている。その中に垂れる甘い汁は、どんな目薬よりもよく効く。

 猿たちの群れは、はたから見ると茶色の塊が一つの命をもって動いているようだろう。その一部になって初めてわかったが、どうにも彼らは規則正しい。流れにさえ逆らわなければ自分のようなよそ者にも寛大で、何事もなかったように、彼らの日常が動いていく。自分の定位置に、また舞い戻る。岩陰に居心地の良い場所を見つけたのだ。壁とベッドの隙間に挟まっているような快感がある。

 また携帯を取り出して、充電残量を確かめる。都度確認していると、余計に充電が目減りしていくだろう。ただそれが何かカウントダウンのように感じられて、続きを確かめずにはいられなかった。また少し、充電が減っている。充電が減った旨、通知が飛ぶ。わかりきったことに残り少ない充電が費やされたことを疎ましく思う。ただ、そのような姿を見ることもこれが最後かもしれないと思うと、愛おしく思えてくる。

 猿山の前には、時折人の姿が見える。彼らは千いくらの入場料を払って、このモンキーパークを訪れている。当然ながら、外にいる誰にも、自分の存在は認知されていない。あるいは、認知されていながらも見過ごされている。レンズをいくらか挟めば、世界は歪曲して見えるだろうか。ボールの帰ってこないキャッチボールほどむなしいこともないのだ。

 自分もかつては、柵の向こうがわの存在だったはずだ。まだ、四日しか経っていない。それでも、はるか昔のことのように思える。我が家がどこにあったかも、もう忘れてしまいそうだ。自分が一人で来たのか、あるいは誰か友人と一緒だったように思う。彼はどこに消えただろう。無事に家に帰れただろうか。彼が、自分をこの猿山から救い出すための道しるべになってくれたらよかったのだが。四日、音沙汰がない時点で、もはや望み薄だ。またあるいは、彼こそが自分をこの猿山に閉じ込めた張本人なのかもしれない。

 腹が満たされると眠気がやってくる。空間を満たす獣の匂い、砂粒のこすれる音、すべてが自分になじんでいる。今はただ、この手に握る携帯電話と、この輪郭だけが、過去を証明してくれる。自分がどこからやってきたのか、この場にいることが、如何に場違いなのか。

 自分だけは、見失ってはいけないと予感している。足場がぐらついたら、もうここから帰ることは絶望的だろうからだ。

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