第15話 アナスタシアの憂鬱(前編)

 カトリーナとラウルが、大通りを神殿に向かって歩いていると、後方から響いて来る馬の蹄の音が次第に近付いて来た。二人が振り返ると、数台の大きな馬車が視界に映った。

 重厚感のある艶に輝く馬車には、慶事を表す朱色と白のリボンが所々にあしらわれ、馬車を取り囲むように並ぶ、体格の良い馬に乗った護衛たちは、異国情緒漂う衣装を身に付けている。


「わあ、立派な馬車だね! あの様子だと、異国からの輿入れの馬車かな?」


 カトリーナは、物珍しそうに馬車を眺めるラウルの言葉に頷いた。


「ええ、ラウルの言う通りだと思うわ。あの、馬車を囲む護衛の方たちが身に付けている、紺地に銀糸で蔓草の模様が入った衣装は、隣国のルフィウス王国の正装よ。隣国では女性は顔をヴェールで覆い隠すのが慣わしだから、馬車の中の花嫁様やお付きの侍女の方々は、きっとヴェールを身に付けているのでしょうね。ルフィウス王国でも地位の高い家から、この国に輿入れをするためにいらしたのかしら。でも……」


 少し言い淀んだカトリーナの言葉を継いで、ラウルが不思議そうに首を傾げながら口を開いた。


「やっぱり、カトリーナも思った? 花嫁さんが乗っているはずの馬車にしては、何かこう……空気が重いよね……?」

「ええ。馬車の中にいらっしゃる方たちは見えないけれど、ここから見る限り、御者も、護衛の方たちも、皆様どことなく表情が翳っているようね。……いったい、なぜかしら」


 二人とも、口には出さなかったものの、間近に迫って来た馬車の一群が纏っている、花嫁行列どころか、どちらかというと葬列に近いような雰囲気に、怪訝に思いながらその様子を見つめていたのだった。


 その時、馬車の護衛と思しき、騎馬に跨っていた青年が、カトリーナとラウルのほうに近付いて来た。


「すみません、この辺りで、どこか水場をご存知ありませんか? 馬車を止めて、少し馬たちを休ませたいのですが……」


 多少訛りのある片言で話し掛けられたけれど、青年の言葉を聞き取ったカトリーナは微笑んで答えた。


「はい、この道を右に入って少し進んだ、神殿の裏手に、湧水の出ている澄んだ泉がございます」

「そうですか、教えていただけて助かりました」


 カトリーナの言葉に頷いて、神殿から少し逸れた方向に向かう護衛と馬車の一群を視線で追っていたカトリーナは、その目をすっと鋭く細めた。


「ラウル、今日、神殿で予定されている結婚式があったわよね?」

「ああ、うん。確か、騎士団の偉い人の結婚式だったと思うけど、さっきの人たち、もしかしてその人に嫁ぐ花嫁さんの一行かな?」

「恐らく、そうなのでしょうね」


 国で唯一の神殿で結婚式を挙げられるのは、通常、国内でも一握りの高位の者だけだった。一際立派な目の前の馬車の様子と、当初向かっていたその方角からは、神殿での結婚式に向かう花嫁一行と考えて、ほぼ間違いないように思われた。


「少し、引っ掛かるわね……。ラウル、彼らの後を追い掛けても? 神殿裏の泉まで、たいして遠くもないし、すぐに着くと思うわ」

「うん、もちろん構わないよ」


 カトリーナとラウルが泉のほとりに着いた時、数台止まっている馬車のうち、最も大きく立派な馬車から、顔をヴェールで覆った女性が二人降り立つと、その脇に止まっていた、少し小振りな馬車に乗り換えようとしていた。服装からは侍女のように見えるその若い女性たちに向かって、カトリーナは声を掛けた。


「あの、すみません。皆様は、本日、ここに程近い神殿で結婚なさる花嫁様のご一行でいらっしゃいますか? 私たちは、その神殿に勤める神官です」

「……はい、その通りです」


 戸惑った様子の二人のうち、神官という言葉に反応したように、一人がカトリーナを振り返って答えた。

 その馬車だけ、御者が先に、今しがた来たばかりの方向に目をやりながら慌しく出発の準備をしているのを見て、カトリーナは口を開いた。


「……貴女様たちの乗り込もうとしているこちらの馬車だけ、どうやらお国に引き返そうとされているようにお見受けしますが。何かあったのですか?」

「ええ。花嫁になる私たちの主人が、大切にしているものを国に忘れて来てしまったと仰るので、私たちが代わりにそれを取りに戻ることにいたしました」


 流暢な彼女の言葉を聞きながら、カトリーナは彼女に近付いて、ヴェール越しに、彼女をじっと見つめた。


「お国に戻ってしまわれるのですか」

「ええ、そうですけれど」

「……本当に、それでよろしいのですか?」

「……」


 ヴェールに隠れてはっきりと表情は見えないものの、彼女がカトリーナの言葉にはっとしたように、その肩が一瞬ぴくりと動いた様子は、すぐ側でカトリーナたちを見守っていたラウルにも見て取ることができた。

 しばし口を噤んでいた彼女は、少し弱々しい声で答えた。


「何を仰っているのか、わかりませんわ。だって、私たちは、主人の忘れ物を取りに国に戻るだけなのですよ?」

「それならば、なぜ、貴女様のヴェールは濡れているのでしょうか。つい先程まで、泣いていらしたのではありませんか?」

「……! そ、それは……」


 カトリーナがその女性と話しているうちに、他の馬車も出発の準備をし始めた。女性はその様子を横目で見ながら、カトリーナに向かって軽く頭を下げた。


「私のことなど、気に掛けていただく必要もございませんから。私たちも、もうそろそろ失礼しますね」


 カトリーナは、手を伸ばして女性の手をそっと握ると、強い瞳で彼女を見つめた。


「……後悔、なさいませんか? だって、貴女様は……」


 そして、カトリーナは抑えた声で女性の耳元に何かを囁きかけた。女性は、カトリーナの言葉に息を飲むと、彼女もヴェール越しにカトリーナを見つめ返してから、諦めたように、一つ小さな溜息を吐いた。


「こちらの国の神官様には、目に見えないものが見える方もいらっしゃると聞いたことがありましたけれど、本当に何でもお見通しなのでしょうか? ……立ち話も何ですわね、では貴女様のお時間を少しいただけるかしら。申し訳ないのだけれど、そちらの方には少しだけお待ちいただいて、貴女様だけこちらの馬車に入っていただいても?」


 カトリーナがラウルを振り返ると、彼は問題ないことを示して頷いた。もう一人の侍女と思しき者も、女性が隣国の言葉で話し掛けると、すぐに深く頭を下げて同意を示した。


 女性とカトリーナが馬車に乗り込み、その扉が閉められると、彼女はゆっくりと口を開いた。


「私はアナスタシア、隣国の侯爵家の娘です。……侍女に扮した私が、本物の花嫁になるはずの者だと、貴女様はどうしてお気付きになられたのですか?」


 カトリーナは薄く微笑んだ。


「私はカトリーナと申します。貴女様の身のこなしには、隠し切れない気品が感じられます。服装が花嫁衣装でなくとも、滲み出る育ちの良さとでも申しますでしょうか。他の侍女の方々とは一線を画す風格のようなものをお持ちでいらっしゃる。それから、その流暢な言葉遣い。この国の言葉を、母国語と遜色ないほどに話せるのは、高い教育の賜物でしょう。……けれど、どうして貴女様はこの結婚から逃げ出そうとなさっているのです? それほどまでにお相手がお嫌なのですか」


 アナスタシアは首を大きく横に振った。


「いえ、逆ですわ。心からお慕いしている方だからこそ、私の、この醜くなってしまった顔を見られたくはないのです。……貴女様にはお見せしましょうか。この痕を見れば、きっとご理解いただけるはずよ」


 女性はヴェールをそっと持ち上げた。ヴェールの下から露わになったのは、美しい女性の顔だったけれど、その右側の額から目の横にかけて、髪の毛でも隠し切れないような、痛々しい火傷の痕が見て取れた。

 彼女はそっと顔の傷痕に指先で触れると、悲しげに微笑んだ。


「今、神殿で私のことを待っていらっしゃる彼……ヨハネス様は、私の母国に北方の国からの軍が攻めて来た時に、この国からの援軍を率いていらした騎士団の方でした。彼ら騎士団のご活躍のお蔭で、私の母国は救われましたし、彼が懸命に私たちを守ってくださる様子に、私もすっかり彼に心を奪われてしまいました。……けれど、攻めて来た敵軍をほぼ追い返せたかと思った頃、最後まで潜んでいた敵軍に、私の屋敷に火を放たれてしまったのです」

「まあ……」

「幸いなことに、火の回りはそれほど早くはなく、何とか命は助かりましたが、私は顔に火傷を負いました。彼は、きっとそのことをご存知ないのでしょう。私はこの顔を、普段はほとんどこのヴェールで覆い隠しておりますが、結婚式の際には、どうしても花婿にヴェールを上げられることになります」


 きゅっと唇を噛んだアナスタシアは、カトリーナを見つめた。


「これほど醜くなってしまった顔を彼に見られるくらいなら、死んだ方がましですわ。彼を愛しているからこそ、彼が私の顔を見て、その表情を歪めるところなんて、絶対に見たくはないのです。けれど……。今ここで引き返せば、もう今後二度と彼に会うことは叶わないでしょう。それが悲しくて、先程まで涙を流しておりました」


 カトリーナは首を横に振った。


「彼ーーヨハネス様は、貴女様がどのような姿であったとしても、貴女様しかお相手に望まれないと思いますよ。……それに、貴女様とヨハネス様は、この上ない性格の相性をお持ちです。幸せを掴むためには、『貴女様の素直なお心のままに』行動なさってください」

「えっ? ……彼がこんな私を望んでくださるなんて、そんなことがあり得るのでしょうか」


 まるで占いのような言葉に少し面食らった様子のアナスタシアに、カトリーナは尋ねた。


「ところで、一つ、質問があるのですが。貴女様は何故、そのような火傷を? 私も、貴女様の国が攻められた際のことは聞き及んでおりますが、高位貴族の屋敷に、敵軍から火を放たれたにもかかわらず、幸いにも酷い怪我人は出なかったと聞いておりました。貴女様は、そのお立場からも、先ず家臣から先に逃がされるはずです。それなのに、どうして……」


 アナスタシアはふっと笑みを漏らした。


「それは、ヨハネス様がその時、私の屋敷にいらしたからですわ。私が屋敷から逃げようとしていた時、彼が地下の武器庫にいると聞いて、このままでは彼が煙に巻かれてしまうと思い、家臣の手を振り切り一人引き返して、地下室から外に通じる隠し通路へと彼をご案内したのです。……彼の元に向かう時、私のヴェールに火が燃え移り、私はこの火傷を負いました。ただ、私は顔もお見せしていませんでしたし、ヨハネス様にはそれが私だったとは気付かれてはいないと思いますけれど」

「そういうことでしたか……」


 気遣わしげにアナスタシアを見つめたカトリーナに、彼女は苦しげに答えた。


「彼から婚姻の申し入れがあった時には、天にも昇るような気持ちでした。けれど、恐らくこの国と、私の母国の関係強化のための政略結婚に過ぎないのだろうと気付いてからは、次第にこの顔を見られてしまう不安の方が大きくなっていきました。私の憂鬱な気持ちを察した様子の侍女や家臣たちには、きっと迷惑を掛けてしまったことでしょう」


 その時、アナスタシアとカトリーナの耳に、馬の軽快な蹄の音と、馬車が動き出すがたごとという音が届いた。どうやら、先に他の馬車たちの方が神殿に向かい始めたらしい。


(……あら?)


 カトリーナは、何かどす黒いものが、彼女たちの乗る馬車の横を通り過ぎて行くのを感じ取った。同じタイミングで、慌てた様子で馬車の扉が叩かれる。


「カトリーナ! ごめん、入っても?」


 カトリーナと顔を見合わせたアナスタシアが急ぎ馬車の扉を開けると、緊迫した表情のラウルが、通り過ぎて行った馬車の後ろ姿を鋭い視線で追っていた。カトリーナが急ぎラウルに駆け寄る。


「ラウル、貴方も今、感じたのね?」

「うん。強い殺気を、あの一番大きな馬車から」

「あの馬車って、私がついさっきまで乗っていた……?」


 戸惑った様子でいるアナスタシアに、カトリーナは尋ねた。


「あの馬車に乗っているのは、どなたですか?」

「……私の侍女です。私が泣き続けているのを見かねたのか、彼女は、私の代わりに事情をヨハネス様に伝えることを買って出てくれました。軽率な行動だということは承知していましたが、それで、私は彼女と衣装を交換したのです。彼女は、今は私の花嫁衣装を着ています。本物の花嫁が姿を消したとわかれば、さすがにヨハネス様も諦めてくださるだろうと、そう彼女は言っていたのですが……」


(もしかすると……)


 カトリーナは、先程彼女に話し掛けてきた護衛の言葉の訛りを思い出すと、はっとして顔を歪めた。


「いけません、急いで追い掛けましょう。場合によっては、アナスタシア様、貴女様は本当にヨハネス様に一生会えなくなってしまうかもしれません。……ヨハネス様の身に危険が迫っている可能性があります」


 アナスタシアの瞳が、みるみるうちに見開かれた。


「そ、そんな! どういうことですか?」

「詳しい話は後ほど。まずは、あの馬車を追いましょう。……ラウル! そしてそちらの侍女の方も、すぐに乗っていただけますか?」


 厳しい表情のまま馬車に乗り込んだラウルは、カトリーナと視線を交わすと頷き合った。


 アナスタシアが不安に身体を震わせる中で、カトリーナたちの乗った馬車は、徐々にスピードを上げながら神殿へと向かう道を進んで行った。

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