第7話 カトリーナの守護天使(前編)

「カートリーナっ!!」

「きゃあっ!?」


 ふいに後ろから左腕に抱きつかれて、驚きに小さく悲鳴を上げたカトリーナが左を振り向くと、悪戯っぽく微笑む一人の青年の姿があった。


 まだあどけなさの残る中性的なその顔は、思わずはっとするほどに美しい。光を弾く黒髪がさらりと流れ、滑らかで透き通るような色白の肌には、形のよいアーモンド型の強い瞳が輝いている。

 瞳は一見、何の変哲もない茶色のようにも見えるけれど、光の当たる角度によっては、鮮やかな赤色にも見え、どこか神秘的な雰囲気を醸し出していた。


「ラウル、もう、驚かさないでよ。びっくりしたわ」

「このところ、なかなかカトリーナに会えなくて寂しかったから、つい、ね。……最近、ちょっと忙し過ぎるんじゃないの。ちゃんと休みを取ってる?」

「ええ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう。それに、今、さりげなく私のことを浄化してくれたでしょう?」

「あ、気付いた? さすが、カトリーナだね」


 感心したような様子でカトリーナを見るラウルは、年こそカトリーナの一つ下だけれど、神官としてはカトリーナの二年先輩に当たる。

 先輩風を吹かせるラウルに、カトリーナはくすりと笑った。


「ラウルこそ、さすがね。自分のことは、他人を見るのと比べてどうしても見えにくいのだけど、ラウルのお蔭で助かったわ。……それにしても、少し見ないうちに、随分背が伸びたんじゃないかしら?」

「うん、そうかもしれない。カトリーナに拾われた時は、まだカトリーナより背も低かったけど、やっと追い越せたよ」


 カトリーナはラウルを見上げた。今の彼は、彼女よりも頭半分くらい背が高い。ラウルの成長を感じて、カトリーナは嬉しそうに目を細めた。

 そんなカトリーナの様子に、ラウルは少し頬を染める。


「どう? ちょっとは大人になったでしょ。もう、僕のこと、子供扱いしないでよ」

「あら。あなたのことは、元から子供扱いなんてしていないつもりだけれど……」


 そう言いながら、カトリーナはラウルと出会った時のことを思い出していた。


***


 カトリーナが初めてラウルの姿を見掛けたのは、カトリーナが下町まで足を伸ばしていた時だった。


 平屋建ての簡素な住居が密集した、比較的貧しい平民たちの住むその町の、ある粗末な家屋の陰に溶け込むように、彼は両膝を抱え、俯いて座り込んでいた。


(なぜ、家の外のこんな場所に、子供が……?)


 カトリーナは気になって、ゆっくりと彼に歩み寄った。男の子にしては随分と華奢な……というよりは、ろくに食べ物を摂っていないのではないかという線の細い身体つきで、身に付けた衣服は薄汚れ、所々擦り切れている。

 顔を膝に埋めるように俯けている彼の肩が震えている様子を見て、カトリーナは彼に近付くと、少し膝を屈めて優しく話し掛けた。


「あの、あなた……」

「うわっ! く、来るなっ。来ないでくれっ……!」


 彼ははっと顔を上げると、その瞳に隠し切れない恐怖を映し、怯えた様子で滅茶苦茶に両手を振り回した。

 カトリーナはその時、彼の周りに多数の黒い影が纏わりついていることに気付いて、思わず息を呑んだ。


(これは……。かなり憑かれているわね。この子、きっと見えるのね)


 カトリーナも同じような能力を生まれ持っているから、彼の状況は手に取るようにわかった。

 霊感が強く、他の人には見えないものが見えるということは、神に仕える神官としては必要な資質ではあるものの、その能力ゆえに苦悩することも少なくない。特に、その力を十分にコントロールできるようになるまでは、尚更だ。


 カトリーナは神官の家系に生まれたから、幼い頃から十分な訓練を積んでいた。それでも、夜に眠れなくなるくらいの恐怖を覚えたことは、今までに数え切れないほどあった。

 見えることを察されると、何らかの理由で天に昇らずにいた魂や、生前の恨みを抱えたまま悪霊に変化してしまったような存在たちが、ゆらゆらと集まってくるのだ。


 それでも、カトリーナはまだ自らが恵まれていることを自覚していた。大抵、このような能力は神官にみられ、そして遺伝により伝わるため、見える能力を受け継いだ者が黒い影に憑かれたとしても、親や周囲が手を差し伸べて助けることができる。

 けれど、ごく稀に、突然そのような「見える」者が神官以外の家系に生まれることがある。そうなった場合には悲劇だ。カトリーナも、それまではそのような存在に出会ったことはなかったけれど、気が狂っているとか、呪われているなどと言われ、憑かれたまま命を落とす者も多いと、そう噂には聞いていた。


 カトリーナは、彼の暴れる様子にも構わず、そっと彼の肩に手を置いた。彼はカトリーナの掌の感触に驚いたように、びくりと肩を跳ね上げ、ぎゅっと目を瞑った。間もなく、彼を取り囲んでいた影たちが、すうっと消えて行った。


「……?」


 恐る恐る目を開けた彼は、ゆっくりと周りを見回した。


「あれ、いなくなってる…?」


 そして、彼の視線は、今しがた彼の肩から手を離したカトリーナに行き着いた。目の前の大人しそうな少女の、少し長めの前髪に半ば隠れた琥珀色の瞳には、驚くほどに優しい、彼を気遣う色が浮かんでいた。


「大丈夫? ……怖かったでしょう」


 彼女はラウルに向かって微笑んだ。


「私は、カトリーナというの。あなた、お名前は?」

「僕は、ラウル。あの、あなたが、僕を助けてくれたの……?」


 ようやく顔を上げた彼がおずおずと問い掛けると、カトリーナはその問いに答える代わりに、ぎゅっと唇を引き結ぶと、労わるように彼の背中を撫でた。


「今まで一人で戦っていたなんて、偉いわ。辛かったわね。……ラウル、あなたは、とても強い心を持っているのね」


 驚いたように目を瞠ったラウルの瞳に、熱いものが込み上げる。堪え切れずに、その両目からは、はらはらと大粒の涙が零れ落ちた。


(僕にこんな言葉を掛けてくれた人は、今までいなかった。いつも、僕は呪いの子とか、禍いを呼ぶ子とか呼ばれて、家族にも忌み嫌われていたのに……)


 目の前に突然現れた初めての理解者に、思わずすがるようにラウルが抱きつくと、カトリーナはそのまま優しくふわりと抱き締めてくれた。そんな温かさを感じたのも、ラウルの記憶にある限りは初めてだった。


 ひとしきり泣いてから、ラウルははっと顔を上げ、慌ててカトリーナから身体を離した。自分の身なりが悪く、身体も汚れていることを思い出したのだ。服だって汚れてぼろぼろだし、風呂にも随分入っていない身体は垢にまみれて黒ずんでいる。自分ではあまりわからないけれど、きっと悪臭だって発していることだろう。


 カトリーナという少女は、楚々とした小綺麗な身なりをしていた。自分が抱きついたせいで、彼女の白い衣服に汚れが移っているのを見て、ラウルは申し訳なくなった。


「ご、ごめんなさい。あなたの服を、汚してしまって……」


 けれど、カトリーナはまったく服を気にする様子もなく、にっこりと笑った。


「いいえ、何も気にすることはないわ。……ねえ、もしよかったら、なのだけれど。あなたには、とても強い霊感があるようだわ。

あなたには、神官としての素質があると思うの。神官になる修行をしてみない?」

「えっ。し、神官?」


 ラウルは耳を疑った。神官といえば、この国の貴族階級を飛び越えた、特権階級に当たる。自分は、平民の中でも貧しい家庭の出身、しかも、家族にも疎まれているのに、そんな夢のような可能性があるとでもいうのだろうか、と。


 カトリーナはきっぱりと頷くと続けた。


「ええ。……あなたの持っている力を自分でうまくコントロールできるようになれば、さっきのような薄い影であれば自分で祓えるわ。でも、今のあなたの状況は危険なの。きっと、今までにも、同じような目に遭ったことがあるでしょう?」

「うん。こういうことは、しょっちゅうなんだ」

「もしそうすることになると、しばらくは、ご家族から離れて、神殿に来てもらうことになると思うけれど。神殿には、悪い霊が入れないように結界を張ってある場所があるの。そこで、落ち着くまで訓練するのが、一番いいと思うわ。あなたのご家族がそれを了承してくださるか、わからないけれど……」


 ラウルは、カトリーナの言葉に、力なく溜息混じりに笑った。


「僕は、家族のはみ出し者だから。僕がいると、近所にもおかしな目で見られるって、僕の存在が家にいること自体を嫌がられているんだ。何も、問題ないと思うよ。もしそんな修行を僕にさせてもらえるのなら、ぜひ連れて行って欲しいな。……あなたも、神官なの?」


 随分と若いカトリーナの様子に、躊躇いがちにラウルが尋ねる。カトリーナは微笑むと、首を横に振った。


「私のことは、カトリーナでいいわよ。私は、まだ神官ではなくて、学生の身分なのだけれど。私の父が神官をしていて、私もゆくゆくは神官になるつもりよ。では、ラウル。あなたのご家族のところに伺っても?」


 何となく予想はしていたものの、神官の娘という言葉に、緊張でごくりと喉が鳴る。ラウルにとっては、雲の上の、そのまた上のような存在だった。


「……うん。この家が、僕の家だよ」


 ラウルが座り込んでいたちょうど横のあばら屋を、彼は指差した。彼の瞳に暗い影がよぎるのを、カトリーナは悲しい思いで見つめていた。


「……母さん、いる?」


 ラウルが家の中に向かって呼び掛けると、苛立った様子で、ラウルとカトリーナの前に一人の女性が現れた。カトリーナは、素早く彼女を観察した。疲れた様子の彼女の顔には深い皺が刻まれていたが、色白な彼女の顔立ちは整っており、昔はかなりの美貌を誇っていたのだろうと思われた。

 彼女は、現れるなりラウルに怒鳴りつけた。


「ラウル、さっき、またおかしな悲鳴を上げてなかったかい? ……もう、いい加減にしておくれよ。お前のお蔭で、うちの評判は酷いもんだ。お前には、家に入るなって何度も言っているだろう」


 そこまで言ってから、彼女は俯いて小さくなったラウルの横に、カトリーナの姿を認めた。


「あら、お客さんかい? ……ラウル、それならそうと、早く言っておくれよ。あなた、随分と若いみたいだけど、どんなご用件だい?」


 ラウルの母から話し掛けられたカトリーナが手短に要件を告げると、彼女の目が欲深な色に光った。

 その横から、心なしか彼女に似た青年が顔を覗かせている。こちらはラウルよりも身なりがよくて小ざっぱりとしており、体格も大きい。

 ラウルは彼らに向かって口を開いた。


「母さん、兄さん。僕、神官になる修行を受けに行きたいんだ。ここにいても、さっき母さんが言っていた通り、うちの迷惑になるだけだし……」


 ラウルの母は、彼の言葉を聞きながら、値踏みするようにカトリーナを眺めていた。

 少し考える様子を見せてから、彼女はカトリーナに猫撫で声で話し掛けた。


「ラウルは、私の可愛い息子なんです。でも、神殿なんて場違いな所に行ったら最後、きっともうここには戻って来やしないでしょう。……それでも、どうしても息子を連れて行くというのなら、せめてその対価として……」


 ラウルは、自分の母親がカトリーナに、自分を連れて行く代わりにと法外な金額を吹っ掛けるのを、目を丸くして聞いていた。

 自分など彼らにとってはいない方がいいのだから、縁を切るような、売られるような言葉それ自体は理解できる。……売る程の価値が自分にあるのかは、わからないけれど。でも、それはどう考えても、自分の対価としてまっとうな金額ではない。

 ラウルは慌てて、母の言葉を遮った。


「何を言ってるんだ、母さん? 僕なんて、この家の邪魔者に過ぎないだろう? そんな途方もない金額を要求するなんて……」


 その時、カトリーナがラウルの肩をそっと叩いた。振り向いたラウルが言葉を切ると、彼女がラウルの代わりに続けた。


「わかりました、今仰られたその金額をお支払いしましょう。けれど、今後はずっと、ラウルは神殿で預からせていただきます。よろしいですか?」


 ラウルにもそれで問題ないかを確認するように、カトリーナは最後に、問い掛けるように彼を振り返った。

 カトリーナの瞳には、ラウルへの同情ではなく、家族からの彼の扱いへの憤りが見えた。ラウルを金銭で手放そうとする彼の母に対しての、彼の気持ちを慮ったその表情を見て、彼は言葉も出ないまま、ただ頷いた。

 こんな心強い味方が側にいてくれることは、彼にとっては生まれて初めてのことだった。


 隠し切れない喜色が、ラウルの母と兄の顔に浮かぶ。

 カトリーナは、まず頭金にと、持っていた金銭を差し出した。それですら、自分などには勿体ないほどの金額に、ラウルには思えた。

 彼の母と兄も、誠実そうなカトリーナの様子を見て信じたのか、あるいは目の前に置かれた金を見て食指が動いたのか、すぐにその金に飛び付いた。


「じゃあ、行きましょうか……?」


 囁くように小声で告げたカトリーナに、ラウルは頷いた。ラウルの母も兄も、目をぎらつかせて目の前の金を数えているだけで、去って行く彼を見ようともしない。


 ……もう、自分は二度と彼らと会うことはないだろう。

 あまりにもあっさりと家族と縁が切れたことに、悲しみよりも解放感を覚えている自分を少し不思議に思いながら、ラウルは自分の手を引くカトリーナの背中を見つめた。彼女の手は、とても温かかった。


 しばらく無言でカトリーナが歩いていたので、ラウルは心配になって、手を繋いでいるカトリーナに尋ねた。


「あの。……僕にあんな金額、勿体なかったよね? 助けてもらった上に、すみません……」


 振り返ったカトリーナの顔を見て、ラウルは驚いた。カトリーナは、悔しそうに目に涙を浮かべていたのだ。


 足を止めたカトリーナは、ラウルの言葉に首を大きく横に振ると、ラウルの両肩に手を添えて、真っ直ぐにラウルを見つめた。


「いいえ、そんなことはないわ。……よく覚えておいて。『あなたの価値は、あんなものではない』のだから」


 彼女は一度言葉を切ってから、じっと彼の瞳を覗き込んだ。


「あなたは、素晴らしい能力の持ち主だし、それ以上に、あなた自身が痛みを知っているからこそ、きっと、痛みを抱える多くの人を救うことが出来るはずよ。……あなたは、立派な神官になる。ラウル、私を信じて」

「……カトリーナ、ありがとう」


 ラウルはそう言うと、鼻の奥がつんと痛くなり、カトリーナの言葉にまた涙が出そうになって、すぐに俯いた。彼女の言葉には、嘘は感じられなかった。


 ラウルには、何となくわかった。

 さっき、彼の母が吹っ掛けた金額の、仮に半分の金額でカトリーナが交渉したとしても、彼の母は喜んでそれを飲んだことだろう。

 カトリーナもきっとそれをわかっていて、それでもあえて、言い値を払うと即座に言った。

 ……それは、ラウルにはそれ以上の価値があると、カトリーナはあの行動で、そう言外にラウルに伝えたかったからなのだろうと、そんな気がしたのだ。


 ラウルがカトリーナと握った手にぎゅっと力を込めると、彼女もその手を握り返して、もう一度彼を振り返って微笑んだ。


(あら……?)


 カトリーナは、ラウルの背後に一瞬、白い翼が見えたような気がして、その目を瞬いた。けれど、それはすぐに消えてしまって、その後は目を凝らしても、何も見ることはできなかった。

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