第17話 リアの静かな祈り(前編)

 あまり人の気配のない街道の外れで、一人静かに膝を折っている少女がいた。

 彼女は、手に抱えていた淡い色合いの花束を、何もない街道脇にそっと置くと、両手を組んでしばらくその瞳を閉じていた。少女が俯くと、柔らかな彼女の栗毛が、目の前に手向けられた儚げな花々と一緒に、風にふわふわと揺れる。


 少女はしばらくしてからその潤んだ目を開くと、無言のまま立ち上がり、後ろ髪を引かれるように一度振り返ってから、ようやく前を向いて歩き出した。けれど、そっと手の甲で両目を拭っていた彼女は、道端の石に足を取られ、ぐらりと身体のバランスを崩した。


(あっ……)


 けれど、少女の身体は地面に着く前にふわりと抱き留められた。彼女を抱き留めてくれたのは、人の良さそうな、焦茶色の長い髪をした若い女性だった。

 少女を受け止めきれずに尻餅をついてしまった女性に向かって、少女は慌てて立ち上がると頭を下げた。


「ご、ごめんなさい! うっかりつまづいてしまって、あなたまで巻き込んでしまって……。庇ってくださってありがとうございました。お怪我はありませんか?」

「ええ、大丈夫ですよ。お気になさらず」


 そう言って若い女性はにっこりと笑うと、立ち上がって土埃のついたスカートをぱたぱたとはたきながら、少女が先程道端に置いた花束に視線を向けた。

 風が吹く度に、淡い色の花々がそよぐ様子を、女性はそのままじっと見つめていた。


 少女は、そんな女性を見て少し戸惑いつつも、やや間を置いてから口を開いた。


「あの、おかしなことだと思われましたよね。こんな何もないところに、花を供えるなんて。……実は、私の恋人が、馬車の事故でこの場所で命を落としたのです。あの事故から、もうすぐ三年になります」

「まあ、そんなことが……」


 女性の顔に浮かんだ、少女を気遣う優しい表情に、彼女はその両目に、抑えようとした涙がまた浮かんでくるのを感じた。目の前に立つこの若い女性は、なぜだか、昔からの知り合いのように、一緒にいるだけでとても安心感を覚えると、そう少女は思った。


「……もう、あの事故から三年近くが経つなんて、いまだに信じられなくて。私はまだ、彼ーーオースティン様に、ふとした瞬間に会えるような、そんな気がしてしまうのです。私の時間はまだ、あの時のまま止まっているのかもしれません」


 少女は、堪え切れずに頬を伝った涙を慌てて拭ってから、無理矢理に笑顔を作った。


「すみません、こんなこと、初めて会った方に聞いていただいて。私は、リアと言います。ここから街道を少し戻った所にある花屋で働いています」


 リアの澄んだライラック色の瞳から、拭っても、次から次へと溢れ出して来る涙を見て、女性は、彼女にレースで彩られた白いハンカチを差し出した。


「これ、よかったら使ってくださいね。私は、カトリーナと申します。……もし私でよければ、少しお話を伺っても?」


 リアは驚いてはっと顔を上げた。ずっと胸の中にしまっていた大切な彼のことは、今まで誰にも話せずにいたけれど、本当は誰かに聞いて欲しかったのだと、そう心の奥で叫ぶ声がした。


「よ、よろしいのですか……?」


 もうしゃくり上げ始めていたリアは、途切れ途切れにようやく言葉を絞り出した。カトリーナは、そんなリアの背中をそっと撫でると、彼女に温かな微笑みを向けて頷いた。


***


 二人は、街道脇に見付けた切り株に腰を下ろした。リアの涙が落ち着くまで、ただ静かに待っていたカトリーナの心遣いに、彼女は心の中で感謝しながら、一つゆっくりと深呼吸をした。


「ありがとうございます。やっと、涙も引いて来ました。お待たせしてしまって、すみません」

「いえ、急ぐ必要なんてどこにもありませんから」


 リアはようやく微かな笑みを浮かべた。


「私が、彼、オースティン様と出会ったのは、私が勤めている花屋です。彼は花壇を彩るための花を探しに、お客様として店にいらしていました。いつもよい身なりで上品な彼は、どなたなのだろうと思っていましたが、時々伴われていたお供の方が、『シュミット家の坊ちゃんともあろうお方がなぜ、庭師に任せればよいのに……』と仰っているのを聞いて、彼は貴族なのかと心の中で納得したものです」

「花を探すために自ら足を運んでいらっしゃったとは、花がお好きな方だったのですね」

「ええ、とても。それに、オースティン様はとてもお優しい方で、私のようなただの街娘に過ぎない店員にも、気さくに話し掛けてくださいました。彼は、涼しげに整った顔をなさっていて、はじめのうちは、彼と少し言葉を交わすだけでも緊張したものですが、そんな私の態度を気にする様子もなく、彼は店を訪れる度に明るく声を掛けてくださいました」


 どこか遠い瞳をした彼女は、ぽつりぽつりと続けた。


「オースティン様は、自ら花を選んでいたことに加えて、実際にご自分でも花を育てていらっしゃったようでした。どの季節にどんな種や苗を植えれば美しく咲くかや、その花が虫に強いかどうかなど、仔細なことまで私に尋ねられたので、私も回答には力が入ったものです。彼が頻繁に店を訪れてくださったので、自然と私もよく彼と話すようになり、次第に、彼が店にいらしてくださることが、そして彼との会話が、私にとっての密かな楽しみになりました」


 リアはカトリーナの前でほんのりと頬を染めた。


「思い返してみると、あの時から、私はもう彼のことを想い始めていたのでしょう。……けれど、私と彼では身分がまったく違います。もちろん、私はそのことを認識していましたし、あくまで彼には、よく来てくださる常連のお客様の一人として接していました。彼の姿を目にするだけで幸せでしたし、お話できるだけでも十分だったのです」


 懐かしそうに微笑みを浮かべるリアの言葉に、カトリーナは静かに頷いた。


「一度、彼に聞いたことがあります。どうして、わざわざご自分で花壇のお世話をしていらっしゃるのですか、と。彼は、少し表情を曇らせました。家の中では息が詰まる、花と向き合っている時だけはそれを忘れられるからと、そう仰っていました」

「……そうでしたか」

「彼の翳った顔を見て、私が慌てて、本当にオースティン様は花がお好きなのですねと答えたところ、彼は、君も花が大好きだものねと、表情を緩めて優しく笑っていらっしゃいました。それ以来、厳しいであろう彼のお家の事情に触れるような話はしないようにと、そう気を付けるようになりましたので、彼と一緒に過ごした時間以上のことは、彼のことをよく知らないのです。彼は、花の種や苗に加えて、家の中に飾るからと、切り花も買ってくださるようになりました」


 リアは少し口を噤むと、切なげにその瞳を潤ませた。そして、小さくふっと息を吐いた。


「ある日、彼は頬を染めて、大切な人に贈る花束を作って欲しいと、店に来るなりそう仰いました。私はもちろん頷きましたが、内心では大きなショックを受けていました。……こんなに素敵な方なら、想い人がいらっしゃっても当然だと思いながらも、彼の美しい澄んだ深緑色の瞳で見つめられるのは、いったいどのような方なのだろうと、つい羨ましく思ってしまったのです。けれど、私は心を込めて、彼の想いが叶うようにとの願いを込めて花束を作りました」

「リア様は、お優しい方ですね」


 カトリーナは温かな瞳でリアを見つめていた。彼女は恥ずかしそうに首を横に振った。


「いえ、そんなことは。……出来上がった花束を受け取ると、彼は嬉しそうに笑って、『素晴らしい花束だね。これを渡したら、僕の気持ちは届くだろうか』と仰いました。私が、自信を持ってお相手の方にお渡しくださいと頷くと、彼は突然、熱の籠った瞳で私を見つめ、膝を折ってその花束を私に差し出してくださったのです」

「まあ、素敵ですね! つまり、リア様に贈るための花束だったと?」


 リアは、顔を真っ赤にしながら頷いた。


「ええ。私は、しばらく何が起こったのか理解できないまま、ふわふわと夢見心地で、その花束を受け取りました。私が驚きに固まっているのを見て、彼は、君には花束を贈りたかったが、君のいるこの店以外で花を買う気にはなれなかった、贈る本人に作ってもらうなんてさすがにまずかったかなと、そう言って頭を掻いていらしたのですが。……私、彼のお気持ちが本当に嬉しかったんです。それだけでなく、彼は、その時にこのペンダントも私に贈ってくださいました」


 リアは、胸元にきらりと光る、金の鎖の先で淡く明るい紫色に輝くアメジストをそっと撫でた。


「ただ、オースティン様は私にとって、身分も違う、雲の上の方。彼を愛してはいたものの、何とお答えしてよいのかわかりませんでした。でも、僕に任せてという彼の言葉を信じて、私も自分の気持ちに正直になることにしました。それから、彼とは店の外でも会うようになり、よく一緒に出掛けるようになりました。……少し怖くなってしまうくらい、幸せな時間でした。彼との関係は、ご迷惑を掛けたくなくて、誰にも言えずに内緒にしていました。けれど……」


 彼女は形のよい薄紅色の唇をぎゅっと噛んだ。


「そんな時でした、馬車の事故が起きたのは。彼が迎えに来てくださった馬車に一緒に乗り込んだのですが、少しすると、急に大きな馬の嘶きが聞こえ、どすんと大きな衝撃を感じました。私の身体を庇うように抱き締めてくださったオースティン様の腕の感覚を最後に、私はそのまま意識を失いました」

「……リア様には、お怪我はなかったのですか?」

「いいえ、私もその事故で足を折ってしまい、私が目覚めた時は病院のベッドの上でした」


 気遣わしげに眉を下げたカトリーナの前で、リアは表情を翳らせた。


「目が覚めた私を見下ろしていたのは、私が何度かお会いしたことのある、彼のお供の方でした。私がオースティン様の安否を尋ねると、そのお供の方は、残念そうに首を横に振りました。言いにくそうに、オースティン様はあの場で亡くなられたと、そう仰ったのです」

「まあ……」

「私は目の前が真っ暗になりました。私の怪我の責任は、馬車の持ち主だったシュミット家が取るから、治るまでは面倒を見るけれど、もうオースティン様のことは忘れた方がいいと、そのようなお話をされました。せめて彼の葬儀か、または墓参りだけでもさせて欲しいと必死に縋りましたが、お供の方は、それはできないと、混乱しながら泣く私に諭すだけでした」

「そのようなことがあったのですね」

「……オースティン様のご両親は、事故の時にオースティン様と同乗していた私をよくは思っていない、今後二度とシュミット家には関わるなと、そう仰っていたそうです」


 リアの瞳に、再び涙が滲んだ。


「きちんとオースティン様とお別れすらできずに、彼の死も受け入れられないままで。私は彼に会いたくてたまらなくなると、決まってこの場所に花を供えに来て、瞳を閉じるのです。彼が、あの世でせめて幸せに過ごせるようにと祈りながら」

「……」


 口を噤んだカトリーナに、リアは寂しげに微笑んだ。


「彼は、もしかしたらまだ生きているのではないかと、そう考えたことも幾度もあります。……けれど、もし彼が生きていたなら、一度くらいは私に会いに来てくださるのではないかと、そんな気がするのです。彼が生きていたとして、そのまま私を棄てるような無責任な方ではないと、私はそう信じておりますので」

「リア様のお考えは、よくわかりますわ」

「事故から時間が経っても、どうしても彼のことが忘れられずに、せめて夢の中でも構わないから彼に会いたいと、毎日のようにそう願っています。……ですが、うまくいかないものですね。彼は夢にすら、ちっとも出て来てはくださいません。辛くなると、この場所に来ることくらいしか、私にはできないのです。あの世に行けば彼に会えるのだろうかと、そんな想像をすることもあります。もしあの世に行けば必ず彼に会えるのなら、私は、この命など惜しくはありません」

「……そこまで、思い詰めていらっしゃるのですね」


 カトリーナは、ぎゅっと膝の上で強く握り締められたリアの両手を眺め、そして、彼女の胸元で光を弾くアメジストをじっと見つめた。視線をリアに戻すと、カトリーナはゆっくりと口を開いた。


「リア様。……もしも、オースティン様に会えるとして。貴女様は、彼に会えるならご自分の命すら惜しくはないと、そう仰っていましたが、貴女様が生きていらっしゃるのは、この現実の世です。希望を捨てずに、もし何かが起こったとしても、『必ずしっかりとその目を開いて、決して現実を諦めないで』ください」

「……!」


 はっとしてカトリーナを見つめ返したリアに向かって、彼女は続けた。


「……貴女様の運勢は、ここしばらく、かなり波乱に富んでいるようです。近いうちに大きな波がやって来るかと思いますが、それを乗り越えることさえできれば、思いも掛けぬ奇跡を目にすることができるのではないかと思います」


 リアは、まるで未来を占うかのような不思議な言葉を紡ぐ、目の前のカトリーナの瞳は、彼女の胸元に輝くアメジストのペンダントではなく、どこかもっと遠いところを見ているような気がした。


 カトリーナの言葉の意味を飲み込み切れないままに、けれどその言葉の真実味を感じ取って頷いたリアの背後で、静かに気配が動き、そのまま姿を消したのを感じたカトリーナは、すっと鋭くその目を細めていた。

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