第19話 フィオナの秘めた想い(前編)
カトリーナが次の相談者との約束を前に神殿の廊下を急いでいると、背後から声が掛けられた。
「君が神官のカトリーナ様だね?」
彼女が振り返ると、鮮やかな金髪に深い碧眼をした、絵に描いたような凛々しい青年が立っていた。
カトリーナよりもほんの少しだけ年上のように見える、すらりとした長身の彼は、彼女のことをじっと観察するように鋭い瞳で眺めていた。
「はい、そうですが……」
青年の腕に飾られた騎士団長の腕章が、カトリーナの瞳に映る。彼女ははっとして青年の顔を見上げた。
「貴方様は、アイザック様でいらっしゃいますか?」
若くして騎士団長にまで上り詰めたアイザックは、国中にその名を馳せていた。カトリーナは、頷いたアイザックの探るような瞳を見つめ返した。
「ということは……」
「そうだ。君との約束を取り付けた次の相談者は、この俺だよ。だから、そう早足で急ぐ必要はない」
口元にふっと笑みを浮かべたアイザックに、カトリーナも微笑みを返した。
「そうでしたか。では、一緒にまいりましょうか。お話を伺うことになるのは、すぐそこのお部屋になりますので」
穏やかな物腰で楚々とした雰囲気ではあるものの、一見何の変哲もない、どこにでもいそうな年若い女性にも見えるカトリーナに、アイザックは尋ねた。
「ああ。……先に、一つ君に聞いても?」
「はい、何でしょうか?」
「君には、人には見えない特別な何かが見えることが? もちろん、神官とあらば、そのような能力は少なからずあるのだろうが。俺が今日貴女を訪ねたのは、にわかには信じがたいような、不思議な現象について聞きたいからなんだ」
「そうですね……」
カトリーナは思案気に目を瞬いた。
「時と場合によって見え方は違いますし、何でもわかるという訳ではありませんが、ある程度は見えることもあると申せましょうか。……今日は、アイザック様は大切な方の身を案じて、私の所にいらしたのでしょう?」
彼女の瞳には、透き通るような白い肌をした、艶やかな亜麻色の髪の、妖精のように可憐な若い女性の姿が朧げに映っていた。温かな笑みを浮かべたカトリーナがさらりと発した言葉に、アイザックは目を瞠った。
「ああ、そうだよ。俺にとって最も大切な女性のことで、君に相談をしに来たんだ」
(……やはり、彼女は他の神官たちとは少し違うようだな)
アイザックは、カトリーナと並んで歩きながら、口元の笑みを深めていた。
***
神殿内に設えられた、神官への相談者を迎える部屋で、カトリーナは、アイザックに椅子を勧めながら尋ねた。
「何か、お茶でも淹れてまいりましょうか?」
「いや、構わない。君もそれほど時間の余裕がある訳ではないだろう。早速、本題に入らせてもらっても?」
「ええ、どうぞ」
カトリーナも、椅子に腰を下ろしたアイザックとテーブルを挟んで正面に座った。アイザックは、彼女の顔を見つめると、椅子に深く腰掛け直してから、視線を少し宙に彷徨わせた。
「どこから話したらいいか……君には特殊な能力があるようだから、話さずともわかる部分もあるのかもしれないが、一通り、俺の知る限りのことを話すよ。俺の愛しいフィオナも、時折人の目には見えないものが見えることがあるようなんだ。昔から、彼女は時々、俺には見えないものと話すような素振りをすることがあったからね」
静かに頷いたカトリーナに、アイザックは続けた。
「このところ、フィオナはまるで何かに魅入られたかのように、ぼんやりとした表情で出歩くことが増えた。それも、ひどく幸せそうに頬を染めながらだ。どこへ行くのかと訪ねても、言葉を濁して教えてはくれないものだから、一度、隠れてそっと彼女の後をつけて行った。そうしたら……」
アイザックは、その整った顔に眉を寄せた。
「フィオナが向かっていったのは、貴族の屋敷が立ち並ぶ一画から、少し歩いた場所にある湖だった。そこは、澄んだ水面が木漏れ日を弾いている、聞こえるのは鳥の囀り程度という静かで美しい場所だ。だが、そこは彼女が昔、溺れかけた場所でもある。……フィオナが不思議なものを目にするようになったのは、その湖で溺れかけてからなんだ」
しばらく口を噤んでから、彼は小さく溜息を吐いた。
「あの日、俺たちは友人や付き人たちとも連れ立って、あの辺りの森の中を散策していたんだが、気付くとフィオナの姿が消えていた。慌てて、来ていた者たちが総出で探したが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。……本当に、気が気ではなかったよ。けれど、結局その日の夕刻に、ずぶ濡れの姿で、湖の岸辺に倒れているフィオナを見付けたんだ」
当時を思い返して、遠くを見つめるような表情を浮かべていたアイザックに、カトリーナは尋ねた。
「その時、フィオナ様を最初に見付けたのは、アイザック様だったのですか?」
「ああ、そうだ。慌てて彼女に駆け寄ったら、彼女は苦しげに咳き込んでから、顔を上げて、目の前を指差して言ったんだ。『彼が、私を助けてくれたの』と。だが、彼女の指差した先には、人影は見えなかった。俺は周囲も見回して確認したけれど、やはりそこには誰の姿もなかった」
「誰もいないはずのその場所に、フィオナ様は誰かが見えていたようだと?」
「ああ。……熱に浮かされたように、じっと誰もいない場所を見つめるフィオナを見て、俺は狐につままれたような気分になったよ。俺はむしろ、そのよくわからない存在のせいで彼女が湖に転落したのではないかと、そう疑ったがね。まあ、結果的にフィオナが無事だったこともあり、そのまま、しばらくその出来事は忘れていたのだが、最近になって、一人で湖畔に赴く彼女を目にしたんだ。はじめに、君に話したようにね」
フィオナを心配するが故か、アイザックの瞳は険しかった。
「どうやら、俺に隠れて、フィオナは今までにも、その湖を幾度も訪れていたようなんだ」
「……そうでしたか。最近、アイザック様はフィオナ様について湖まで行かれたと仰っていましたが、その時の彼女の様子はいかがでしたか?」
アイザックは、隠し切れずにその口元を歪めた。
「また、見えない何かと話しているようだったよ。しかも、彼女は、それは楽しそうに、目を輝かせて話しているんだ。普段、なかなか見ることができないほどの明るい表情でね。本当にそこに何かがいるのか、あるいはフィオナの気が触れてしまったのか、何も見えない俺には判別がつかずに、もどかしい気持ちになっただけだったがね」
「何か、フィオナ様が話されていた内容で、覚えていらっしゃることはありますか?」
「そうだな。……確か、彼女は嬉しそうに呼び掛けていたよ。宙に向かって、ラファエロ様、と」
「ラファエロ様、ですか? そのお名前、確か……」
思案気にしばらく俯いてから、カトリーナは視線を上げると、アイザックの瞳をじっと見つめた。
「そのラファエロ様という方のことについては、まだ私の推測にしか過ぎませんので、心当たりを確認しておきますね」
「ああ。俺は、そいつにフィオナが憑かれているのではないかと思っている。できれば、それを君に祓って欲しいんだ」
彼の真剣な眼差しを見て、カトリーナは尋ねた。
「……ところで、アイザック様は、フィオナ様の幸福を願っていらっしゃるのですよね?」
「それは当然だ。フィオナをあの悪霊のようなものから解放できるのなら、俺は何だってするつもりだよ」
アイザックは、徐に腰に差している剣に手を当てた。
「騎士団長になった時に俺が授かったこの剣は、聖剣と呼ばれている。未だ試したことはないが、きっと霊のような目に見えない存在であっても斬れるのではないかと思う。だから、いざとなれば、俺がこの剣を振るおうと思っているがね」
彼の言葉に籠る怒気を感じて、カトリーナはゆっくりと首を横に振った。
「フィオナ様の幸せを願うなら、アイザック様、どうか彼女を静かに見守っていてください。その時が来れば、きっとわかりますわ。そして、決して、貴方様の剣は振るわないでくださいね」
「……それは何故だい? その目に見えない何かが、フィオナに害なすものではないと、そう言い切れるのか?」
不服そうに顔を顰めたアイザックに対して、カトリーナは穏やかな笑みを浮かべた。
「お聞きした限りでは、私にはそのように思われます。もし、その存在がフィオナ様に悪影響を及ぼすようなものであったなら、既にフィオナ様には、もっと目に見えるような形で悪影響が出ているでしょう。けれど、これはあくまでアイザック様のお話を伺った上での私の感覚ですから。近いうちに、私からフィオナ様に会いに伺ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、お願いできるのであれば、是非頼みたい」
「そして鍵となるのは、アイザック様、貴方様の行動です。アイザック様は、次にその湖をフィオナ様と訪れる時、きっと『昔、フィオナ様がその湖で溺れた原因を見つける』ことになるでしょう。それは、貴方様も知っているもののはずです。……今は何のことだかわからないとは思いますが、それが、この問題の解決の糸口になるはずです」
「……何だか、君の言葉は謎掛けのようだな」
じっとカトリーナを見つめたアイザックに向かって、彼女はゆっくりと口を開いた。
「最後に、一つだけ。アイザック様は、私が言うまでもありませんが、とても冷静で賢明な判断ができるお方です。……ただ、フィオナ様への深い愛情のあまり、彼女が関わると、少し気が急いてしまうことがあるようですね。どうぞ、そんな時には一呼吸置くようにしてくださいね」
カトリーナの言葉が図星だったアイザックは、微かに苦笑した。
「ご忠告ありがとう。心に留めておこう」
踵を返したアイザックを、ドアの外までカトリーナが見送っていると、ドアの影からラウルが顔を覗かせた。ラウルはちらりとアイザックの後ろ姿を見やってから、カトリーナに向かって話し掛けた。
「ねえ、カトリーナ。僕も、カトリーナと一緒にフィオナ様に会いに行っても?」
「ええ、もし貴方が来てくれたら、心強いのだけれど。……ラウル、私たちの話を聞いていたの?」
ぱちぱちと目を瞬いたカトリーナに、ラウルは薄らと頬を染めた。
「盗み聞きをするつもりはなかったんだけどさ。……あの美形の騎士団長様が来てるって、神殿勤めの女の子たちが黄色い声を上げてるのが聞こえて。カトリーナに会いに来たらしいって話だったから、ちょっと気になってね」
「そうだったの?」
「うん。……でも、あの、仕事にしか興味がないらしいって噂の、浮いた話のない騎士団長に、まさか想い人がいたなんて、びっくりしたな。まあ、ちょっとほっとしたけどね」
「えっ?」
「ううん、気にしないで。こっちの話だから」
耳まで赤くなったラウルのことを、カトリーナはきょとんとして見つめていた。
(カトリーナ、こういうところは鈍いからなあ。僕の気も知らないで。でも……)
カトリーナがアイザックを見送る視線にどことなく緊張感が漂っていたことに、ラウルは気付いていた。
霊絡みの事案の時には、その解決に一定の条件が必要になることがある。偶然にも運にも左右されるようなそれは、一瞬のタイミングを逃してしまうと、依頼者の願いを叶えることが難しくなる。
カトリーナの表情から、ラウルはどうやら、この件はそんな事案に当たるようだと見抜いていた。
「……こういう時のカトリーナって、無茶しがちだからさ。ほっとけないんだよね」
ぽつりと呟かれたラウルの言葉は、再びアイザックの立ち去った方向をじっと見つめたカトリーナの耳には届いていないようだった。
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