第23話 サーシャの直談判(前編)
神殿にいたカトリーナの耳に、人々のざわめく声が届いた。
次第にその声が近付いて来たかと思うと、カトリーナのいる部屋のドアがバタンと開く。
驚いてドアを振り返ったカトリーナに向かって、小走りに部屋に駆け込んで来た一人の少女が口を開いた。
「カトリーナ様って、貴女なの?」
「ええ、私ですが……」
肩で息をしている少女は、どうやら神殿内を駆けて来たらしく、その額には軽く汗が滲んでいた。
カトリーナに会いに来る人々は、事前に約束をしているケースが大半だ。さらに、神聖な場所である神殿内を息せき切って走るということも、余程の事情がない限りは認められるものではない。
にもかかわらず、彼女の後にはばたばたと足音が続いた。
「お待ちくださいっ」
「どうか、落ち着いてくださいませ……!」
自分を追い掛けてきた者たちを振り返って、彼女は、その可憐な容姿に似合わず、キッと鋭い視線を彼らに向けた。
「いい加減にして! 放っておいてって言っているでしょう」
年の頃は十七、八歳と思しき瑞々しい外見からは不相応にも感じられるほどに、威厳のある凛とした声だった。その厳しい口調に、彼女の後を追い掛けて来た者たちは思わず足を止めた。
カトリーナは、少し戸惑いながら彼らを見つめた。
「あの、どうなさったのですか?」
「私の話を聞いて欲しいの、カトリーナ様。恋愛ごとの相談なら、貴女以上に信頼できる方は他にいないと、そう聞いているわ」
真剣な瞳に必死な色を浮かべた彼女は、そうカトリーナに告げると、手にしていた一通の手紙を彼女に手渡した。それは、一種異様にも感じられる、墨に浸したような漆黒の封筒だった。
封筒を受け取ったカトリーナの表情が強張る。
(これは……)
硬い顔をしたカトリーナが視線を上げると、彼女は了承を示すようにこくりと頷いた。
「ええ、中の便箋も見てちょうだい」
カトリーナがそっと便箋を取り出して開くと、そこには、新聞や雑誌から切り取ったように思われる文字が並べて貼り付けられ、一つの文章を形作っていた。
『貴女様のお命は私のもの』
物騒な内容の手紙に険しい表情を浮かべたカトリーナに向かって、彼女は続けた。
「お願い。この手紙の差出人を探し出して欲しいの」
「人探し、ですか。……どうして、貴女様は私のところにご依頼にいらしたのです?」
恋文というよりは、殺人予告といった方が遥かにしっくりとくるようなその手紙を握り締めて、どうやら恋愛相談に訪れた様子の少女に、カトリーナは不思議そうに目を瞬いていた。
彼女は微かに苦笑した。
「貴女の疑問も、もっともだけれど。その質問の答えを一言で言うなら、こうなるわね。その手紙の差出人が私の運命の人だと、そう感じたからよ」
「……!」
彼女の言葉に目を丸くしたカトリーナの耳に、彼女の背後から追い掛けてきていた二人の男性たちの呻くような声が届いた。一人は片手で顔を覆い、もう片方は深い溜息を吐いている。
彼らの様子には構わず、少女は続けた。
「私、実はその人に会っているの。……自己紹介が遅れたわね。私はサーシャよ」
「サーシャ様、ですか。もしかして、貴女様は……」
「ええ、この国の姫よ」
やっぱり、とカトリーナは思った。人目を忍んでか、彼女が纏っている服は装飾の少なく目立たないものではあったけれど、それが上質なものであることは一目でわかった。若くして漂う風格も、姫と言われれば納得がいく。国王と王妃の間には王子たちが生まれているほか、二人いる姫のうち、姉に当たるのが彼女だった。
彼女が人前に姿を現す機会はそれまであまりなかったため、十八歳で成人の儀を迎え、国民の前でお披露目をするまでは、交流のある一部の貴族たちを除いて、その顔を知る者はさほど多くはない。
カトリーナは幼い頃に一度だけ彼女に会ったことがあったけれど、成長した彼女の顔を見るのはこれが初めてだった。彼女は慈善事業に熱心に取り組んでいるようで、お忍びで下町に出向いては、貧しい人々の話に耳を傾けたり、施しを行ったりしているらしいという噂は耳にしていた。
彼女の従者か護衛と思われる二人の男性が、彼女の後ろから、苦虫を噛み潰したような顔で口を開いた。
「姫様。神官様相手に、そんな無茶苦茶な相談事など持ち込むべきではありませんよ」
「そうですよ。それに、そんな後ろ暗い者を運命の人だと感じたなどと、お父上が知ったら、どれほど嘆き悲しまれるか。姫様の身に危険があったというだけで、非常にご心配をなさっているというのに……」
王家の内部でも、これはほんの一握りの者しか知らない極秘事項なのだろうと、カトリーナにも容易に想像がついた。
「この封筒は、近頃噂になっている、例の暗殺組織からのものなのでしょうか」
カトリーナの問い掛けに、彼は厳しい顔で頷いた。
「ええ、ほぼ間違いないと言ってよいでしょう。ただ、最近起こっていた事件との違いは……」
「サーシャ様が、今もこうして生きていらっしゃることですね」
このところ国で暗躍しているという暗殺組織の話は、カトリーナの耳にも入って来ていた。
ターゲットの元には、それを実行したのがその組織であることを示すように、サーシャが手にしていたのとよく似た真っ黒な封筒が、毎回残されているのだという。その中身も、どれも似たような内容で、通常はすべてが終わった状態で手紙が発見されるのだ。
騎士団でも、その黒幕を追及するために動いているという話だったけれど、まだ尻尾を掴めてはいなかった。ただ、信頼性の高い情報として、一案件につき一人の暗殺者が動くようだと言われていた。その案件に失敗すれば、当人は責任を取る形で組織に消されるらしい。
高位貴族には狙われる者が出ていたものの、王族がターゲットになったという話はこれが初めてだった。
サーシャは、思い詰めたような表情をカトリーナに向けた。
「お願い、彼を――この手紙の差出人の命を、助けて欲しいの。彼は、私の暗殺に失敗した今、組織からも、そして王家の者たちからも追われているはずよ」
「……サーシャ様。焦っていらっしゃるのはわかりますが、まずは順を追って状況を教えていただいても?」
「そうよね。これじゃ、私が何を言っているのか、よくわからないわよね」
ふっと小さく息を吐くと、彼女は気を取り直してカトリーナを見つめた。
「私が彼に会ったのは、二日前のことよ。私はあの日、お忍びである貧しい町へと出掛けていたの。いつもの通り、周囲には一般の人に扮した護衛たちがいたし、特に危険があるようには思わなかったわ。……でも、立ち並ぶ建物の陰に入った時、突然、鋭い殺気のようなものを感じて振り返ったの。そこにいたのが、彼だった」
「彼、というのは、その手紙の差出人のことですか?」
「ええ。いつの間にか、彼は護衛たちの間をすり抜けて、私に触れそうな距離にまで近付いていたわ。でも、振り向いた私と目が合った彼は、なぜか凍り付いたように固まって、携えていた刃物で私を刺す代わりに、この手紙を落とすと立ち去って行ったの」
「そうだったのですか……」
カトリーナは、まだ手の中にある黒い手紙に意識を向けてから、それを彼女に返した。
「どうして、彼を運命の人だと思われたのですか?」
サーシャは、大切そうにその手紙をそっと握ってから、視線を上げてカトリーナを見つめた。
「貴女なら笑わないでくれるような気がするから、正直に話すわ。ああ、この人なんだって、彼と目が合った瞬間にピンときたの。……彼も、何かを感じていたように見えたから、私と同じ想いでいてくれたならって、そう願っているのよ」
頷いたカトリーナに向かって、切なげな表情を浮かべたサーシャは続けた。
「彼がこの手紙を落としたのも、私の暗殺に失敗したからではなくて、あえて、私に今後の身の危険を知らせるためだったんじゃないかって気がするの。あの時、彼は確実に私を殺せる場所にいたのに、それをしなかったのだから」
彼女の後ろに控えていた男性の一人は顔を顰めると、思わずといった調子で口を挟んだ。
「姫様、それはないでしょう。姫様に存在を気付かれて、慌ててその手紙を落として立ち去っていったと考えるほうが自然では……」
「貴方は黙っていなさい」
ぴしゃりとそう言ったサーシャは、カトリーナを見つめた。
「彼はとても……美しい人だった。私と年もそう変わらないようだった彼は、珍しい銀色の髪に、悲しそうな青紫色の瞳をしていたわ。私、どうにかして彼を助けたいの。ただでさえ時間がないのはわかっているけれど……できることなら、私がこうして自由に動けるうちに」
カトリーナの瞳が、興味深そうに輝く。しばし考えを巡らせてから、彼女はサーシャに尋ねた。
「貴女様の成人の儀は、もうすぐでしたよね?」
「ええ。私が十八歳の誕生日を迎えるまで、あと十日しかないわ。その誕生日に、私は成人の儀を済ませ、婚約者を発表することになっているの」
「サーシャ様の婚約者とは、ダルトン侯爵家のテレンス様のことですか?」
「ええ、よくご存知ね。……私、あの方が大っ嫌い」
嫌悪感を滲ませながらそう言った彼女の姿に、後ろで控えていた二人は溜息を吐いていた。
「いくら政略結婚だって、あんな人と結婚するのは死んでも嫌。この前会った時も、いきなり私の手を握ってきたから、頬を引っぱたいてやったわ。年齢が一回り以上離れているとはいえ、綺麗な顔立ちであまり年を感じさせないのだけれど、何だか胡散臭くて、あの人が近付くと身の毛がよだつのよ……」
静かにサーシャの話に耳を傾けていたカトリーナに、彼女は改めて言った。
「まとめると、私の依頼はこうよ。この手紙の差出人を見付けて、無事に救い出して欲しいの。そして、私がテレンス様との婚約を解消して彼と婚約できるように、手を貸してもらえないかしら」
彼女の背後で、二人の男性は、そんなことは絶対に無理だろうと呆れたような表情を浮かべていた。けれど、サーシャの瞳は真剣そのものだった。
カトリーナは、真っ直ぐにサーシャを見つめ返した。
「できる限りの手は尽くすと、お約束いたします。……サーシャ様の感覚は、かなり鋭いようにお見受けします。そして、貴女様は運命を強く信じていらっしゃる。その理解で合っていますか?」
「ええ、その通りよ」
「サーシャ様にお願いがあります。彼を助けるためには、きっと貴女様の力をお借りすることが必要になると思います。その時は、ご協力をお願いできますか?」
サーシャの後ろの二人は渋い顔をしていたけれど、彼女はすぐに頷いた。
「ええ、もちろんよ。私にできることがあるのなら、喜んで何でもするわ」
「では、サーシャ様が彼に再び会うことが叶ったなら、彼に貴女様のそのお気持ちを告げてください。『私の運命の人は、貴方しかいない』と」
サーシャの瞳が希望に輝き、その頬が紅潮した。彼女は初めて笑顔をカトリーナに向けた。
「わかったわ。ありがとう、カトリーナ様。……神官様に相談したいと言っても、誰も私の話に耳を貸してはくれなかったけれど、貴女のところに直談判しに来てよかった。期待しているわ」
控えていた二人の男性たちを従えて去って行く彼女の背中を見つめながら、カトリーナは、ずっと以前にこの国で大きな話題になった、ある一つの事件を思い起こしていた。
(もしかしたら、サーシャ様がお探しの彼は……。間に合うとよいのだけれど)
サーシャたちの姿が視界から消えると、カトリーナはラウルを探しに、足早に部屋から出て行った。
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