第13話 二重人格のレオナルド(前編)

「やあ、カトリーナ、元気にしてたかい? しばらく振りだねぇ」

「お師匠様、お久し振りでございます」


 ふわりと笑う、人当たりの柔らかそうなこの男性こそ、カトリーナが占いの師と仰ぐ人物であるレヴィだった。


 瑠璃色の長い髪を緩く後ろで一つに束ね、鮮やかな金色の瞳は楽しそうに輝いている。

 ミステリアスな雰囲気を纏うレヴィの歳は、カトリーナより一回りは上だと思われたけれど、さらに年を重ねていなければ計算が合わないほどに博識である反面、透き通るような白い肌には艶があり、年齢不詳という言葉がぴったりだった。


 占いの師としては二人といない天性の才能の持ち主であり、カトリーナはレヴィを心から尊敬していたけれど、捉えどころのない人だ、というのが、今も昔も変わらない、カトリーナの師匠に対する評である。


 彼には約束という概念があまりない。旅を愛する自由人で、急にふらりとどこかへ姿を消してしまうことも日常茶飯事だった。彼は、占いを商売にしているというよりは、どうしても彼にみてほしい、という人が後をたたないことから、お金が自然と集まってしまう、という方が正しい。会いたいからと言って、会えるとも限らず、会えたら幸運だとも言われていた。


 ただ、レヴィの占いの腕が天下一品であることは間違いなかった。特に星読みに関しては天才と言われ、一度も外したことがない。

 彼は、目の前で穏やかに微笑む、凛とした佇まいになった弟子のカトリーナを見て、その切れ長の目を嬉しそうに細めた。


「立派に、神官らしくなったねぇ。私が君に、弟子入りに興味がないか声を掛けた時に比べたら、随分成長して、大人になったなぁ」

「ふふ、懐かしいですね。急に、占おうかと声を掛けてくださった時には、まさかお師匠様がこれほどの有名人だったなんて知りませんでした。占っていただいた内容も、当時はさっぱり何のことだかわからないものもありましたし……。それに、弟子入りしないかと誘われた時には驚きました」

「まぁ、あれは私としても想定外だったんだけどね。君を占ったら、君以上に私の求める条件にぴったりの人はいないとわかったから。……でもさ、私の言った通りだったでしょう。結構、占いの知識も役に立ってるんじゃない?」

「はい。思っていた以上に、仕事にも活かせている場面が多いです」


 レヴィはカトリーナの言葉に、満足そうに頷いた。


「そろそろ来てくれるかなって、そう思ってたところだったんだよ」

「ええ。実は、お師匠様に聞きたいことがあって。最近の星の配置を見て、不思議に思ったことがあったのですが……」


 レヴィには神出鬼没なところがあったものの、師匠と弟子との阿吽の呼吸というべきか、カトリーナが本当に必要とする時には、不思議と会うことができるのだった。

 彼はにっと笑った。


「本当は、私の背中を見て学んでって言いたいところだけどね。神官になった今の君に、私の占いの手伝いを頼むのは難しいだろうから、今日のところは教えてあげよう。まあ、君が私を手伝ってくれていた時の借りが、まだまだ残っているような気もするしね……」


 カトリーナはレヴィの言葉に苦笑した。ふいに行方知れずになるこの師匠の尻拭いのために、律儀なカトリーナは、学生時代に、授業を終えてから急ぎの依頼者の対応に奔走することもしばしばだったのだ。


 一通り、星廻りに関するカトリーナの質問に答えてから、レヴィはふいに真剣な表情になった。


「そういえば、さ。最近、占って欲しいと私のところに来た人たちの中に、ちょっと気になる人がいたんだ。はじめは、相性占いに来ただけの、普通の仲の良いカップルに見えたんだけど……」


 レヴィが、カトリーナの瞳を覗き込んだ。


「ねぇ、カトリーナ。二重人格の依頼人って、今まで会ったことある?」

「二重人格、ですか……?」


 カトリーナは首を傾げると、目を瞬いた。


「いえ。聞いたことはありますが、直接の依頼人としてお会いしたことはないですね。お師匠様の占った方というのは、二重人格だったのですか?」

「うん、そうみたいでさ。優しげな雰囲気の男性と、綺麗な女性のカップルを占ってーー相性がよいとわかって、二人は嬉しそうにしていたんだけれどねーー、もう帰ろうとした彼らを見送ろうとした時、男性の雰囲気ががらっと変わったんだ。急に目つきも鋭い感じになって、人が変わったみたいに、さ」


 彼は当時を思い返しながら、複雑な表情を浮かべた。


「占いを終えて席を立ったと思ったのに、また座り直して、二人の相性を占って欲しいと言うんだ。戸惑った私に、女性の方が視線で訴えてきて、私たちのことを占ってくださいと改めて言うものだから、私は狐につままれたような気分でもう一度、彼らを占うことにした」

「それは、相当稀なケースでしょうね……」

「まあね。それに、星占いをする時、生まれた時の星の配置が基本になるよね? 君もかなり特殊な、私と同じ能力を持っているからわかると思うけれど、私は目の前の依頼人の生まれた時刻と、その時点の星廻りを『読む』ことができる。その時、その男性の生まれた時の星廻りが、その前に占った時に見えた、彼の星廻りと違っていたんだ」

「……えっ? そんなことが、起こり得るのですか?」


 カトリーナは驚きに目を丸く見開いた。レヴィは、その時占った男性に思いを馳せるように視線を漂わせてから、きゅっと眉根を寄せた。


「私も、こんなことは初めてだったから驚いたよ。それと、もう一つ驚いたことがあってね」

「ほかにも驚くようなことが?」

「ああ。人が変わったようになった男性と、相手の女性との相性も、とても良かった……のだけれど。彼らの過去には温かな光が見えるのに、彼らの未来は、ただ暗いだけで、何にも見えなかったんだ。これって、どういうことかわかる?」

「それは……」


 カトリーナの表情に、さっと緊張が走る。レヴィはふっと息を吐いた。


「これは、多分君の領域なんだろうと思ってね。ただ、彼らにも救いはあるとは思う。はじめに彼らを占った時には、未来はいくつか枝分かれしてはいたけれど、明るい光の差す道も、確かに見えたのだから。近いうち、君のところにも会いに来る様子が見えたから、君にこれを託してもいいかな?」

「これは……?」

「その時の、女性の落とし物。彼女に、これを返してあげてもらえるかい? きっと、大切なものだと思うから」


 カトリーナは、レヴィから掌の上に置かれたそれをじっと眺めてから、そっと握り締めた。


「はい、確かにお預かりしました。その方が私のところにお見えになったら、こちらをお返ししておきますね」


***


 カトリーナが夕闇に沈んでいく神殿で片付けをしていると、神殿の大きな柱の陰で人影が動く姿がちらりと見えた。彼女が片付けの手を止めないままにそっと様子を窺っていると、どうやらその人影は、カトリーナの方に視線を幾度も走らせながらも、声を掛けるどうかを躊躇っている様子である。


 二の足を踏んでいる人影に向かって、カトリーナは穏やかに話し掛けた。


「どうなさいましたか? ……何か御用があるのなら、遠慮なさらないでくださいね」


 驚いたようにぴくりと肩を跳ねさせたその人影は、自らを落ち着かせるように深呼吸を一つしてから、ゆっくりとカトリーナの前に進み出てきた。


 柔らかな栗毛が輪郭を彩る、美しい女性がカトリーナに頭を下げた。暗闇に溶け込むような濃紺のワンピースに、白い肌が映えている。


「神官様、このような形でお声掛けしてしまい、申し訳ありません。その……」


 何か言いづらそうに言葉を選ぶ彼女の姿に、カトリーナは柔らかく笑いかけた。


「だんだん、外も冷えてまいりましたね。よろしければ、こちらでお話を聞かせていただけませんか?」


 そう言って神殿を指し示したカトリーナに頷いた彼女は、その後ろについて神殿の門を潜った。


「何か、温かい飲み物でも?」

「いえ、お心遣いはありがたいのですが、すぐにお暇しますので」


 椅子に腰掛け、膝の上で掌を小さく握り締めた女性は、切羽詰まった表情でカトリーナを見つめた。


「お時間をいただいてしまい、すみません。私はマリッサと申します。来月に挙式を予定している、レオナルド様という婚約者がいるのですが、……ここ最近、彼の様子がおかしいのです。それで、神官様にお話を伺えればと思いまして」

「どのように様子がおかしいのですか?」


 マリッサは、少し逡巡してから続けた。


「その……。時々、人が変わったようになるのです。確かに私の婚約者には違いないのですが、口調も表情も、急に別人のように感じられるのです」


 レヴィの言葉を思い出し、カトリーナは微かに瞳を揺らすと、マリッサの言葉に再び耳を傾けた。彼女からは、途方に暮れている様子が窺えた。


「彼の周囲は最近、彼が二重人格なのではないかと疑っているようです。彼の様子が変わる時、雰囲気や言葉遣いだけでなく、筆跡までもが異なります。とはいえ、変わると言っても、凶暴になるようなことは、今のところないのですが。でも、彼の様子を見ていると、まるで……」


 言い澱んだマリッサの言葉を、カトリーナが継いだ。


「何かに憑かれているように、感じられるのですか?」


 マリッサは、カトリーナの言葉にはっと目を瞠った。


「……はい、神官様の仰る通りです。二か月ほど前からでしょうか、彼にそのような様子が見られるようになりました。けれど、はじめは別人のようになるといっても、ほんの短い時間だけで、気のせいかと思う程度のことだったのです。それが、別人のようになる時間が、次第に長く伸びていって。このままでは、彼が彼ではなくなってしまいそうで……」

「何か、きっかけなどはあったのですか?」

「いえ、特には。はじめ、おかしいなと気付いた時には、話し方や会話の内容が、普段のレオナルド様と比べてどこか違和感がある程度で、一見したところはごく普通でした。……でも、最近、別人のようになった彼の瞳に、暗い色が浮かんでいるのを感じます。時々、恐怖を覚えることもあります」


 厳しい表情で話を聞いているカトリーナを見つめて、マリッサは切迫感を滲ませながら尋ねた。


「あの、身体が乗っ取られてしまうようなことも、起こり得るのでしょうか?」

「状況次第ですね。憑いている存在が、肉体まで完全にコントロールできるようになってしまえば、外観としては乗っ取られたように見えることでしょう。その場合、元の肉体の意識は閉じ込められてしまい、出て来られない状態になります。でも……」


 カトリーナは、今にも泣き出しそうになっているマリッサを落ち着かせるように、穏やかな口調で続けた。


「そのようなことは、憑いている霊がよほど強いものか、あるいは、憑かれている方が何かしらその存在を許容しているような、そんな例外的な状況でもない限りは、あまり起こり得ないのですけれどね。本当に憑かれていることが原因ならば、除霊しさえすれば、レオナルド様は元の通りに戻られると思いますよ」


 マリッサはしばらく押し黙った後で、苦しそうに言葉を絞り出した。


「あの。……もし除霊していただいたとすると、その霊は二度とこの世界には戻れないのですよね?」

「ええ。ただ、それが自然な流れなのですよ。あまり長くこの世に留まってしまうと、その魂自体にも、あまりよくない影響が及ぶことにもなりかねませんから」


 困ったように視線を少し彷徨わせてから、マリッサが口を開いた。


「……レオナルド様がこのようになってしまったのは、きっと私のせいなのです。私、レオナルド様のこと、今では心から愛しています。でも、彼に取り憑いているであろう霊もまた、私にとって……」


 だんだん声がか細くなってきたマリッサに、カトリーナが優しく言い添えた。


「きっと、大切な存在でいらしたのですね?」


 マリッサは唇をきゅっと噛んでから、こくりと頷いた。


「はい。かつては、本当に大事な存在だったのです。私、実はそのような感覚は割合と強い方なので、レオナルド様に憑いているのが彼だというのは、多分、間違ってはいないと思います。恐らく、天に昇らずに私の側についていてくれた彼の霊が、どういう訳か、レオナルド様に憑依するようになったのではないかと、そう思われるのです」

「……そうでしたか」

「昔は、彼は私を見守ってくれているように感じたのに、今、レオナルド様に憑いている存在は、どこか暗い、重苦しい感情を宿しているように思えます。でも、このまま彼を祓ってもらったら、彼本来の澄んだ心を失ったままで、永遠にお別れすることになりそうで……」


 両の瞳に、溢れそうなほどいっぱいの涙を浮かべたマリッサに、カトリーナはそれ以上の詳細を尋ねることはしなかったけれど、真剣な眼差しで彼女を正面から見つめた。


「マリッサ様が、今日お一人でいらした理由はよくわかりました。けれど、レオナルド様を連れて、できるだけ早くこちらにお越しいただいた方がよいかもしれません。レオナルド様に取り憑いている彼は、重さや暗さが増しているように感じるとのお話でしたね? 完全に黒い感情に飲み込まれてしまえば、魂を浄化して天の国に還すことも難しくなりますし、状況を伺う限り、あまり時間が残されていないようにも思われます。それに、レオナルド様にも、そしてマリッサ様にも、危険がないとも言い切れませんので。ただ……」

「ただ?」

「もしも、神殿にいらっしゃるのが間に合わず、その憑いている存在が、負の感情に飲み込まれそうになったのを感じたら。そうしたら、貴女様の嘘偽りのない、彼に対する気持ちを伝えて差し上げてください。『貴方のことを、誰より大切に想っていた』と」

「ああ。……神官様には、そこまでお見通しなのですね」


 マリッサの頬を、はらはらと大粒の涙が伝った。カトリーナは、彼女がハンカチで涙を拭うのを待ってから、ポケットから取り出したものを手渡した。


「それから、これは、貴女様のものではありませんか?」


 まだ赤い瞳をしていたマリッサだったけれど、手の上に乗せられたそれを見て、その顔を輝かせた。


「はい、間違いありません。ずっと探していたのです、よかった……! でも、どうして神官様がこれを?」


 カトリーナは優しく微笑んだ。


「ある方に託されたのですよ。小さなものでしたので、また失くされることのないよう、細い鎖を通しておきましたが、構いませんか?」

「はい、むしろ、そこまでしてくださってありがとうございます。

もう見付からないかと諦めかけていたのですが……本当に感謝しています」


 細く輝く銀色の鎖を首にかけ、その先に下げられたものを、マリッサは胸元で、愛おしそうに両手で包み込んだ。


深々とカトリーナに頭を下げてから立ち去るマリッサの背中を、カトリーナは少し緊張の混じった面持ちで見送っていた。

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