第20話 フィオナの秘めた想い(後編)
アイザックは、久し振りにフィオナと二人、テーブルを挟んで紅茶を飲んでいた。部屋には紅茶の芳しい香りが満ちていたけれど、フィオナは紅茶のカップを手にしつつも、どこか上の空で、心ここにあらずといった様子だった。
滑らかな亜麻色の髪を靡かせた、このところ花が綻ぶようにその美しさに磨きがかかってきたフィオナの軽く染まった頬を、アイザックはもどかしい思いで見つめていた。フィオナの瞳は、窓の外を遠く眺めていた。
「フィオナ、どうしたんだい? そんなにぼんやりとして」
アイザックの言葉に、フィオナははっとしたように窓の外から視線を戻すと、彼を見つめた。
「ごめんなさい。私ったら、つい……」
「いや、謝る必要はない。ところで、この前話したカトリーナ様という神官のことを覚えているかい?」
「ええ、覚えていますが」
「彼女に、今日ここに来てもらうようにお願いしているんだ」
「神官様に、わざわざここまで来ていただくのですか? ……何のために?」
不思議そうに小首を傾げたフィオナに、アイザックは続けた。
「君の様子が心配でね。何か悪いものに憑かれてでもいるんじゃないかと、神官様に相談に行ったんだよ。君を、得体の知れないものから早く解放したいと思ってね」
彼の言葉に、フィオナの顔がみるみるうちに青ざめた。
「そんなっ。じゃあ、神官様がいらっしゃるというのは……」
「ああ。君に憑いている何かを祓ってもらうためさ」
「憑いているだなんて、そんな言い方をしないで! あの方は、私の恩人なのだから」
フィオナは席を立つと、足早にドアへと向かって行った。慌てた様子のアイザックが、すぐに彼女の後を追い掛ける。
「フィオナ。ちょっと待て」
けれど、小走りでそのまま屋敷から走り出て行ったフィオナは、アイザックのことを振り返ろうとはしなかった。
***
息を切らして湖のほとりへと走って行ったフィオナは、水辺に腰を下ろしていた青年を見付けた。涼やかな瞳をした彼の姿は半分透き通っていて、彼の背後にある草むらが、その身体から透けて見えていた。
フィオナは、ようやく彼の前まで辿り着くと、肩で息をしながら、震える声で青年に呼び掛けた。
「ラファエロ様、お願いです。どうか、この場からしばらく離れてはいただけないでしょうか?」
胸の前でぎゅっと両手を握り締め、その瞳に涙を浮かべたフィオナに、ラファエロと呼ばれたその青年は少し寂しそうに微笑んだ。
「いつか、こういう時が来るとはわかっていたから。それが今だったというだけだよ。それに、僕はこの場からどうやっても離れることができずにいるからね。……そろそろ、君に別れを告げないといけないようだ」
「ラファエロ様、そんなことを仰らないでください!」
フィオナは思わず叫び声を上げた。
「ラファエロ様、貴方は、溺れている私を助けてくださった恩人というだけでなく、私にとってはそれ以上の存在です。私は、貴方のためなら何だってします。どうしたら、ラファエロ様を助けることができますか?」
「僕には、そんなことを君にお願いする資格はないよ。……さあ、君こそ、そろそろここを離れた方がいい。僕と話しているところを見られたら、それこそ、気が触れたとでも思われるだけだ」
「そんなこと……」
フィオナの背後から足音が近付いて来るのが聞こえ、彼女はびくりと身を竦めた。恐る恐る振り返ったフィオナの瞳に、表情を翳らせたアイザックの姿が映った。
「フィオナ、いい加減に諦めろ」
「……何のことでしょうか?」
「ラファエロと君が呼んでいる存在のことだよ。君もわかっているだろう?」
アイザックは静かに息を吐いた。
「俺には、君の前には何も見えてはいない。君が目にしているのは、実体のない存在だろう。そのような者との交流を続けたところで、君のためになるとは思えない」
「でも……でも!」
辛そうな表情を浮かべ、ラファエロの側に駆け寄ったと思われるフィオナの前で、アイザックは、彼女を縛っている何かに対して剣を振るいたくなる衝動をぐっと堪えた。美しく賢く、そして優しい心を持ったフィオナが、説明のつかない何かにずっと縛られていることに、彼は悔しさと怒りの入り混じった気持ちでいたけれど、急かずに一拍置くようにというカトリーナの言葉を思い出したからだ。
奥歯を噛み締めたアイザックは、気持ちを落ち着けようと、深く息を吸い、青緑色に澄んだ湖面に視線を移しながら口を開いた。
「フィオナ、もう忘れた方がいい。君は、幻を見ているに過ぎないんだよ。……おや?」
アイザックの瞳が、湖の中できらりと光った何かを捉えた。彼の頭に、改めてカトリーナの言葉が甦る。
「アイザック様は、次にその湖をフィオナ様と訪れる時、きっと『昔、フィオナ様がその湖で溺れた原因を見つける』ことになるでしょう」
(あの場所に光って見えるものが、彼女が言っていたものなのだろうか)
アイザックはもう一歩湖に近付くと、その奥をじっと覗き込んだ。手を伸ばせば届きそうにも見える、淵から程近い、沈んだ葉の重なり合った場所から、小さな金色の何かが微かに光を弾いていた。
その時、二人の背後の茂みが動いた。現れた男女の姿を見て、アイザックがその両目を瞬いた。
「カトリーナ様? よくこの場所がわかりましたね。そちらは……」
「僕はラウルと言います。カトリーナと同じく、神官をしています」
フィオナが、カトリーナの名前と、神官という言葉にびくりと反応した。彼女は、胸の前で両手を握り締めた。
「お願いです! 彼には、何もしないでください。私の大好きな、大切な人なんです。……彼を失うなんて、私には耐えられません」
カトリーナは、半泣きになっているフィオナに温かく微笑み掛けた。
「ええ、ちゃんとわかっておりますわ。フィオナ様のお気持ちは」
そう言って、カトリーナはやや俯いているラファエロを見つめた。彼の姿が確かにカトリーナに見えていることに気付いたフィオナの顔からは、すうっと血の気が引いた。ラファエロを庇うように、彼の前で両腕を広げたフィオナを見て、彼はようやく口を開いた。
「さっきも言ったが、僕は君に心配してもらう資格なんてないんだ。だって、君が溺れたあの時、君をこの湖に誘い込んだのは、他でもない僕なのだから」
ラファエロの言葉に、フィオナがゆっくりと後ろを振り返った。彼は、苦しそうに顔を歪めながら続けた。
「僕は、君が落としたあの髪飾りを見れば、君が水面に向かって手を伸ばすだろうとわかっていて、湖底からあの髪飾りを覗かせたんだ。また君に会いたくて、近くから君のことを見たくて。君が体勢を崩して、湖に落ちるとまでは考えが至らなかった」
表情を翳らせたラファエロを見て、フィオナが優しく微笑んだ。
「関係ありませんわ。だって、貴方は溺れた私のことを助けてくださったのですから。それに、どのみち、私はあの失くした髪飾りを、ずっと探していたんだもの。貴方が何をしても、しなくても、私はあの時、この湖を覗き込んだと思うわ。それよりも、私の方が貴方に謝らないといけません。……だって、私、気付いてしまったのだもの」
フィオナは悲しげにラファエロを見つめた。
「貴方がここで、ずっと昔、私がここで溺れたよりもさらに前に、この湖で事故に遭ってしまったのは、あの私の髪飾りを拾おうとしてくださったからなのでしょう?」
カトリーナの瞳には、目を潤ませたラファエロがフィオナを見上げる様子が映っていた。それに対して、アイザックは、フィオナの言葉を反芻していた。
(……髪飾り? さっきの、あの光っていたものは……)
改めて、フィオナの言葉を受けて湖に近付くと、湖面にじっと目を凝らしたアイザックに、カトリーナは目を輝かせた。
「まあ、アイザック様。無事に見つけてくださったのですね」
そう言って、カトリーナはアイザックの視線の先を追うと、すぐさま右腕の袖を捲り上げて、水の中へと腕を伸ばした。カトリーナは、直接手が届かないことを確認すると、躊躇うことなく湖に飛び込んだ。
ぼちゃん、という水音が響き、ラウルが慌てて湖の中を覗き込む。
「カ、カトリーナ!? いったい、何をして……?」
何かを手に握り締めたカトリーナが、湖の中で覚束ない手付きで水をかく様子を目にして、ラウルも迷わず冷たい水の中に飛び込んだ。そして、カトリーナの身体を抱きかかえると、彼女を岸辺に引きずり上げた。
けほけほと咳をしてから、カトリーナはラウルににっこりと笑い掛けた。
「ありがとう、ラウル。お蔭で助かったわ。それに、これで必要なものが準備できたわ」
呆然とした表情で、びしょ濡れのカトリーナとラウルを見つめていたアイザックが口を開いた。
「……それは、どういう意味だい?」
「まず、良いご報告が一つ。そこにいらっしゃるラファエロ様の、本来の居場所となるべきお身体は、まだ温かさを保っています」
「……!」
思い掛けないカトリーナの言葉に、フィオナとラファエロは思わず目を見合わせた。フィオナが、恐る恐るカトリーナに尋ねる。
「でも、ラファエロ様は、彼が溺れたこの場所から動けないと仰っています。そのようなことが、あり得るのでしょうか?」
「かなり特殊なケースにはなりますが、そういうことはあり得ますね。……実は、アイザック様からご相談を受ける少し前に、ラファエロ様の母君が、涙を流しながら私の所に訪ねていらしたのですよ。もう何年も眠ったまま意識が戻らず、針で体内に栄養を入れながら無理矢理生き永らえさせている息子を、天に返すべきなのかどうか、と」
「母さんが……?」
はっとした様子でカトリーナを見つめたラファエロに、カトリーナは穏やかに微笑んだ。
「はい。少し先に光が感じられたので、まだラファエロ様のことを待っていて欲しいと、そう母君にはお願いしています。一度魂の離れた身体は、そのまま冷えてしまうことが多いのですが、ラファエロ様の場合は、奇跡的に一命は取り留められていました。ただ、魂がこれほど長く本来の身体に戻れずにいるというのは、何か理由があるはずなのです。ラファエロ様の場合、その理由はこれなのでしょう」
ずぶ濡れのままのカトリーナが差し出した掌の上には、繊細な金造りの、羽を広げた鳥の姿を模した美しい髪飾りがあった。
「これは……」
「ええ。フィオナ様は、大切にしていたこの髪飾りを失くし、悲しんでいらしたのですよね? さっきフィオナ様も仰っていましたが、その様子を目にした、当時この近くに住んでいらしたラファエロ様は、フィオナ様のために、どうしてもこの髪飾りを湖から見付け出したかった。その時のお気持ちの強さ故に、溺れて魂が身体から離れてしまっても、髪飾りの沈むこの湖に、魂が縛られていたのでしょう。ですがもう、これで大丈夫なはずです」
カトリーナが手にした髪飾りを目にしたラファエロの魂が、すうっと浮き上がった。彼は、自由に動けるようになったことに気付いて、驚きに目を瞬いていた。
「……では、僕は自分の身体に戻れるのですか?」
「ええ、ご安心ください。もう、帰るべき場所はわかっていらっしゃるでしょう? その場所に、今度はフィオナ様もお連れしますから」
「ラファエロ様!」
フィオナの瞳からは、涙が溢れていた。ラファエロは、実体のない身体のままで、フィオナに両腕を回した。
「次は、直接君に会えそうだね」
「はい。この奇跡に、何て感謝をしたらいいのか……」
去り際にフィオナに手を振って微笑んだラファエロのことを、彼女はその姿が見えなくなるまでじっと見送ってから、カトリーナとラウルに深く頭を下げた。
「まだ夢を見ているようですが、ありがとうございました。あの、また本当に、ラファエロ様にお会いできるのでしょうか?」
「ええ。彼が入院なさっている病院の住所を、後ほどお伝えしますね。彼のご家族は、彼の治療が可能な病院を探して、あの事故の後に、この近くから越して行かれたそうですよ。……それから、こちらも忘れずに持って行ってくださいね」
カトリーナが手渡した髪飾りを、フィオナは大切そうにぎゅっと胸元で抱き締めた。アイザックが、驚いたようにフィオナに尋ねた。
「フィオナ、それは……」
「はい。お兄様から誕生日にいただいた、私の宝物です。なのに、うっかり水の中に落としてしまって、どうしても諦め切れずにいたのです」
「君の命よりも大切なものなんてないのだから、そんなものは気にしなくてもいいんだよ。まさか、そのせいでフィオナが溺れたなんて……」
カトリーナと同じく、身体中ぐっしょりと濡れたラウルは、驚いて目の前のアイザックとフィオナを見つめた。
「えっ? ……お二人は、ご兄妹だったのですか?」
「ああ、そうだよ。フィオナは、誰より大切な俺の妹だ」
「それよりも、カトリーナ様、ラウル様。私たちの問題を解決するために、頭から足の先まで濡れてしまわれて……! すぐに、お着替えをご用意しますわ」
軽い足取りで二人を屋敷に案内するフィオナと、彼女を見守る優しいアイザックの視線を目にして、カトリーナとラウルは嬉しそうに目を見交わしたのだった。
***
それから程なくして、アイザックがカトリーナとラウルの元を再度訪れた。礼を述べに来たと言うアイザックの手に、大きな花束が抱えられているのを目にして、カトリーナとラウルは目を瞬いた。
「この前はありがとう、お蔭で助けられたよ」
「フィオナ様も、ラファエロ様もお元気でしょうか?」
「ああ、彼はもう病院を退院しているよ。彼のご両親も、彼が戻って来たことをただただ喜んでいるそうだ。……長い間学校にも通えず、ブランクが空いていることを、彼は引け目に感じていたようだが、フィオナはそんなことなど構わないと、毎日のように彼の元に通っているよ。できることがあるなら、何でもいいから手伝いたいと言ってね。今は彼の勉強を見ているそうだ」
やや苦い表情を浮かべたアイザックに、ラウルが尋ねた。
「あれだけ大切にされていた妹さんですし、やっぱり寂しいものですか?」
「そうだな。……妹を任せるのなら、半端な奴に許す訳にはいかないしな。だが、彼は非常に優秀で呑み込みが早いと、フィオナも驚いていたよ。それに、妹自身が彼以外をまったく見ていないからな。……フィオナが幸せでいてくれるなら、俺としてはまあ、我慢するしかないだろう。それから、」
柔らかく笑ったアイザックは、カトリーナの手を取ると、正式な騎士の礼を取ってから、その手の甲に軽く口付けた。
そして、カトリーナに、白薔薇と白いカーネーションをふんだんに使った大きな花束を差し出すと、カトリーナの顔を間近から覗き込んだ。
「カトリーナ様、……いや、カトリーナと呼んでも? 貴女は、俺の恩人だ。俺の大切なフィオナと、その想い人を救ってくれたのだから」
「ええと……はい?」
きょとんとしながら花束を受け取り、思わず頷いてしまったカトリーナのことを、アイザックは満足そうに見つめた。
「ではカトリーナ。これから、俺に何かできることがあれば、何でも言って欲しい。神官という職業柄、危険なこともあるのだろう?」
「ええ、確かにそうなのですが、この国の騎士団長様のお手まで煩わせる訳には……」
やや困惑した様子のカトリーナに、アイザックはくすりと笑んだ。
「俺自身の意志でそうしたいのだから、何も気にすることはない。それに、あの時、勢いよく湖に飛び込んだ君が、まさか泳げないとは思わなかった。命懸けで手を貸してくれたんだな。カトリーナを湖から引き上げてくれた、そこの彼ーーラウル君だったなーーにも感謝している。……カトリーナ、君の、あの思い切りの良さには痺れたよ。いつか、この恩は必ず返す」
「では、そのお言葉、ありがたく頂戴しておきますね」
ひらひらと手を振ったアイザックの去って行く背中を、ラウルはカトリーナと並んで見つめていた。
「何だか、風のように現れて、また風のように去って行ったね、アイザック様」
「そうね。アイザック様から、まさかこんなに立派なお礼の花束をいただくことになるとは思わなかったわ。……いい香りね」
花束に顔を埋めるようにして、その香りに微笑んだカトリーナに、ラウルがやや眉を下げて呟いた。
「……結構押しが強そうだね、彼」
「ん、ラウル、今何か言った?」
花束から顔を上げてラウルを見たカトリーナに対して、ラウルはその花束をじっと覗き込んでいた。
「ううん。あのさ、カトリーナ。その花束に使われてる花って……」
「ええ、この花が何か?」
「……いや、白い花ってカトリーナのイメージに合ってるよね」
そう言いながらもどことなく浮かない顔をしたラウルに、カトリーナは首を傾げた。ラウルは、目の前の花々をしげしげと眺めていた。
(白薔薇も、白いカーネーションも、確か花言葉には愛情の意味があったはずだけれど。まさか、あの堅いって評判の騎士団長が、そんなことまで考えるかなあ?)
「その花、僕が花瓶に飾っておくよ。貸してもらえる?」
「あら、ありがとう。助かるわ」
手を伸ばしたラウルに、にこにこと花束を差し出したカトリーナの、何も気付いていない普段通りの様子に、彼は胸を撫で下ろした。
「それから、ラウル。さっきアイザック様も仰っていたけれど、貴方があの時私を助けてくれなかったら、私はきっと溺れていたわ。ラウル、改めて、あの時は本当にありがとう」
「カトリーナのためならあのくらい、当然だよ。いつでも僕を頼ってね?」
「ええ。今だって、誰よりも頼りにしているわ」
(……やっぱり、カトリーナには敵わないな)
にっこりと笑ったカトリーナの真っ直ぐな言葉に、ラウルは嬉しそうに頬を染めたのだった。
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