第14話 二重人格のレオナルド(後編)

 レオナルドの家を訪れていたマリッサは、不安げに瞳を揺らして彼を見つめていた。


「……どうしたんだい、マリッサ?」


 目の前に座るレオナルドからは優しい声が返って来たけれど、マリッサには、それがレオナルドではないことがわかっていた。

 この日は、まだ一度もレオナルドの人格が現れていないことに、マリッサは焦燥感を募らせていたのだった。


 意を決したように、マリッサは正面からレオナルドを見つめた。


「……ねえ、トレイ様。もう、レオナルド様に、その身体を返してはいただけないでしょうか?」


 レオナルドの表情が、すうっと抜け落ちた。マリッサを見つめる彼の瞳に、失望とも怒りとも取れる、冷たく暗い色が浮かぶ。

 一気に張り詰めた空気に、マリッサの身体はふるりと震えた。


 低く感情を抑えるような声で、レオナルドが呟いた。


「どうして? 君は、俺と共に人生を過ごすことを望んでいたはずだろう。それが叶うというのに、なぜ……」


 レオナルドが右手を伸ばし、マリッサの手首をぐいと捉えた。その強引な手付きに、彼女の身体が強張り、表情が凍り付く。


「どうして、そんな目で俺のことを見るんだい? 最近の君の物憂げな顔を見て、俺も、何も察していなかった訳ではないが。やはり、俺がここに留まるよりも……君の方を、俺と一緒に連れて行くべきだったのかな」


 マリッサの腕を掴んだまま、レオナルドの身体を支配したトレイは、左手でポケットを探ると、ゆっくりと小さなものを取り出した。その、小ぶりだが尖った刃先が、カーテン越しに差し込む陽光に鈍く光るのを見て、それがナイフだと気付いたマリッサは、喉元まで出かかった悲鳴を呑み込んだ。


「なあ、マリッサ。俺と一緒に、この世を離れてついてきてくれるかい?」


(……トレイ様が、トレイ様ではなくなりかけている)


 一瞬言葉を失ったマリッサの瞳には、目の前のレオナルドを操る、我を忘れたトレイの魂が、ゆらめきながら、中心に向かって、次第に墨のように真っ黒に染まって行く様子が映っていた。


「やめて!!」


 鋭く叫んだマリッサの腕を、逃れられないように、トレイがさらにきつく握り締める。

 マリッサの顔が痛みに歪み、その両の瞳には涙が浮かんだ。滲むマリッサの視界の向こう側には、レオナルドではなく、変わってしまったトレイの姿だけが映っていた。


 けれど、その時マリッサがふいに取った行動は、トレイの予想を裏切るものだったので、トレイは思わず大きく体勢を崩した。


「マリッサ!? ……な、何を……」


 マリッサは、トレイから逃げようとする代わりに、泣きながらトレイに抱きついたのだった。振り解けない右手はそのままに、左手をぎゅっとトレイの背中に回していた。


「私が好きだったトレイ様は、こんなことはなさらなかった……!」


 嗚咽を漏らしながら、彼女はトレイを見つめた。


「私はどうなっても構いません。でも、もし私の命を奪ったら、貴方はもう、天の国には昇れなくなってしまう。私のせいで……。お願いです、そんなことはなさらないで」


 急にバランスを崩したトレイの左手からナイフが抜け落ち、マリッサの方向に刃先が向かったのを、慌ててトレイが庇うように弾いた。

 トレイの顔には動揺が走っていたけれど、マリッサは構わず、涙が零れ落ちるままに、彼の瞳を覗き込んだ。


「トレイ様。貴方は、知っていらしたでしょう? 私が、『貴方のことを、誰より大切に想っていた』ことを。貴方と過ごす未来を、いかに切望していたかを。それなのに、なぜ、貴方は私のことを置いて行ってしまったのですか?」

「それは……」


 トレイの声が微かに震える。

 マリッサは、トレイの魂を蝕んでいく黒い靄の動きが止まったのを感じると、思わず目を伏せた彼に対して、必死になって続けた。


「……ある日突然、貴方から、私との将来の約束はなかったことにして欲しいと言われて。貴方は嘆く私を残して、そのまま姿を消してしまいましたね。私がどれだけ貴方を想って泣いたか、貴方には想像がついたでしょうか」


 苦しげに俯くトレイの手を、マリッサはそっと握り締めた。


「貴方が私に別れを告げた理由は、重い病を発症して、もう先が長くないとわかったからだと知ったのは、貴方が既にこの世を去ってからでした。私、もしそうだと知っていたら、どれだけ辛かったとしても、貴方との最後の時間を、せめて一緒に過ごしたかった。

……私を突き放したのは、貴方にとっては優しさだったのかもしれませんが、あまりに勝手ではありませんか?」

「それは……」


 トレイの瞳が揺れる。マリッサは祈るように彼を見つめた。


「貴方が身を隠した理由をただ一人知っていたのが、レオナルド様でしたね。私たち、幼い頃から三人で仲が良くて、何でも言い合える間柄だと、そう信じていたのに。レオナルド様には、貴方にきつく口止めされていたと聞きました。でも、貴方の亡骸を見送る時、苦しそうに、真実を君に告げていた方がよかったのかもしれないと、そう仰っていましたが」

「ああ。レオナルドには、口が裂けても、俺の病のことは君に言うなと伝えていたよ」

「何故ですか? どうして……」


 辛そうに、トレイが両目をぎゅっと閉じた。


「……俺の衰えていく姿を君に見せたくはなかったし、君が泣く姿も見たくはなかったんだ。嘆く君を残していくことが忍びなくて、俺は逃げた。君のことを幸せにできない俺のことを、早く忘れて欲しいと、そう願っていたんだ。すまない。……けれど、俺の魂が身体を離れてから、俺は結局、君の元を去ることができなかった。あれほど君の泣き顔を見たくないと思っていたのに、君が静かに泣いているのを、毎日のように、ただ側で見ていた」

「……トレイ様が近くにいらっしゃるのを、時々、どことなく感じてはおりました。貴方のお姿を見ることは、どれほど望んでも叶いませんでしたが」


 しばらく言葉を切ってから、トレイは寂しげな笑みを浮かべた。


「……君が笑顔になるのを見届けたら、君のいる場所を離れようと思っていたんだ。でも、レオナルドが嘆く君を支え、君に次第に笑顔が戻る様子を見ているうちに、俺の心には少しずつ、羨望と嫉妬が渦巻き始めた。俺の身勝手に過ぎないということは、わかっている。でも、俺は結局のところ、君への未練を捨て切れていなかったんだ」


 彼はちらりと彼女の左手に目をやった。


「君に贈った、君が肌身離さず身に着けると喜んでくれた指輪を、その細い指から外してからは、さらに暗い感情が俺を覆うようになった。君はもう、とうの昔に捨ててしまったのかもしれないが……」


 マリッサは首を横に振ると、首に掛けた細い鎖の端をたくし上げた。鎖の先には、透明に輝く石の付いた、華奢な銀色の指輪が光っている。


「それは……」


 はっとしたように、トレイが目を瞠った。

 マリッサは、指輪を自分の目の前に翳すと、愛おしそうに眺めて微笑んだ。


「これは、私の宝物でした。捨てるなんて、できる筈がありません。レオナルド様を少しずつ、幼馴染みではなく男性として見るようになって……お付き合いすることになってからは、私の指からは外しましたが。でも、ずっと大切にしていたのですよ」


 マリッサはそっと首から細い銀の鎖を外すと、トレイの右手に、鎖ごと指輪をそっと置いた。鎖も指輪も、トレイの掌の上で柔らかな輝きを放っている。


「これは、確かに、俺が君に贈ったものだ……」


 指輪を見つめるトレイの瞳から、涙が溢れ出した。

 マリッサが持っていた指輪から、トレイをどれほど大切に想っていたのか、彼女の過去の記憶が、気持ちが、流れ込んで来たのだ。


 指輪をただ見つめて涙を流すトレイに、マリッサがそっと語りかけた。


「私、今は、私のことを支え、見守ってくれたレオナルド様を愛しています。けれど……あの時、確かに私は貴方だけを、心の底から愛していました。貴方と過ごせて、幸せでした。あの頃の私の心が、想いが、できることなら貴方の側にずっと寄り添っているようにと、そう願っています」


 トレイの涙が零れ落ちるのと同時に、その魂を覆っていた黒い影も、溶けるようにして薄らぎながら消えていくのを、マリッサは息を呑むようにして見つめていた。

 トレイに纏わりついていた闇のような暗さが完全に消え去った時、彼の魂は、レオナルドの身体からふわりと浮き上がった。

 トレイの輪郭は、淡く輝きながら、少しずつ背景に溶け込んでいったけれど、彼の顔に浮かぶ優しい笑みは、確かにマリッサがかつて愛した表情そのものだった。


「マリッサ、ありがとう。……すまなかったな。俺が出会い、愛したのが、君でよかった。それから、レオナルド」


 トレイは、意識を取り戻したレオナルドに話し掛けた。


「……お前、どうして俺に自分の身体を使わせたんだ? お前が抵抗していれば、俺はきっと、ただ指を咥えて君たちを見ているほかなかった筈だ」


(レオナルド様、戻って来てくださったのね)


 安堵の表情を浮かべたマリッサと、宙に浮くトレイのことを、レオナルドは穏やかな表情で交互に見つめた。


「君たちの気持ちを知りながら、僕は君が病に倒れた時、何もすることが出来なかった。そのことを、ずっと後悔していたんだ。僕には、君に僕の身体を貸すことくらいしかできななかったし、それに、トレイ。……君は、何があっても、結局はマリッサを傷付けることなんてしないと、そう信じていたからね」


 トレイは、指輪を携えたまま、さらに高く天へと昇って行く。そして、手にした指輪と共に、その姿を次第に淡く薄れさせた。


「レオナルド、マリッサを頼む。……本当は、俺が世を去る時に、お前に言っておくべきだったのだろうな。お前のマリッサに対する気持ちに、俺は薄々勘付いていたのだから。マリッサ、レオナルド……君たち二人の幸せを、天から願っているよ」

「トレイ様……」


 最後にマリッサに優しく笑い掛けてから、トレイはすうっとその姿を消したのだった。


***


「ほう。例の件、無事に解決したのならよかったね」


 マリッサがカトリーナの元に礼を述べに訪れた後、カトリーナは、レヴィの所へと顔を出していた。


「……お師匠様。私が報告に来なくても、この件が解決したことは、既に見えていらっしゃいましたよね? 私がお師匠様の元に伺ったのは、お礼を申し上げるためですよ」

「お礼?」


 知らないような顔をしてふわっと笑うレヴィに、カトリーナは真顔で答えた。


「ええ。お師匠様が、事前に彼女に憑いている存在を示唆してくださったお蔭で、どうにか間に合いましたので」

「ああ、君があの指輪に通した鎖のことかい?」


 カトリーナは呆気に取られたように、目を瞬いた。


「さすがお師匠様、そこまで把握していらっしゃったなんて……」

「まあ、たまたま見えたんでね。でも、さすがなのはカトリーナじゃない? 君が、あの細い鎖に、指輪に込められた彼女の想いを伝える役割を果たせるように、念を込めておいたんでしょう」

「……何でもお見通しなのですね。お師匠様には、やはり敵いませんね」


 カトリーナは、レヴィとそのまましばらく談笑をしてから、きりのよいところで丁寧に頭を下げた。


「お師匠様、どうもありがとうございました。では、私はこの辺りで失礼しますね。お身体にはどうぞお気をつけて」

「うん、じゃあね、カトリーナ。気になることでも出て来たら、またおいで」


 レヴィは、去って行くカトリーナの背中が小さくなっていくのを見つめながら、ぽつりと呟いた。


「ああ、そういえば、カトリーナに伝え忘れちゃったなぁ」


 完全にカトリーナの姿が視界から消えると、レヴィは静かにその瞳を閉じた。


 中央に、白く清らかな眩い輝きを放つ星が見える。

 そのすぐ側には、これも一際強く輝く星。中央の星に近づいてから、秘めていた輝きが解放されるように、益々その星が明るさを増していく様子を、レヴィは目を細めながら、喜ばしい気持ちで見守っていたのだ。


 そして、その星と逆側から、もう一つの輝きの強い星が、中央の星に次第に近付いて来ている様子が、レヴィには見えていた。


(カトリーナ。輝きが強いほど、光に照らされて浮かび上がる影も、また濃く暗いものになる。危険も少なくはないことだろう。

けれど、そんな君の元には、強い光に導かれるように、光もまた集まってくるようだ)


 可愛い一番弟子の、もう少し先の未来に思いを馳せながら、瞳に何かを捉えたレヴィは、楽しそうにくすりと微笑んだのだった。

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