第16話 アナスタシアの憂鬱(後編)

 緊張の漂う馬車の中で、アナスタシアは瞳を揺らしながらカトリーナに尋ねた。


「ヨハネス様の身に危険が迫っているかもしれないとは、いったいどういうことなのですか?」

「貴女様の代わりに花嫁衣装を身に着けたという侍女の方。恐らく、彼女は貴女様のためにではなく、ヨハネス様の命を狙うために、身代わりの花嫁を装うことを貴女様に提案したのでしょう」

「……えっ?」


 アナスタシアの顔がすうっと青ざめる。カトリーナは険しい表情で続けた。


「貴女様たちのご一行の中には、数名、北方の国の出身の方が紛れ込んでいるようです。私も迂闊でしたが、先程、護衛の騎士のお一人は、北方の国の言葉に近い訛りが残っているように感じました。この国には、貴女様の国ではあまり使わない発音の言葉があるので、普段はそのような北方の訛りを隠していたとしても、意図せずその訛りが出てしまったのでしょう」

「北方の国ってまさか、私の母国を攻めて来た……」

「ええ、仰る通りです」


 頷いたカトリーナに、アナスタシアは必死になって聞き返した。


「ならばどうして、彼女は私の命を奪わなかったのでしょうか? もし、侵攻の失敗の復讐をしたかったなら、ヨハネス様の命を狙うよりも、私の命を狙う方が余程簡単だったはずなのに」

「彼女たちの狙いはきっと、貴女様の国と、この国の友好的な関係を断ち切ること。貴女様は先程、この結婚は国と国との関係を深めるための政略結婚だろうと、そう仰っていましたね。隣国からの花嫁がもし、結婚式の場で花婿を刺すようなことがあったなら、ニ国間の関係は、即座に冷えることでしょう。貴方様がこの婚姻を断ることとは、比べものにならないくらいに。……この国と貴女様の国との協力的な関係が、その北方の国にとっては邪魔なのでしょう」

「そ、そんな……」


 恐怖と後悔から身体を震わせ始めたアナスタシアに対して、カトリーナは励ますように、その肩にそっと手を乗せた。


「まだ、手遅れになった訳ではありませんから。貴女様の行動次第で、いくらでも未来は変えられます。もう、ヨハネス様にお会いになる決心はつきましたか?」

「私のせいで、彼の命が危険に晒されているなんて……! 彼が助かるのなら、私の醜いこの見た目に彼が顔を顰めたとしても、そんなことは些細な問題でしかありませんわ。どうか、間に合いますように……」


 膝の上で、両手をぎゅっと握り締めたアナスタシアを見つめてから、カトリーナはラウルに視線を向けた。


「……そろそろ、さっきの馬車も神殿に着く頃かしら?」

「うん、きっと着いた頃じゃないかな。この馬車ももうじき神殿に着くから、急いで追い掛けないと。……花婿は、式を挙げるために用意された神殿の広間で、もう準備をしているはず。着いたらすぐに、広間に向かった方が良さそうだね」

「ええ、そうね」


 馬車が次第に速度を落として神殿前に止まると、アナスタシアはカトリーナとラウルに尋ねた。


「先程仰っていた、式場となる広間というのはどちらなのですか?」

「正面の大きな柱の間を潜り、そのまま真っ直ぐ進んだ突き当たりの扉を開けたところです」


 アナスタシアは大きく頷くと、ひらりと馬車から飛び降りてから、素早く優雅な身のこなしで、瞬く間に広間に向かって走り出した。カトリーナとラウルも、急ぎ彼女の後を追い掛けて行った。


***


「ささ、花嫁様はこちらへ。花婿のヨハネス様がお待ちです」


 総レースの豪奢な花嫁衣装を身に纏った若い女性は、式場となる広間に案内をする神官の後について、ゆっくりと花婿の方向に向かって歩を進めた。女性の視界には、広間の開いた扉の向こう側の、少し離れた祭壇の前に、タキシードに身を包んだ花婿の立つ姿が映っている。


「もしかすると、アナスタシア様のお国の結婚式の方法とは、少し異なるかもしれませんが。花婿のヨハネス様が、貴女様がいらっしゃるのを祭壇の前でお待ちしています。貴女様は、祭壇の前でヨハネス様の横に並び立ち、神官の祝福の言葉を受けて、婚姻を誓うことになります」


 こくりと頷いた女性に向かって、神官は続けた。


「婚姻の儀式の間、この広間に入れるのは、祭壇の前の神官と、貴女様、そして花婿様のみです。婚姻の儀式が終わり次第、その外でお待ちいただいている皆様に、お二人の姿をお披露目していただくことになります。よろしいですか?」

「はい」


 囁くような小さな声がヴェールの下から聞こえると、神官はにっこりと花嫁に向かって微笑みかけた。


「緊張なさっているのかもしれませんが、本日は誠におめでとうございます。貴女様のお国では、女性が他国に嫁ぐ時は、少人数の付き人のみを連れて、その国に骨を埋める覚悟でいらっしゃるとか。今は不安もあるかもしれませんが、ヨハネス様は素晴らしいお方です。きっと、この国でも幸せに暮らしていただけると、そう信じておりますよ」


 花嫁は無言で頷くと、花婿の方向に向かってゆっくりと進み出て行った。花嫁衣装を纏った女性は、しずしずと花婿の隣に並び立つ。


 ヨハネスは、ヴェールを深く被った花嫁に微笑み掛けてから、そっとその右手を取った。

 二人が、祭壇の前に立つ、祭事用の衣装に身を包んだ神官を見上げた、その時だった。広間の扉がぎっと音を立てて開くと、アナスタシアの叫び声が響いた。


「ヨハネス様、お逃げください!」

「おい! 神聖な儀式中に何を……」


 アナスタシアを止めようとした扉の前の神官の手をするりとすり抜けて、開いた扉の隙間から、アナスタシアが侍女服のままで、風のように広間に走り込んで来た。

 花嫁衣装を着た女性の左手に、既に握られていた鋭い短刀は、祭壇に灯された光を受けて冷たく輝いていた。女性が刃先を至近距離からヨハネスに向かって振りかざした時、ヨハネスは彼女の刃から危うい所で素早く身を躱すと、短刀はヨハネスのタキシードを掠って空を突いた。

 ヨハネスは俊敏な動きで、そのまま身体を捻って女性の手から短刀を叩き落とし、女性の両腕を後ろで捩り上げた。掠れた悲鳴が、女性の口から漏れる。


 慌てて祭壇から降りて来た神官が、祭事用に肩から掛けていた白い布を引き裂くと、紐状にして女性の両手を後ろ手に縛った。


「僕が丸腰になるタイミングを狙っていたのか……」


 冷ややかに女性を見下ろしたヨハネスは、すぐ側まで駆け寄って来ていた、息の上がったアナスタシアの姿を見つめた。

 アナスタシアは、肩で息をしながら、ヨハネスの前で跪き、深く首を垂れた。


「本当に、申し訳ございませんでした。私が本物のアナスタシアでございます。ヨハネス様に以前、国を助けていただいた身でありながら、貴方様のお命を危険に晒してしまうなんて、お詫びのしようもございません。……どのような罰でも覚悟しております。彼女を身代わりの花嫁にしたのは、私の独断で行ったこと。どうか、私を貴方様の気の済むように罰してくださいませ」

「……」


 ヨハネスはしばらく口を噤み、小刻みに震えるアナスタシアのことを見つめてから、優しくその手を取ると、ゆっくりと立ち上がらせた。


「アナスタシア様。……貴女は、身代わりの花嫁を立てるほどに、私との婚姻がお嫌だったのですか?」


 寂しげな、そして悲しげなヨハネスの微笑みを見つめて、アナスタシアは息を呑んだ。この期に及んで何と釈明をしようとしたところで、もう手遅れのようにも思われた。それに、顔を見られてしまえば、ヨハネスを失望させてしまうだろうという思いは今も拭えなかった。

 けれど、アナスタシアの頭の中に、ふと、カトリーナの『貴女様の素直なお心のままに』という言葉が甦ってきた。


(信じていただけるかは、わからないけれど。私の本心のままに、すべてを正直にお話しよう)


 アナスタシアは顔を上げると、心を決めて、ヴェール越しにヨハネスを見つめた。


「……私は、ヨハネス様に国を助けていただいてから、ずっと貴方様のことをお慕いしておりました。けれど、私は貴方様には相応しくありません。……政略結婚で、貴方様にこのような私を娶っていただくのが忍びなく、また貴方様を失望させてしまうのが怖くて、私の心の弱さから、貴方様とのお式の直前に逃げ出してしまったのです」

「ほう。僕に貴女が相応しくないというのは、どういうことだい?」


 アナスタシアは、微かに俯くと、こくりと唾を飲み込んだ。


「……私の顔には、醜い火傷の痕がございます。貴方様がそれをご覧になったら、きっとがっかりなさることでしょう。ヴェールに覆われた私の顔さえ知らないままに、こんなに醜い女と政略結婚していただくなんて、あまりにヨハネス様に申し訳なく……」


 切れ切れに言葉を絞り出したアナスタシアの手を取って、ヨハネスは柔らかくアナスタシアに微笑み掛けた。


「本当に、それだけが、貴女が僕との婚姻から逃げようとした理由ですか?」

「はい、誓ってそれだけですが……」

「では、僕が貴女の顔の火傷の痕を気にしなければ、貴女は僕と結婚してくださると、そういうことですね?」

「……!!」


 アナスタシアの頬が、ヴェールの下でみるみるうちに赤く染まる。彼女が頷いたのを見届けてから、ヨハネスは横にいる神官の顔を見た。


「婚姻の儀式の際に、服装の定めはあっただろうか」

「えっ? いいえ、そのようなものはございませんが……」

「では、構わないな。……せっかくこの場が調っているのだから、このまま二人で式を挙げてしまおう。貴方には、神官としての役目を務め、この場を見届けていただきたい」


 やや驚いた様子の神官だったけれど、目の前の二人の様子を見つめて頷くと、再び祭壇に上がった。

 すぐ傍の冷たい石の床の上で、手足を縛られ、身体の自由を失っていたヨハネスを襲った侍女は、数人の神官に捕らえられ、広間から連れ出されて行った。


 広間の扉が閉まり、ヨハネスと並んだアナスタシアは、信じられない気持ちで、祭壇の上の神官からの祝福の言葉を聞いていた。

 優しい瞳でヨハネスに見つめられ、思わず両目に涙が滲む。


 神官の言葉が途切れ、ヨハネスが一歩アナスタシアに歩み寄ると、彼はゆっくりとヴェールを上げた。アナスタシアは、思わずぎゅっとその瞳を閉じた。


 不安げに目を瞑っているアナスタシアの額の火傷の痕に、ヨハネスは手を伸ばしてそっと触れた。アナスタシアの身体はびくりと震えたけれど、さらに一歩近付いて、彼女に顔を寄せたヨハネスは、その耳元で囁いた。


「これは、政略結婚なんかじゃない。僕が、貴女に自ら結婚を申し込んだんだ」


 はっと目を開いたアナスタシアの口から、どうして、という呟きが漏れる。


「……君の屋敷の地下にいたあの時、焼けるような熱の中で、死を覚悟して絶望しかけていた僕を、あの火の海の中、たった一人迎えに来てくれた勇敢な令嬢が、君だからさ。僕の所に、まるで火の中を飛ぶように走って助けに来てくれた君は、ヴェールで顔が隠れてはいたけれど、まるで女神のようだった」

「なぜ、それが私だと……?」

「その後、すぐにあの時の令嬢が誰かを探したんだ。それが君だと知ったから、僕は自らの意思で、君に結婚して欲しいと思ったんだよ。さっき、広間に風のように駆け込んで来た君の姿を見て、改めて、僕が探していたのは間違いなく君だとわかって、嬉しかった。

この火傷も、あの時に負ったものだろう? ……僕から見たら、僕の命を助けるのと引き換えに負ってくれたこの痕は、愛しいものにしか思えないよ」


 ヨハネスは、アナスタシアの唇と、そして額の火傷の痕にも優しく口付けた。


「アナスタシア様。僕と、生涯を共にしてくださいますか?」

「……はい、ヨハネス様。私でよろしければ、喜んで」


 アナスタシアの瞳からは、大粒の涙が零れ落ちた。普段の式とはやや異なる進行の式ではあったけれど、互いに見つめ合う二人の様子を、神官はその目を細めて、温かく祭壇の上から見守っていた。


***


「カトリーナ、無事に間に合ってよかったね」

「ええ、本当に」


 ラウルとカトリーナは、ヨハネスとアナスタシアが幸せそうな笑顔を浮かべ、二人を囲む人々から祝福の言葉を受ける様子を、少し離れた場所からにこにこと見守っていた。


 アナスタシアは、お色直し用に持参していたもう一着の花嫁衣装に既に着替えを済ませており、事なきを得ていた。主役の二人の他には、ごく限られた者しか今日の事件を知らない。

 ヨハネスとアナスタシアの無事を見届けるとすぐに、カトリーナとラウルは、今回の件が大事にならないように奔走し、そしてアナスタシアの一行に紛れていた北方の国からの間者たちを捕らえていたのだった。


 カトリーナとラウルの姿を認め、感謝を込めて深々と頭を下げるアナスタシアに、彼らはそっと手を振った。


 ラウルは、嬉しそうに二人の姿を見つめながらも、カトリーナの顔を見つめて、少し首を傾げた。


「ねえ、カトリーナ。カトリーナは、かなり早い段階で、アナスタシアさんたちの一行に、何か違和感を覚えていたみたいだったよね。神殿裏の泉のところにあの馬車を追い掛けて行ったお蔭で、今回も大事に至らなかった訳だし。どうして、カトリーナにはそれがわかったの?」

「……私に話し掛けて来た、あの護衛の方。馬を休ませたいと仰っていたけれど、もし神殿が目的地なら、神殿が目と鼻の先のあの場所なら、早く神殿を目指して、厩舎に入れて馬を休ませる方が早いわ。馬を休ませるほかに、何か馬車を止めたい理由があるのかしらって、ふと気になったの」

「うわあ、さすがだね。僕は、全然気付かなかったなあ……」

「そんなことないわ。虫の知らせのようなものだしね」


 カトリーナとラウルがひそひそと交わすそんな会話に、その側で無言で耳を傾けていた一人の青年がいた。


(……ほう、そんなことがあったのか)


 騎士団長であることを示す腕章を身に付けたその青年は、その端正な顔にやや驚きを浮かべると、その口角を薄らと上げた。


「兄さん!」


 ヨハネスの声が、その男性の元に届いた。青年が振り向くと、ヨハネスが、アナスタシアと一緒に彼の元に駆け寄って来た。


「ここにいたんだね。さっきは色々と……ありがとう」

「気にすることはない。無事にお前たちの幸せそうな姿を見れてよかったよ。……ところで、彼女は?」


 彼の視線の先には、ラウルと話すカトリーナの姿があった。ヨハネスの代わりに、アナスタシアが彼に答えた。


「とてもお世話になった、この神殿の神官の方です。彼女のお蔭で、本当に救われました。……カトリーナ様と仰る方です」


(神官のカトリーナ、か……)


 今回の事件の真相を知る数少ない一人であるその青年が、興味深そうにカトリーナを眺めていたことに、ラウルと話し込んでいた彼女は気付いてはいなかった。

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