第21話 トムの願い(前編)
カトリーナは、街から神殿へと戻る道を歩いていた。神殿に続く一番の近道は、途中で小さな公園を横切るルートだ。カトリーナが公園の噴水の横を通り過ぎた時、彼女の足元にひらりと一枚の紙が風に吹かれて飛んで来た。
(これは……手紙?)
不思議に思ったカトリーナがその紙を拾い上げると、近くのベンチから、一人の青年が慌てて彼女の元へと駆けて来た。
「すみません、それは僕のものです。その手紙を読んでいるうちに、ちょうど吹いて来た風に煽られて飛ばされてしまって……」
「そうでしたか」
カトリーナがその手紙を手渡すと、青年は小さく頭を下げた。青年が思い詰めた表情をして、青ざめてその瞳を潤ませていることに気付いたカトリーナは、思わず彼に尋ねた。
「あの……何かあったのですか?」
「それは……」
青年は、カトリーナから受け取った手紙に視線を落とすと、肩を落として力なく笑った。
「実は、ずっと想い続けていた女性の婚約が決まったと、そう聞いたところなのです」
彼は視線を上げると、公園の木々の合間から覗く、一軒の大きな屋敷を指差した。
「あの家に住む貴族には、一人の息子と二人の娘がいるのですが、その姉妹の姉のほうが僕の幼馴染であり、そして想い人なのです。かつて、彼女とは将来を約束していました……口約束に過ぎませんでしたが」
どこか遠い目をして話す彼に、カトリーナは静かに頷いた。
「彼女も僕も伯爵家の生まれですが、僕は次男なので家を継ぐことができません。僕は、独り立ちできたら彼女を迎えに来ると約束して、海外との貿易事業を成功させるために、ここ数年は海外を飛び回っていたのです。事業が軌道に乗り、急ぎ彼女に婚約を申し入れるためにあの家を訪れたのが、つい先程のことでした」
「そうだったのですね……」
「ですが、もう手遅れでした」
青年は悔しそうにぎゅっと唇を噛んだ。項垂れる彼を見かねたカトリーナは眉を下げると、彼と並んで近くのベンチに腰掛けた。
彼は、申し訳なさそうにカトリーナに向かって口を開いた。
「こんなことを、初めてお会いする方に聞いていただいてすみません」
「いえ、大丈夫ですよ。……貴方様が手にしていらっしゃるのが、その方からの手紙なのですか?」
「はい。彼女の家を訪れた時も、会うことすら叶わずに、彼女の義母に追い返されてしまいました。その時に彼女からだと手渡されたのが、この手紙でした」
「追い返されたのですか、幼馴染だという貴方様が?」
首を傾げたカトリーナに、彼は頷くと続けた。
「ええ。実は、彼女はまだ幼い頃に実母を亡くし、後妻が入って、彼女の妹と弟は腹違いなのです。僕がよく彼女と遊んでいたのも、彼女の実母が存命だった時ですね。家の中を実質的に仕切っているのは彼女の義母のようで、彼女の表情が翳りがちだったのを、以前から心配していたのですが……」
一度言葉を切ると、彼は苦々しく続けた。
「彼女の嫁ぎ先を聞いたら、父親ほども歳の違う侯爵の後妻にやられるらしいのです。伯爵家の財政状態が芳しくないとの噂を耳にしていた僕は、家への資金援助と引き換えに決まった話ではないかと疑いました。もし彼女が望まない結婚なら、僕は彼女を攫ってでも一緒に逃げたいと思っています。けれど……」
彼は、絶望をその顔に滲ませた。
「彼女の義母によると、彼女も侯爵との結婚を望んでいるのだと、あなたと結婚する気などないのだと言われて、この手紙を受け取ったのです」
手にしていた手紙に視線を落とすと、彼はそれをカトリーナに差し出した。
「あの、私が読んでもよろしいのですか?」
「はい、構いません」
カトリーナが手紙に目を落とすと、そこには几帳面な達筆で、以下のような文面が綴られていた。
『あなたと過ごした時間はよい思い出です。
でも無理に私のことを思い出す必要はありません。
あなたと夢中で過ごした幼い日々は宝物ですし、
いっぱいの感謝を送ります。
近しい人にはもう伝えましたが、
伝手を頼って嫁ぐことになりました。
できる限りの幸せが、あなたに訪れますように。
華暦431年12月23日 エリー』
カトリーナは、しばらく無言のまま手紙に目を走らせていた。
幼馴染の青年との別れと自らの結婚を告げる旨の、一見して簡潔な手紙を一通り読み終えると、カトリーナは徐に顔を上げて青年を見つめた。
「貴方様は、この手紙を受け取る前にも、エリー様と手紙のやり取りをなさっていたのですか?」
「ええ、しばらくは。でもここ最近は、彼女に手紙を幾ら送っても返信がなく、心配していたのです。もっと早くに、彼女に婚約話が来ていることに気付いていたのなら……」
落ち込んでいる様子の彼に向かって、カトリーナは続けた。
「そうだったのですね。……この手紙と、今まで彼女から受け取った手紙を比べて、どこか違和感を覚えるような所はありませんでしたか?」
「そうですね……」
青年は手紙の文面を改めて見つめた。
「これが彼女の字であることは間違いありません。ただ、些細なことかもしれませんが、言われてみれば、いつもは僕の名前が一番上に書かれているのですが、それがありませんね。それと……」
彼は日付の記載を指差した。
「手紙の最後に、華暦の431年12月23日とありますが、今日は華暦の431年12月22日ですよね」
「ええ、確かにその通りですね」
「これまでも、彼女からの手紙に日付は入っていましたが。いつも几帳面な彼女が、先の日付を書くなんて妙なことをしたのはこれが初めてです。単純に、日付を間違えただけかもしれませんが」
「なるほど……」
カトリーナは頷くと、青年を再び見つめた。
「先程の貴方様のお話からは、この手紙の内容のことを、その女性の義母に当たる方はご存知だったのでしょうか?」
青年は大きく首を縦に振った。
「ええ、まず間違いなく、僕に渡す前に目を通していたのでしょう。彼女が僕にこの手紙を渡した時の、あの勝ち誇ったような顔を思い出す限り、僕の愛するエリーから別れを告げる内容だったということは知っていたはずです」
「そうでしたか」
(恐らくは、エリー様がこの手紙を書いた時、彼女の義母の目を通ることを知った上で書いていたということなのでしょうね。だとすると……)
カトリーナはしばらく口を噤んで再度手紙に目を落とすと、青年を見つめて口を開いた。
「貴方様のお名前は、トム様と仰いますか?」
「どうして、それを……!?」
青年は目を丸く見開いた。
「ええ、僕はトムと言います。なぜわかったのです?」
カトリーナは口元に笑みを浮かべると、驚くトムの言葉に答える前に、輝きの強い瞳で彼を見つめた。
「……これから、多少の困難が貴方様を待ち受けているかもしれませんが。それでも、エリー様が貴方様との未来を望むなら、彼女と一緒になる気はありますか?」
「もちろんです。どんなことがあっても、必ず乗り越えて彼女を幸せにしてみせます」
力強くそう答えた彼に、カトリーナはにっこりと笑った。
「貴方様のご覚悟は承知いたしました、トム様。これだけは心に留めておいてください。これからどんなことがあったとしても、『エリー様の心が貴方様の元にあると信じて』ください」
「それは、本当なのですか?」
トムの瞳が希望に輝き、その頬が紅潮した。カトリーナはトムに向かって頷くと、エリーの気持ちが込められた手紙を、そっと大切そうに彼に返したのだった。
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