第11話 記憶喪失のシャーロット(前編)

 カトリーナの前の椅子に腰を下ろしたのは、品のよい上質な着衣に身を包んだ男性だった。ちらほらと白いものが混じり始めた髪は、丁寧に撫で付けられている。


 どこか疲労の滲む様子の彼は、カトリーナに深く頭を下げてから、ゆっくりと口を開いた。


「私はマーヴィンと申します。本日神官様のところに伺ったのは、娘のシャーロットのことでご相談できればと思ったためです」

「そうでしたか。今日は、お嬢さんはどちらに……?」


 カトリーナが尋ねると、彼は表情を曇らせた。


「シャーロットは家におります。娘は、一か月程前に事故に遭いましてーー通っていた学園で、階段下で倒れているところを見付かったのですが、階段から落ちたのだろうと思われますーー、目立った外傷はなかったものの、頭を強く打ったようでした。しばらくは意識が混濁しており、記憶が覚束なくなっている様子も見られました」

「まあ、そうだったのですね」


 心配そうに眉を下げたカトリーナに、彼は続けた。


「とはいえ、娘はようやく随分と回復してきまして、事故の前とほぼ変わらない生活が送れるようにまでなったのですが……」


 彼の顔に、隠し切れない困惑が滲んでいることを、カトリーナは敏感に感じ取っていた。


「今、娘は、倒れていた彼女を見付けて介抱してくれ、その後も、今に至るまで付き添ってくれている、同じ学園で一学年上のジェイコブという青年と結婚したいと申しています。実は、彼は娘の幼馴染みで、昔から親しくはあったのですが、私は、娘は彼のことを兄のように慕っているものだとばかり思っておりました。しかし、彼は事故の前から娘に想いを寄せていたようで、今では真摯に彼女のことを愛してくれています」

「まあ、それは喜ばしいことですね」


 微笑んだカトリーナに対して、マーヴィンの表情にはやはりどこか影が差している。


「そうですね、ジェイコブは好青年ですし、普通ならば、そのように考えるところなのでしょうが……。シャーロットには、実は一部の記憶が戻ってはいないのです」

「その一部というのは?」

「事故に遭う前のシャーロットに、婚約者がいたということです。婚約者はグラントという、シャーロットと学園で同学年の青年で、伯爵家の跡取り息子です」


 ようやく相談の全貌が掴めてきたカトリーナの前で、彼は少し言葉を切ってから、噛み締めるように続けた。


「娘のシャーロットは、見目はそう目立つ方ではないものの、親の私が言うのも何ですが、大変気立ての良い娘に育ちました。また、馬術の名手でもあります。馬の扱いに関しては、女性では、娘の右に並ぶ者はまずいないでしょう。また、グラントは美しい顔立ちの青年で、また彼自身も馬術に関してはかなりの腕前の持ち主です」

「では、お二人の婚約のきっかけは馬術だったのですか?」

「はい、その通りです。彼は学園でも女生徒に人気があるようなのですが、馬術の競技会で娘を見掛けた際に気に入ってくださったようです。娘もそれからすっかり彼に夢中になりまして、その後二人の婚約が調いました。それが半年ほど前のことでしょうか」

「半年ほど前、ですか。まだ比較的最近のことなのですね」

「ええ。私は、二人が良好な関係を築いているものかと思っていました。……どちらかというと、シャーロットの方が彼に熱を上げているようにも見えましたが。ですが、彼が見舞いに訪れた際、シャーロットは喜ぶどころか、その顔に戸惑いの表情を浮かべただけでした。彼が誰なのか、わからないというのです。なぜ、娘が婚約者のことを思い出せずにいるのか、私にも不思議でなりません」


 ここまで話を聞いて、カトリーナにも、彼の戸惑いが手に取るようにわかった。そして、彼が良き父であり、何より娘を大切に思うが故に悩んでいるのだということも、よく伝わってきていた。

 彼女は思案気に彼に尋ねた。


「シャーロット様は、婚約者のグラント様以外のことは覚えていらっしゃるのですか?」

「……はい、大方はわかるといったところでしょうか。まだ完全に記憶が戻った訳ではないのですが、こと婚約者だった彼に関しては、すっぽりと記憶が抜け落ちてしまっているようなのです」

「そうなのですね。婚約者の記憶だけが抜け落ちている、と。……ほかに、何か気になることはありませんか?」

「はい。実は、娘の事故のことは真っ先にグラント様に知らせたのですが、彼が娘の元をようやく見舞いに訪れたのは、事故からゆうに二週間以上過ぎてからのことだったのです」

「婚約者にしては、随分と見舞うのが遅いですね……」


 カトリーナの言葉に、マーヴィンは微かに苦笑した。


「やはり、そう思われますでしょう? 私も、さすがに一言、彼に苦言を呈しました。彼は歯切れ悪く謝罪の言葉を述べてから、シャーロットと対面したのですが、さすがに娘に忘れられているとは思わなかったようですね。娘の様子に慌てたのか、彼はそれからというもの、頻繁に娘を見舞ってくださるのですが、彼女は困ったようにジェイコブの背中に隠れるばかりなのです」

「まあ、そのようなことが……」

「そう、馬術の腕でいうのなら、ジェイコブも際立った技術の持ち主で、娘とジェイコブは、昔から馬術を介しても親しくしていました。競技会では、ジェイコブはほとんど一位の座を譲ったことがないのですが、ただ、グラントには一度土を付けられたことがありましたね。ちょうど、娘が事故に遭う直前のことでした」


 静かに耳を傾けているカトリーナに、彼は悩ましい胸の内をぽつりぽつりと打ち明けた。


「ジェイコブは穏やかで優しい青年で、華やかなグラントとはタイプが違います。シャーロットがジェイコブを心から愛しているのであれば、グラントとの婚約は白紙に戻して、ジェイコブとの結婚を祝福したいとは思います。けれど、もしジェイコブとの縁談が纏まった後に彼女の記憶が戻ったとしたら、そして、もしグラントを愛していたことを思い出しでもすれば、それこそ娘にとって取り返しのつかないことになってしまいます。……私はそれが心配で、どうしたらよいかわからずにいるのです」


 深い溜息を吐き出したマーヴィンに、カトリーナは気遣わしげな視線を向けてから口を開いた。


「そうでしたか、それはお悩みになるのもごもっともなことですね。グラント様は、なぜ、シャーロット様のところに見舞いに訪れるのが遅かったのか、その理由を仰っていましたか?」

「いえ、それは私も聞いたのですが、彼は口籠って濁していましたね。なので、結局理由はわからず仕舞いです」


 カトリーナは考え込むように俯いてから、もう一度視線を上げた。


「ところで一つ、お伺いしたいのですが。マーヴィン様のご意見として、シャーロット様には、グラント様とジェイコブ様、どちらと結婚なさって欲しいと思われますか?」

「もちろん、娘が幸せになれる相手です。娘の幸せは、私の一番の幸せでもありますから。娘が幸せになってくれさえするのなら、どちらでも構いません。それがどちらなのか、判断しあぐねているところではありますが」


 どこか苦しげに、彼はふっと遠い瞳をした。


「ただ、私が、娘のグラント様との婚約を当初喜んでいた理由の一つが、彼が伯爵家の跡取りであったことは否定できません。私は商家の出身なのですが、早世した妻は貴族家から私に嫁いで来ました。貴族の家名を捨てて来た彼女に、せめて苦労のない生活をと、必死に働いてまいりましたので、今ではかなりの金銭的余裕がありますが、妻の生前には、あまり贅沢をさせてやれなかったのが心残りです」

「……お嬢さんに、奥様が以前に持っていらしたような貴族の家柄をと?」

「娘の通う学園の生徒は、大半が貴族家の出身で、一部には裕福な商人の家の子供も混ざっていますが、やはり家格の違いというものは大きいようでして。格差のある扱いを受けることも少なくはないようです。貴族の血を引く娘を、貴族家に嫁がせてやることで、少しでも娘の将来が安泰になれば、という気持ちがあるのは事実です」

「では、ジェイコブ様は?」

「彼は私の家と同じく商家の次男で、もしシャーロットと結婚することになれば、婿入りをして私の事業を手伝うと言ってくれています。娘も、今はそれに乗り気なのですが。いずれにせよ、娘が心からの愛情を感じる相手と結婚して欲しいですね」

「シャーロット様の、グラント様に関する記憶が戻る気配はまだ見られないのですね?」

「そうですね。彼に対する記憶が戻った上で、シャーロットに結婚相手を選んでもらえるのなら、私は喜んで娘の意思に従います」


 カトリーナは、マーヴィンの瞳を正面からじっと見つめた。


「……ほかに、まだ仰っていないことはありませんか?」


 マーヴィンは驚いたように目を見開いてから、幾度か瞬きを繰り返した。


「神官様は何でもお見通しなのでしょうか。実は、グラントの継ぐ伯爵家は一見羽振りがよく見えますが、実はその家計はかなり苦しい状況で、借金がかさんでいるようです。……まあ、知る人ぞ知る、という裏話ではありますが。対して、私の家には爵位はありませんが、金銭的には十分な余裕があります。娘が彼に嫁いだら、持参金を含めて、十分な支援をするつもりでしたし、先方もそれを望んでいる様子が伺えました。そうすることで、彼を想って頬を染めていた娘の幸せに繋がるのなら、私は喜んで資金援助をしようと思っていましたし、今でもその気持ちは変わりません」


 頷いたカトリーナに向かって、マーヴィンは苦虫を噛み潰したような顔で続けた。


「ですが、あちらのご両親は、恐らく私からの支援の申し出に心が動いただけなのでしょう。彼の相手には、できることなら裕福な貴族令嬢を望んでいたようで、貴族から見れば格下相手となる、この婚約にもあまり乗り気ではない様子でした。まして、シャーロットが記憶を失っていると聞いて、眉を顰めていると聞いています。このまま娘の記憶が戻らなければ、彼とはさすがに破談になることでしょう」

「もう一つ、伺いたいのですが。シャーロット様の事故当時の様子を知っていそうな方を、どなたかご存知ですか?」


 マーヴィンは残念そうに首を横に振った。


「いえ、それがわからないままで。私も学園に足を伸ばして、事故の目撃者がいないかを聞いたのですが、結局わからずじまいでした。ジェイコブも、倒れていたシャーロットを発見しただけで、事故当時の状況はわからなかったようです」


 その時、部屋のドアがノックされ、カトリーナがマーヴィンに視線で確認をしてから返事をすると、ラウルがトレイにティーカップを乗せて部屋に入ってきた。

 マーヴィンとカトリーナの前にラウルがカップを置くと、紅茶の芳しい香りが漂ってきた。


 ラウルが神官服をその身に纏っているのを見て、マーヴィンは恐縮したように頭を下げた。


「神官様御自ら、わざわざありがとうございます」

「いえ。よろしければどうぞお召し上がりください」


 マーヴィンは、紅茶のカップを手に取ると、懐かしそうに目を細めた。


「娘も紅茶が好きで、私にもよく紅茶を淹れてくれるのです。さすがに事故直後はそれどころではありませんでしたが、次第に落ち着いてきてからは、また淹れてくれるようになりました。事故の前には、紅茶に合わせて、焼き菓子などもよく楽しそうに作ってくれたものです。最近はめっきり厨房にも立っていませんが、まあ仕方ないのでしょうね。……ジェイコブやグラントにも、そういえば手作りの焼き菓子を度々差し入れていましたね」


 ラウルがマーヴィンの言葉に柔らかな笑みを浮かべた。


「きっと、遠からず、お嬢さんの手作りの美味しい焼き菓子がまた食べられるのではないでしょうか。僕には、そんな気がします」


 彼の言葉に、カトリーナの瞳がきらりと輝いた。


「私も、彼と同意見ですわ。それから、貴方様の近くに、起きたことのすべてを知っている人がいるのではないかと思います」

「えっ、それは、どういうことですか……?」


 合点がいかない様子で首を傾げたマーヴィンに対して、カトリーナはにっこりと笑うと続けた。


「マーヴィン様、きっとご懸念の件、解決の時も近いと思いますわ。貴方様は、お嬢さんを一番にお考えの、優しいお父様ですね。先ほど仰っていたお言葉の通り、是非お嬢さんに伝えて差し上げてください。『君の幸せが、私の一番の幸せ』だと」

「なかなか、娘に面と向かって言うのも気恥ずかしいような気もしますね……」

「きっとその言葉を伝えたくなるタイミングが、もうじき訪れると思います。大丈夫です、万事が上手く解決いたしますわ」


 マーヴィンは、ようやくその顔に安堵の滲む笑みを浮かべた。


「神官様にそう言っていただくと、肩の荷が降りるような気がいたします。話を聞いてくださって、ありがとうございました」


 深々と頭を下げてから、マーヴィンはカトリーナとラウルの前を辞した。


***


 カトリーナがマーヴィンを見送っていると、ラウルもまた彼の後ろ姿を見つめていることに気が付いて、彼女はラウルに声を掛けた。


「ラウル、さっきはありがとう。あなたの言葉で、彼のお嬢さんの様子が目に浮かんで来たわ。きっと、ラウルにも未来の場面が見えたのでしょう?」


 ラウルはふっと両の口角を上げた。


「少しでも役に立ったならよかったよ。僕がいなくても、カトリーナなら見えていたとは思うけどね。娘を思う親と、親を思う娘、か……」


 ラウルがぽつりとそう呟いたのを聞いて、カトリーナはそっと彼に歩み寄り、寄り添うように側に立った。彼女の労るような表情を見て、ラウルはその手をきゅっと握った。


「僕には、カトリーナがいるから大丈夫だよ」


 カトリーナは、微笑んでラウルの手を握り返すと、最後にもう一度、遠く小さくなったマーヴィンの背中を見つめたのだった。

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