第12話 記憶喪失のシャーロット(後編)

 マーヴィンが帰宅して玄関の扉を開けると、家の中から甘く香ばしい香りが漂ってきた。よい香りに誘われるように彼がキッチンに向かうと、そこには明るい表情でクッキーをオーブンから取り出しているシャーロットの姿があった。


「あら、お父様。お帰りなさい」


 にっこりと笑ったシャーロットに、マーヴィンも微笑みを返した。


「シャーロット、随分と顔色もいいし、体調も良さそうだね。いい香りだ……久し振りだな、シャーロットのクッキーが食べられるのは」

「たくさん焼いたので、お好きなだけ召し上がってくださいね。

今、紅茶も淹れますから」


 シャーロットは手にしていたミトンを外すと、湯を沸かしながら、ポットに茶葉を用意し始めた。


「今日は、ジェイコブは来るのかい?」

「ええ、これからいらっしゃる予定です。それでクッキーを焼こうと思ったのです。……喜んでくださるといいのですが」

「ああ、それは喜ぶだろうね」


 マーヴィンは、嬉しそうに頬をほんのりと染めたシャーロットから、目の前の皿に盛られたクッキーへと視線を移した。プレーンなクッキーに、チョコチップ入りのものや砕いたナッツの入ったもの、ジンジャークッキーなど、様々な種類の焼き立てのクッキーが、どれも美味しそうに顔を覗かせている。

 カトリーナやラウルに聞いた言葉の通り、もう目の前にシャーロットの焼き菓子が並べられていることに、マーヴィンは驚きながらも、娘の回復を感じて嬉しくなった。


(おや?)


 マーヴィンは内心で首を傾げた。シャーロットが事故の以前によく焼いていた、レーズン入りのクッキーだけは、クッキーの山の中に一枚も見当たらなかったのだ。


「レーズン入りのクッキーは、もう焼かないのかい?」

「ええ。あれはグラント様がお好きだったから焼いていましたが……」


 何気なくマーヴィンを振り返りながら答えたシャーロットが、しまったというように、はっと口を押さえた。

 マーヴィンは、思案気な面持ちで、少し青ざめた娘を静かに見つめた。


「シャーロット、君は、グラントのことをもう、思い出して……いや、もしかすると、彼の記憶を失くしていた訳ではなかったのかい?」

「……」


 俯いてしばらく押し黙ったシャーロットに対して、そっと彼女の側に歩み寄ったマーヴィンは、優しい眼差しで彼女の顔を覗き込むと、励ますようにその肩を叩いた。


「シャーロット、どのような理由があったとしても、君を咎める気はまったくないよ。君の記憶がまだ曖昧なら、無理に思い出す必要はないし、もしグラントのことを話したくないのなら、それでももちろん構わない。君の記憶や体調が順調に回復しているのなら、それが私にとっては一番喜ばしいことなのだからね」


 マーヴィンは、真っ直ぐに娘の瞳を見つめた。


「どうか、覚えておいて欲しい。『君の幸せが、私の一番の幸せ』なのだよ。だから、君が後悔のないように結婚相手を選んでくれるのなら、それが誰であろうと、私は君の決定を尊重するし、賛成するよ」

「……本当ですか?」


 おずおずと視線を上げたシャーロットが父の顔を見ると、その瞳には温かい色が湛えられていた。頷いた父に向かって、目に少し涙を浮かべたシャーロットは続けた。


「お父様は、昔から私が貴族の家に嫁ぐことを願っていらっしゃいましたね。私の通う、ほとんどの生徒が貴族の子息である学園でも、誰か良い方はいないのかと、時々溢していらっしゃいましたし。お父様が、貴族の家を出たお母様に申し訳なさを感じて、貴族の血を引く娘の私には、また貴族の名を手にすることを望んでいらっしゃるのだろうと、ずっと以前から感じておりました。……お母様の墓参りの時ですら、私にはきっと貴族の良い相手を見付けるからなんて、そんなことを呟いていらっしゃいましたものね。でも……」


 シャーロットは意を決したように、息を一つふっと吐き出した。


「私、貴族の方たちってあんまり合わないみたいです。中には気が合う方だっていますけれど、大抵の場合、何だか窮屈で。私の好きな馬術だって、屋外での練習を繰り返して陽に焼けただけで、良家の子女には相応しくない、なんて言う方だっているのですよ。毎日のように日傘を差して、大人しく白い肌を守るなんて、私には御免ですわ」


 彼女ははっきりとした口調で続けた。


「商家の出身で、爵位がないというだけで、学園では偏見に晒されることもありますが、私には気になりません。そんな人たちにへつらう気もないですし、仲間に入れて欲しいとも思いません。……ただ、グラント様は違うのかと、そう思ったのですけれど」


 少し弱々しい声になったシャーロットの言葉に、マーヴィンは黙って耳を傾けていた。


「グラント様は、私にそういう色眼鏡では接することなく、馬術競技会での私の技術を褒めてくださって。それがきっかけでよくお話するようになったのですが、まるで王子様のような外見の、そして貴族の中でも女生徒への人気が高い彼が、私を一人の女性として丁寧に扱ってくださることに、私はすっかり舞い上がってしまいました。しばらく彼との時間を過ごし、婚約の申入れをしていただいた時など、天にも昇るような気持ちで。……本当に愚かでしたわ。彼の本心も知らないで」


 シャーロットは、自嘲気味な笑みを浮かべた後で、じっと父を見つめた。


「お父様、私が階段から落ちた後、しばらくは記憶が混沌としていたことは嘘ではありません。頭の中にあった記憶の箱が全部ひっくり返されて、床の上にばら撒かれたような、そんな感覚だったのです。頭のどこかでは覚えているような気がしても、すぐにはその記憶が見つからないような歯痒さがしばらくはありました。もう、ほぼ回復しましたけれどね。……そんな中、私が心細くて、辛くて仕方なかった時に、ずっと一番近くで寄り添ってくださったのがジェイコブ様です」


 ジェイコブの名前を出した時、彼女の表情はふっと柔らかくなり、そしてほんのりと赤く染まった。


「私、ジェイコブ様のこと、もっと以前からお慕いしていたのかもしれません。でも、彼は商家の次男です。お父様が、血の滲むような努力の末に商売を成功させて、私を貴族に嫁がせようとするのを見て、無意識のうちに、貴族の出身ではない彼を、結婚の対象から外そうとしていたのかもしれないと、今となっては思います」


 シャーロットは、今までにないほど真剣な眼差しで、父に懇願するように続けた。


「私が一緒にこれからの人生を過ごしていきたいのは、グラント様ではなく、ジェイコブ様なのです。彼の誠実な優しさと思いやりには、本当に救われました。……それに、私のことをあれほどに好いて、大切にしてくださる方は、どこを探してもほかにはいないでしょう。……お父様のこと、失望させてしまいましたか?」


 マーヴィンはゆっくりと首を横に振った。


「いや、私こそすまなかったね。そんな思いをさせていたとは、知らなかった。……貴族に嫁いで欲しいと思ったのは、君の幸せな将来を願ってのことだ。そこに君の幸せがないのなら、そんなことをする必要はない。むしろ、君が心から生涯を共にしたいと思える相手に出会えたのなら、私にとっても喜ばしいことだよ」

「本当ですか!?」


 瞳を輝かせて頬を紅潮させている娘を見て、マーヴィンも思わず口元を綻ばせた。彼女が今、幸せであることがはっきりと見て取れたからだった。


「……ジェイコブのことは、私もよく知っている。彼は、心根が優しく、努力家で、何より君を大切に想ってくれているのが、最近君たちを見ているとよくわかる。シャーロット、君の選択を祝福するよ」

「お父様、ありがとうございます!」


 マーヴィンに抱き付いたシャーロットは、父の顔を見上げると、少し抑えた声で続けた。


「グラント様が見舞いにいらした時、つい咄嗟に知らないふりをしてしまったのです。すぐに私など諦めてくださると思ったのに、なぜか、なかなか納得していただけなくて。……彼は、家格としてはずっと上の伯爵家です。このまま記憶のないふりを続けた方が、波風を立てずに婚約解消できるかと、そう思ったのですが……。そろそろ、はっきりさせたほうが良いのかもしれませんね。もう、これ以上は彼の顔を見たくないのです」

「どうするかは君に任せるよ。ただ、君がそう願うのなら、必ず彼と婚約解消をして、無事にジェイコブと一緒になれるよう、私も全面的に協力するから。だから、安心していなさい」


 ほっと表情を緩めた娘の髪の毛を、マーヴィンは柔らかく撫でた。

 シャーロットは、父の優しい手を感じながら、階段から落ちた日の出来事を思い返していた。


***


 ある日、シャーロットが忘れ物を取りに教室に戻る途中、廊下を歩いていると、通りがかった空き教室から聞き慣れた声が聞こえてきた。グラントの声だった。


 声を掛けようかと、グラントの声が聞こえてきた教室を覗き込んだけれど、彼の身体にしなだれかかった女生徒の、高く甘さを含んだ笑い声が、彼の声に重なるように聞こえて、思わずぴたりと足を止めた。その場で動けなくなり、そっと扉の影に隠れるようにして耳を澄ませる。


「この前の馬術競技の大会では、グラント様、素敵でしたわ……!優勝おめでとうございます」

「ああ、ありがとう」


 満更でもなさそうな彼の返事に、女生徒の声が続く。


「いつも一位を譲らなかった彼、あの大会では精彩を欠いていましたね。あの方、貴族ではないそうですけれど、彼の馬の操り方は見事で、大会の際にはいつも見惚れていたので、実は少し残念でしたの」


 ふっと笑いを含んだ声で、グラントが返した。


「まあ、あいつの技術については俺も認めるよ。だが、動揺が馬に伝わるようじゃ、まだ甘いな」

「……動揺?」

「ああ。大会の直前、彼の大切な女性が俺のものになると知って、彼は憤っていたからな。彼がずっと、シャーロットのことを目で追っていることくらいは知っていたさ。少し声を掛けたら、彼女は俺に靡いたけれどね」


 シャーロットは、すうっと全身から血の気が引いていくのを感じた。

 それと同時に、今までに感じたことのないような怒りが湧き上がってきた。あの大会でのジェイコブは、まったく彼らしくなかった。ジェイコブにまで、知らぬところで迷惑を掛けてしまっていたのだろうか。


 女生徒が、不服そうに続ける。


「シャーロット様? ……ああ、あの、日焼けした商家のご令嬢ですか。グラント様のものになるですって? ……まさかご婚約でも?」

「ああ、そのまさかさ。学園の卒業までは内緒にしておいて欲しいと、そう告げているがね」


 くすくすと笑う高い声が、シャーロットの耳を突いた。


「あんなに控えめな方とグラント様が婚約だなんて、恥ずかしいですものね? ご実家は随分裕福らしいですけれど、貴族ではないですし。……これも、あの方からもらったものですか?」


 かさりと音が鳴る。女生徒が手に取ったのは、どうやら、シャーロットが焼いたレーズン入りのクッキーが入った袋のようだった。

グラントが美味しいと言ってくれてからというもの、何度も作ってきては差し入れているものだ。


「料理人にでも作らせるか、流行りの菓子店ででも買えばいいのに。こんなみすぼらしいものをグラント様に? やはり、育ちが現れるのかしら。……それでもあの方と婚約なさるなんて。グラント様、残念ですわ」

「彼女は商家の出身だが、あの家が営んでいる商会は、この国でも五本の指に入る有力な商会だからな」

「こんな言い方は失礼ですけれど、お金目的の婚姻というのも、よくありますものね」

「……背に腹は変えられない、か……」


 呟かれたグラントの言葉に、シャーロットは足の力が抜けるのを感じた。


(グラント様は、私のことなんて見ていなかった。お父様の財力を当てにしていただけだったのだわ)


 思わずよろけて扉に手をつくと、ギッと音が鳴った。シャーロットの存在に気付き、はっと驚いたように目を見開いたグラントと、目が合った。


 シャーロットは、ぱっと彼から目を逸らして背を向けると、一目散に走り出した。


「違うんだ。待ってくれ、シャーロット!」


 遠くグラントの声が聞こえたけれど、まるで知らない人の声のように感じた。

 涙で視界が滲む中、必死に走り続けていると、うっかり階段のところで足を踏み外し、身体が宙に浮いたところまでで彼女の記憶は途切れた。


***


「シャーロット、体調はどうだい?」


 シャーロットの元を訪れ、彼女を優しく気遣うジェイコブの言葉に、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「ジェイコブ様のお蔭で、随分良くなりました。今日は、久し振りにクッキーを焼いたんです。よかったら召し上がっていただけませんか?」


 ジェイコブの表情がぱっと明るくなる。


「君が手作りしてくれる焼き菓子は、僕の一番の好物なんだ。嬉しいよ」


 早速クッキーを手に取り頬張るジェイコブの爽やかな横顔を、シャーロットはじっと見つめた。実直さの現れた、今では誰より愛しく感じる顔だった。

 ジェイコブが、シャーロットの視線に気付いて顔を赤らめる。


「どうしたの、シャーロット?」


 シャーロットはくすりと笑った。


「ジェイコブ様のような素敵な方と一緒にいられて、幸せだなって、そう思ったのです」


 その時、玄関のドアベルが鳴った。目を見交わした二人に、少し緊張が走る。


「今日も、君を見舞いに来たのかな……」


 溜息混じりにジェイコブが視線を上げると、苦しそうな表情で、グラントが部屋の外に立ち、仲睦まじく過ごす二人の様子を見つめていた。


 シャーロットの目の前に、携えて来た見舞いの花束を置くと、グラントは、シャーロットが振り解こうとするのも構わず、強引に彼女の手を取った。


「まだ、俺のことを思い出せないのかい? 君は、俺のことをとても愛してくれていたんだ。もちろん、俺も、誰よりも君を。彼ではなく、俺が、君の婚約者なんだよ……」


 見舞いに訪れる度に冷たさを増すシャーロットに、グラントは縋るような視線を向けた。女性なら、思わず許したくなるような甘い顔立ちであることを、本人も自覚しているのだろう。

 けれど、そんな彼にも今は余裕がなく、必死な様子が見て取れた。


「お願いだ、俺の話を聞いてくれないか」


 シャーロットは、固い表情のまま、冷ややかな声で静かに告げた。


「わかりました。では、貴方様のお話を伺いますが、これで最後にしてくださいませ。……ジェイコブ様、申し訳ないのですが、少し彼と二人でお話しても?」

「ああ、わかったよ。もし何かあったら、すぐに呼んでくれ」


 心配そうな視線をシャーロットに向けてからドアを出るジェイコブの背中を見送ると、グラントは彼女に向き直った。


「シャーロット、君の笑顔が見れないことが、これほど苦しいなんて、今まで気付かなかった。すまない。……なかなか俺が君を見舞わなかったことを怒っているのかい? これからは、君を大切にすると誓うよ。だからどうか、俺を許しては貰えないだろうか」


 シャーロットは、彼の言葉にもまったく表情を動かさず、淡々と答えた。


「私が愛しているのは、何度も申し上げているように、ジェイコブ様です。それに、失礼かもしれませんが、私には、貴方様が私を愛してくださっているようには思えません」


 グラントは、少し言葉を詰まらせてから、熱の籠った目でシャーロットを見つめた。


「君が、これほど俺のことを思い出せないなんて、俺の気持ちは伝わっていなかったのかもしれないが。……君の、しなやかに馬を乗りこなす姿から、目が離せなかった。明るくて表情がくるくると動く君といると、飽きなかった。君の優しい気遣いや気配りは、いつも俺の心を温めてくれたし、君の焼いてくれた菓子は美味しくて……特に、レーズンの入ったクッキーは絶品だった。そして、君が俺から申し込んだ婚約を受けてくれた時の、あの可愛い笑顔が忘れられないんだ」


 彼は辛そうに、頑ななシャーロットの様子に息を吐いた。


「……俺は、どうして、君を失ってから気付いたんだろう。君は、この世で1人しかいない、大切な女性だというのに」


 シャーロットはふるりと肩を震わせた。それは、彼の言葉に心を動かされたからではなく、胸の奥から込み上げてくる怒りによるものだった。


「『背に腹は変えられない』ですものね。我慢して私などと結婚してまで、それほどにお金が欲しかったのですか?」


 はっとしたように、グラントの目が驚きに瞠られた。シャーロットは悔しそうに続けた。


「そんな嘘を吐いてまで。どんなに私のことを内心で馬鹿にしていらしても、私の家が商家であることを見下していらしても、それでも父の財力が欲しいと、そういうことなのですか?」


 怒りに震える彼女の声に、グラントの顔がすうっと青ざめた。


「君は……もう、記憶が戻って……」


 シャーロットはゆっくりと椅子から立ち上がった。


「さあ、貴方様のお話は聞きました。もう十分です。どうか、お引き取りください。そして、もう二度と、この家の敷居は跨がないでください。貴方様との婚約は、破棄させていただきます」

「待ってくれ。違うんだ……」


 頭を抱えたグラントだったけれど、観念したように、強張った表情のシャーロットを見つめた。


「君を傷付けてしまって、すまなかった。だが……信じては貰えないかもしれないが、さっき君に告げた言葉は、僕の本心だよ。もっと早くに、君に素直な気持ちを伝えられていれば、何かが違っていたのかな」


 諦めたように笑んでから、彼はシャーロットの家を後にした。

 シャーロットは、ジェイコブの腕に抱かれながら、もう他人になったグラントが視界から消えて行くのを眺めていた。


 その後、シャーロットはジェイコブとの婚約が決まり、二人は学園の卒業を待って結婚することになった。

 マーヴィンは律儀にも、娘の幸せな顛末について、カトリーナとラウルの元に直接礼を述べに訪れたのだった。


***


(……なぜ、こんなことになってしまったのだろう)


 グラントは、痛む心を抱えながら、ジェイコブに守られるように、彼の腕に抱かれたシャーロットから目を逸らせた。

 もう、自分は彼女の婚約者の地位を失ってしまったのだ、為す術は残されてはいない。時間が心の傷を癒してくれるのを待つほかなさそうだった。


(それ以上に彼女を傷付けたのだから、当然か)


 空き教室でたまたま彼に好意を寄せていた女生徒と話していた時、物音がした方向を見ると、真っ青な顔をしたシャーロットが見えた。あの時の彼女の傷付いた表情を、彼は今でも忘れられずにいる。


 女生徒に絡められていた腕を慌てて振り解いて、シャーロットの後を追ったグラントだったけれど、廊下には、もう彼女の姿は見えなくなっていた。散々校内を探したけれど見付からず、彼女が階段から落ちて怪我をしたと知ったのは翌日の話だ。しかも、あのジェイコブが彼女を助けたのだという。


 よりによってあんな話をしている所を見られてしまい、彼女を見舞っても何と謝罪すればよいのかと思うと、グラントはなかなか重い腰を上げられなかった。彼女が記憶を一部失くしていて、自分のことを覚えていないと聞いた時、安心したのは確かだった。……彼女の心は一度、容易く手に入っている。また彼女の心を手にするのも難しくはないだろう、そう彼は考えていた。


 彼女にグラントが近付いたのは、いつも馬術競技で一位を譲らず、忌々しく思っていたジェイコブに一泡吹かせてやりたい、そんな邪な気持ちがきっかけだった。

 実際、学園内では内緒にしていたシャーロットとの婚約をジェイコブにだけは告げ、彼の焦燥に駆られる様子を見て、そして初めて彼に馬術競技で勝った時には、グラントは胸がすくような思いがしたものだった。


 彼がシャーロットの気持ちを掴むのは簡単だった。彼女が素晴らしい技術を持っている馬術を、ただ心のままに褒めればよかった。彼女の腕前は文句の付けようがなく、お世辞を言う必要もなかったけれど、あまり男性に褒められた経験がないのか、それともグラントの容姿に目が眩んだのか、彼がシャーロットの腕を称賛すると、彼女は可愛らしくその頬を染めていた。


 シャーロットとよく話すようになってから、グラントはジェイコブが彼女に熱い視線を投げていた気持ちがわかるようになった。

 彼女は一見平凡な容姿ではあったけれど、表情がよく動いて、それがとても魅力的だった。明るく思いやりがあって、一緒にいると安心感があったし、彼女の作る菓子は美味しかったのだ。


 そして、二人の間には、馬術のほかにも共通点があった。母を幼い頃に失っているということだ。グラントの今の母は、本当の母を亡くした後の後妻で、彼女の金遣いの荒さは伯爵家を傾けるのに十分だった。

 シャーロットの堅実さと優しさは、どこか亡くした母を思い出させ、シャーロットの作るレーズンクッキーの味は、母がよく作ってくれた、幼い頃に自分の好物だったレーズンクッキーの味とそっくり同じだった。彼女に側にいて欲しい、そうグラントが思った気持ちは本物だったはずなのに。


 彼がシャーロットとの婚約を両親に告げると、両親は顔を見合わせて微かに顔を顰めた。商家の娘である彼女に対して、恐らくそのような反応があるだろうことは予想していた。彼女の家がこの国でも有数の商会であり、金銭的な支援も受けられることを告げると、グラントの義母はやや顔を歪めて笑った。


「貴方の容姿なら、お金持ちの貴族令嬢だっていくらでも選べるでしょうに。……まあ、裕福なのは悪くないわね。背に腹は変えられない、ってところかしら」


 貴族ではない相手、かつ控えめな容姿のシャーロットとの婚約を内緒にして欲しいと頼んだのは、そんな義母の言葉や、他人の目に対する後ろめたさがあったこと、そして何より、自分も彼女の気持ちに胡座をかいて、上から目線で、年貢を納めるまでは女性たちにちやほやされる状況を楽しんでおきたい、という傲慢な気持ちがグラントにあったからだ。自分を愛してくれている彼女なら、余程のことがない限り許してくれるだろう、そんな甘えがあった。


 シャーロットが階段から落ちた日、自分に甘えてしなだれかかってきた貴族令嬢の言葉に、やはりそう思われているのかと、思わず義母の言葉が甦り、口から溢れ出てしまった。

 あれは自分の本心ではなかったと、シャーロットに弁解することは、どれほど手を尽くしてもできなかっただろう。あれがどれだけ心を抉る酷い言葉か、自分でも自覚していたのだから。


(あの時、シャーロットと婚約しているのは彼女を愛しているからなのだと、そう正直な自分の気持ちを口に出せていたのなら……)


 自分で思っている以上に、シャーロットに惚れ込んでいたことに気付くのが、これほど遅くなってしまったことを嘆きながら、グラントは失意のうちに、もう失ってしまった彼女の懐かしい笑顔を、記憶の中にただ探し求めていた。

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