第10話 モニカに残された手紙(後編)

 モニカは、ドレイクから残された手紙を持って、両親とドレイクの実家の侯爵家を訪れていた。


 一方的な相手方からの婚約破棄後の訪問など、気まずいことこの上ない。彼の両親からの謝罪の言葉を、モニカは居心地の悪い思いで聞いていた。加えて、以前に、モニカの家の側でも彼女の姉が駆け落ちしたこともあり、そのことも思い出されて、どちらの家にも後味の悪さが漂う。


 モニカは、ドレイクの両親も自分の両親も暗い表情をしている中、重苦しい雰囲気にいたたまれない気持ちになって、あえて平然とした様子を装って口を開いた。


「すみません、前回こちらにお邪魔した際に、ドレイク様にお貸ししたままになっていた本があるのです。きっと、ドレイク様の部屋の本棚にあると思うのですが、返していただいてもよろしいですか?」


 彼の父親は、疲れの滲む落ち窪んだ目を瞬くと頷いた。


「ああ、もちろんだ。ドレイクが去ってから、彼の部屋はそのままにしてあるから、自由に入って、探してくれて構わないよ」

「ありがとうございます」


 モニカは一礼すると、席を立ってドレイクの部屋のある二階に向かい、そのまま、彼の部屋のドアの前を素通りした。

 彼女が本当に向かっている目的の部屋は、二階の突き当たりにある、昔入ってはいけないと聞いた、あの部屋だ。そして、カトリーナからは幸運を呼ぶと言われた場所である。


 そう言えば、と、部屋の前まで来たモニカはふと思い出した。

 執事から、お化けが出るからこの部屋に入ってはいけないと脅かされた時、普段穏やかなドレイクが、お化けなんていないと、どうしてかひどく憤慨していたことを。

 その時は特に気に留めなかったけれど、あれは何故だったのだろう。


 その部屋のドアの前まで行って、モニカはそっと気配を窺った。特に、中からは何の物音も聞こえない。

 けれど、ちょうど今しがたモニカが通り過ぎて来た方向から、階段を二階に上がる足音が聞こえ、次第に近付いて来たことに、モニカは焦った。


(いけない。このままだと見咎められるかしら)


 立ち入り禁止の部屋の前にいることを改めて自覚したモニカは、慌てて目の前の扉を開けると、暗がりの中にそっと滑り込んだ。


 やはり、部屋の雨戸は閉まっていて、灯りも消されたままになっている。雨戸の隙間から差し込む光だけが頼りの薄暗い空間に、次第に目が慣れて来たモニカは、部屋の左手に置かれた椅子に、誰かが座っていることに気が付いた。そして、その人物は、凍りついたように、じっとモニカを見つめている。


(……!)


 モニカも、はっとしてその人物に目を向けた。

 そこにいたのは、全身を長衣で覆った男性だった。その男性が微かに動くと、外から差し込む薄い光に、きらりと何かが反射する。

 彼女が目を凝らすと、長衣では隠し切れずにいるその男性の首元から顎先と、その両手に、ドレイクからの封筒に入っていたのと同じ、仄かに光を弾く鱗のようなものが輝いていた。


 モニカは、薄暗がりの中に佇むその男性の姿に、思わず息を呑んだ。

 アイスブルーの澄んだ瞳が、まるで彫刻のように均整の取れた顔に輝き、月の光を紡いだような淡い金髪がその輪郭を彩っている。

 けれど、人の顔つきはしているものの、その鱗で覆われている身体からは、いったい彼は人間なのか、それとも何かしら人外の存在なのか、にわかには判別が付かなかった。


 けれど、モニカの口からは、ひとりでに言葉が溢れていた。


「きれい……」


 美しい顔立ちだけでなく、鱗に覆われた身体も含めて、彼の存在すべてがモニカの目を奪った。彼女が目を逸らすこともできずに見惚れていると、彼は躊躇いがちに口を開いた。


「貴女は……私が怖くはないのですか?」


 少し低めの、耳触りのよい声を聞きながら、モニカの心には、くっきりとある言葉が浮かんでいた。


(私に運命の人がいるというのなら、それはこの人だわ)


 それは今までに経験がないほど鮮明な感覚だった。

 そしてまた、彼女はカトリーナの言葉を思い出していた。『直感を信じて』と。

 この強く惹きつけられるような抗い難い感覚は、きっと間違ってはいない筈だと、そうモニカには思えた。


 モニカは彼の言葉に頷くと、そのまま彼に歩み寄り、そっとその鱗に覆われた手を取った。

 驚いたように、彼の肩がぴくりと跳ねたけれど、モニカはその手を離さなかった。ひんやりとした鱗の感触を感じながら、彼の手の甲をそっと撫でると、モニカは彼の目を見つめた。


「あの、あなたのお名前を教えていただいても……?」

「私はレイヴァンと申します、モニカ様」


 モニカは、レイヴァンと名乗った彼の言葉に、目を瞬いた。


「どうして、私の名前をご存知なのですか?」

「……貴女は、弟の婚約者でしたからね。貴女が弟の元に会いに来ている時には、ここからよく、貴女たちの姿を眺めていたのですよ」


 彼は椅子から立ち上がると、そのままモニカの手を引いて、窓際まで連れて行った。雨戸の隙間からは、ドレイクとよく話した庭のベンチが見える。


「レイヴァン様。あなたはどうして、隠れるようにしてこんな所にいらっしゃるのですか? ドレイク様のお兄様だというのに、まだご挨拶すらしていなかったなんて……」


 レイヴァンはその顔を少し歪めて苦笑した。


「私の、この身体を覆う醜い鱗が見えるでしょう? 私は、言い伝えられている呪いをこの身に宿して生まれてしまったようなのです。……昔、まだ今よりも症状が軽かった時に、貴女の姉上との婚約話が持ち上がったことがあったのですが、気味悪がられて逃げられてしまいました。だから、貴女まで驚かせてしまってはいけないと思いましてね」

「それは……姉が大変失礼をいたしました」


 申し訳なさそうに慌てて深く頭を下げたモニカに向かって、レイヴァンは首を横に振った。


「貴女が弟に会いに、この家に来てくださるようになってから、私の身体を覆うこの鱗の増殖も止まり、これでも症状の悪化は食い止められているのです。貴女が聖女の血を引く方だというのは、本当なのですね。……弟がしたことを謝罪させてください。もう貴女のお姿を見れないかと思うと残念ですが、貴女には心から感謝しています」


 寂しそうに、そしてどこか切なげな熱の宿った瞳でモニカを見つめるレイヴァンに、彼女は口を開いた。


「あの。……私でもいいですか?」

「えっ?」

「私とドレイク様との婚約は、もう破棄されています。ですから、……私に、あなたを支えさせてはいただけませんか?」


 信じられないといった様子のレイヴァンの瞳が、大きく見開かれる。


「それは、つまり……」


 モニカは頷くと、勇気を出して言葉を絞り出した。


「よかったら、私を、これからレイヴァン様のお側に置いてはいただけないでしょうか」


***


 モニカが席を外してから、残された双方の両親の間には、しばらく重い沈黙が流れていた。ドレイクの父親は、ようやくその沈黙を破ると、モニカの両親に、テーブルを挟んで深く頭を下げた。


「本来であれば私たちからお詫びに伺うべきところ、ご足労いただいて申し訳ない。恐らくお察しかと思いますが、こちらに本日お越しいただいたのは、聖女の血を引くモニカ様に、最後に一度でも、レイヴァンと会ってはいただけないかと考えたからなのです。今の状況で、このようなお願いをできる立場ではないとわかってはおりますが……」


 モニカの両親は、その言葉に顔を見合わせてから、モニカの父親が申し訳なさそうに口を開いた。


「ご子息を心配なさるお気持ちは、同じ子を持つ親として、よく理解できるのですが。モニカは、婚約者だったドレイク様が突然去ってしまい、ひどく傷付いているようなのです。そんなあの子を、元婚約者の兄に……そして、これも恐縮ですが、昔あの子の姉も受け入れられなかった彼に会わせるなんて、これ以上あの子を傷付けないためにも、私たちとしては了承する訳にはいきません」


 ドレイクの両親が、共にその目に隠し切れない絶望を映して涙を浮かべた時、ぱたぱたと走って来る軽快な足音が聞こえた。

 皆が揃って足音がした方向に視線を向けると、モニカがレイヴァンの鱗に覆われた手とその手を繋ぎ、こちらに向かって来る姿が見える。


 双方の両親が驚きに言葉を失っていると、頬を染めた目の前の二人が視線を交わした。……どこから見ても、想い合っている恋人同士といった風情だ。


「どうなっているんだ、レイヴァン……?」


 いったい何が起きているのかと、何やら信じられない急展開のあったらしい二人を見て呆気に取られている様子の父の言葉に、彼らは笑顔で見つめ合うと、レイヴァンが口を開いた。


「突然ではありますが、……私たち二人の婚約を認めてはいただけませんか?」


***


(確かに、ドレイクの言っていたことは正しかったようだな。……伝えられていたように、呪いを解く相手は、相思相愛で強い愛情の結び付きが生じるというのは、どうやら本当のことのようだ)


 ドレイクは、姿を消す直前に父親に訴えていた。


「父さん。父さんのやり方は、間違っているよ。モニカを僕と結婚させて、モニカがこの家に嫁いで来れば、兄さんの病状を抑えられる筈だって、そう思っているのでしょう?もし兄さん本人をモニカに紹介して、彼女の姉上と同じように、また逃げられたら困るって」

「それは……」


 渋い顔で口を噤んだ父に、彼は必死に続けた。


「確かに、モニカは結婚相手としては申し分のない、とてもいい娘だよ。けれど、兄さんを見ていればわかる。兄さんは、モニカのことを好いているよ。彼女を妹のように感じている僕よりも余程、女性としてね」

「だが、そうは言っても、もし彼女がこの家に来なくなってしまったら……」

「それで、兄さんの病状の悪化を食い止められるとしても。兄さんの気持ちはどうなるんだい? 愛する女性が弟と結婚するのを、ただ側で眺めているだけなんて、そんなの、かえって生き地獄じゃないか。……それにね、きっと、モニカは兄さんを気に入るような気がするんだ」


 ドレイクは、モニカの姉が顔合わせにとレイヴァンに会いに来た時、一緒について来ていた、まだ幼かったモニカの様子を覚えていたのだ。モニカの姉が、鱗状の皮膚が所々露わになったレイヴァンを見て青ざめたのに対して、モニカはその目を輝かせたことを。

 そして、その後モニカはすぐに疲れて、彼女の母の腕の中で眠ってしまったけれど、目覚めてから「きれいなきらきらの王子様の夢を見た」なんて言っていたことも。


 けれど、そんなドレイクの訴えにかえって焦った彼の父は、結納の日取りをむしろ早めようとした。そして、ドレイクは、モニカにあの手紙を残して去ることになったのである。


***


「……あら、随分、白い肌が戻って来ましたね」


 するりとレイヴァンの腕を撫でるモニカに、彼が優しく微笑み掛けた。


「貴女が私の側にいてくれるお蔭ですよ、モニカ。……でも、何だか寂しそうですね?」

「そうね。あなたのきらきらした鱗も綺麗だと思うから、消えてしまうのは惜しいような気もするけれど。でも、今のあなたの白い肌も、もちろん私は好きですよ。それがあなたなら、私はどちらでも大好き」

「……貴女には、敵いませんね」


 婚約者となったモニカを愛しげに抱き寄せたレイヴァンは、何かを思い出したように、少し眉を寄せた。


「ドレイクが貴女に残していった、あの手紙。私のことを思って、ドレイクは身を引いたのでしょうね。……ドレイクは、貴女のことを想いつつ、後ろ髪を引かれる思いで去って行ったのではないでしょうか」

「あら、あの手紙のメッセージに、あなたもお気付きだったのですか?」

「……あの言葉遊びは、昔、私が彼に教えたものなのですよ」


 モニカは、合点がいったというように頷いた。


「そうだったのですね。私は、大切な友人に教えてもらってようやく、昔、彼と同じ言葉遊びをしたことを思い出しました」


 ドレイクが、モニカに残していった手紙。その文章の頭文字を並べると、『あにをたすけて』になることを、カトリーナはモニカに伝えていたのだ。


「でも……」


 モニカは少し苦笑した。


「単なる言葉遊びなのだから、文章の頭文字以外の言葉なんてどうでもいいって、普通は思いそうなものでしょう? けれど、昔、ドレイク様とこの遊びをした時、ドレイク様は、毎回律儀にも、中身にまでこだわって、適当に誤ったことを書かれたことはなかったのです。ですから、あの手紙も、その言葉の通り、きっと真実なのでしょう。……彼も、きっと今頃、愛する方と幸せになっていると思いますわ」

「そう信じたいですね」


 モニカは、いつ見ても見飽きることのない、大好きなレイヴァンの笑顔に安堵が滲む様子を見つめながら、改めて、運命の相手と出会わせてくれたカトリーナの助言に、心の底から感謝したのだった。

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