第6話 テオドールの胸騒ぎ(後編)

「あら、早かったのね」


 そう言って微笑むシンディの様子が、先程よりも穏やかで落ち着いているのを見て、テオドールは内心で安堵の溜息を吐いた。


 シンディが来ていたのは、テオドールの予想通り、テオドールが父の跡を継いだ商会の建物の事務室だった。


 彼女は、ここ最近はテオドールの仕事を時々手伝っており、休憩の際にはさりげなくお茶や菓子類をテオドールに用意してくれている。生き生きとした花々を商会の主だったところに飾るのも、今やシンディのルーティンの一つだった。事務所の棚の上の花瓶にも、先程テオドールとシンディが摘んで来た花々が、既に美しく活けられていた。


「ああ。……早く君に会いたくて、走って追い掛けて来たんだ」

「まあ、大袈裟ですわ。もうすぐ、一緒に暮らすことになるというのに」


 ほんの僅かに、シンディの言葉尻が震えたことにテオドールは気付いた。カトリーナに聞いた言葉を思い出し、思わずごくりと唾を飲む。


「今、すぐにコーヒーを淹れますね」

「ありがとう。頼むよ。……ところで、シンディ」

「何ですか?」


 テオドールは、何から話したものかと切り出しあぐねていた。焦る気持ちが空回りする。

 ここで口にする言葉を間違えたら、きっとすべてが終わってしまう。それだけは彼にもわかっていた。


「さ、どうぞ」


 テオドールの目の前に、湯気の立つコーヒーがシンディから差し出される。


 カップを受け取りながら、テオドールは伏し目がちにシンディに話し掛けた。


「……僕たちのいるこの建物は、周囲と比べると新しいだろう?……ここは昔、火事で全焼したことがあって、その後に建て直したものなんだ」

「……」


 テオドールの言葉に、シンディの手がぴたりと止まった。


「その火事の時、僕は一人逃げ遅れて、ここにあった古い建物の中にいたんだ。黒い煙が充満して、炎が迫って来て、熱くて、……とても怖かった。そんな時、僕を助けに来てくれた人がいたんだ。僕が、兄のように慕っていた人だ」


 シンディの瞳が揺れる。テオドールはそんな彼女の様子をじっと見つめた。


「彼は、僕の命の恩人だよ。感謝してもしきれないし、今まで一度だって彼のことを忘れたことはない」

「……どうして、私にそんな話を?」


 シンディの声に隠し切れない動揺が滲むのに気付かない振りをして、テオドールは続けた。


「君が、どこか彼に似ているような気がしたからかな。君の優しいところや、笑う時に温かく細められる君の金色の瞳が、どこか僕に彼のことを思い出させるんだ」

「そうでしょうか?他人の空似という言葉もありますからね。それに、女性に向かって、知り合いの男性に似ているなんて、あまり気の利いた言葉ではありませんよ? ……さ、コーヒーが冷める前に召し上がってくださいな」

「ああ、そうだね」


 冗談めかして笑ったシンディに笑みを返してから、テオドールは手にしたカップに口を付け、それからソーサーに戻した。

 間もなく、下を向いて目を閉じたテオドールの口元から、軽い寝息が聞こえ始めた。


 シンディは、そんなテオドールの側に近付くと、小さな声で呟いた。


「……さようなら、愛しい人」


 シンディは、テオドールの顔の間近に自分の顔を近付け、その姿を目に焼き付けるようにじっと見つめてから、ゆっくりと自分の目の前に用意したコーヒーカップに視線を移した。


 自分用のカップには、テオドールに用意したものとは違う中身が入っている。

 黒いコーヒーの色からは、一見すると違いはわからないけれど、先程摘んできた花の中に混ぜて持ち帰って来た、ある草を潰して抽出した液体が混ぜてあった。


 最後にと、胸元にあるはずのロケットを探したシンディの指が、ぴたりと止まった。


(……ないわ。落としたのかしら)


 その口元にふっと、諦めにも似た笑みが微かに浮かぶ。


「もうすぐお兄様に会えるのだもの。もう、なくたって構わないわね」


 そう独りごちたシンディが、コーヒーカップを口元まで運んだ時、テオドールが素早く椅子から身体を起こして腕を伸ばすと、シンディのカップを床へと叩き落とした。

 ガチャリとカップの割れる音と共に、中に入っていたコーヒーが床へと飛び散る。


 シンディは信じられない様子で、大きくその瞳を見開いた。


「なっ……どうして!? あなた、寝ていたはずじゃ……」

「ごめん、シンディ。こんなことは、して欲しくはないんだ」


 テオドールはぎゅっとシンディの身体を抱き寄せた。彼女の身体は、細かく震えていた。


「……さっきあなたが言っていた、火事の話。あなたを助けて命を落としたノーランが私の兄だってこと、知っていたの……?」

「薄々勘付いていたよ。完全に確信したのは、ついさっきだけれどね」


 彼は辛そうに唇を噛んだ。


「何を言っても、君には足りないと思うけれど。君の兄さんの命を、結果として僕が奪うことになってしまった。すまない」

「……じゃあ、私があなたの命を狙って近付いたことも、知ってた……?」


 テオドールは、一瞬その動きを止めてから、哀しげにシンディを見つめた。


「そうだったとしても、不思議ではないとは思っていたよ。僕が君に初めて会った時、君の瞳の奥に、驚くような鋭い光が見えたことを、今でも覚えている。……彼は、唯一の肉親であった君のことを、それは大切に思っていたからね。君の話は、彼からよく聞いていたんだ」


 シンディの瞳には、今にも零れ落ちそうに涙が浮かんでいる。

テオドールは、彼女を抱く腕にさらに力を込めながら、囁くように話す彼女の言葉に耳を傾けた。


「兄と私は、早くに両親を亡くして、二人きりの家族だったの。

お金もなかったから、兄は学校にも行かずにすぐに働きに出たわーーあなたの、お父様の商会にね。私の学費は自分が稼ぐからって、口癖のように言っていたわ。一番大変なのは兄なのに、彼はいつも笑顔だった。兄のお蔭で、私は初等教育は何とか受けられたの」


 テオドールは静かに頷いた。シンディは遠い昔を懐かしむようにふっと目を細めた。


「兄は仕事にもやりがいを見出しているみたいだったし、時々、テオドール、あなたの話も聞いていたわ。商会の跡継ぎの坊ちゃんが、とても可愛いって。随分と、あなたも兄に懐いていたみたいね」

「ああ。僕は君の兄さんを、心から慕っていたからね」

「……だから、兄の働いていた商会が火事に遭って、あなたを助けるために兄が亡くなったと聞いた時は、もちろん心が潰れそうに悲しかったけれど、どこか兄らしいとも思ったの。自分の身がどうなっても、困った人を放っておけない、そんな人だったから。でも……」


 シンディの顔が、悔しそうに歪む。


「兄のお葬式は、あなたのお父様が出してくださったわ。兄を亡くして茫然とする私に、お父様は援助を約束してくださったし、兄があなたを助けたことをとても感謝して、私にも優しくしてくださった。それでもね。……私、聞いちゃったのよ。お葬式を終えてから、あなたのお父様が、泣きじゃくるあなたを抱き締めながら、

『死んだのがお前じゃなくて、本当によかった』って言っているのを。私、どうしてもその言葉が許せなかった」


 彼女の瞳から、堪えていた涙がぼろぼろと溢れ落ちた。


「きっとね、あなたが生きていてよかった、そういう意味で言ったんだとは思うの。でも、私には、死んだのが私の兄でよかったって、そう言ってるように聞こえたわ。あんなに優しくて、頼りがいがあって。そんなたった一人の肉親である兄の笑顔は、私にとってただ一つの生きがいだったのに」


 頬を伝う涙も拭わぬままに、シンディはテオドールを見つめた。


「だから、私はあなたのお父様に復讐しようと思って、ずっと機会を伺っていたのよ。……それなのに、三年前、彼は呆気なく亡くなってしまったわね。息子のあなたにこんな言い方をするのも悪いけれど、何もできなかったと歯噛みする思いだったわ」


 息を詰めるようにして彼女の言葉を聞いていたテオドールに、彼女は呟くように言った。


「それで、私の復讐の標的はあなたに移ったの。私は、あなたの命を奪おうと思っていたのよ」


 いったん、そこでシンディは口を噤んだけれど、テオドールが先を促すままに、再度その口を開いた。


「兄は生前、いわゆる学はなかったけれど、両親から昔教わっていたみたいで、野山に生えている植物にはとても詳しかったわ。今日行ったあの森の奥の場所も、兄に教えてもらったの。兄とあの場所を訪れて、今日と同じように美しい花を見つけては夢中で摘んでいた時、その中に猛毒の葉が混ざっているのに気付いた兄に、険しい顔で注意されたわ」


 シンディは、棚の上の花瓶に飾られた花に視線を移した。テオドールも、彼女の視線を追うように、花瓶から覗く鮮やかな花々に目を向けた。


「あなたは気付いていたかしら? 真っ赤な艶のある葉が付いた枝が、さっき摘んだ花の中に混ざっていたことを。……あなたのお友達に会った時、彼女が私の手にあったその赤い葉の付いた枝をまじまじと見つめるものだから、思わず隠すようにして、逃げ出してしまったわ……」

「それでも、さっき、僕に飲ませようとしたのは睡眠薬だろう?

僕のコーヒーに入っていたのは、結局、毒じゃなかった」


 シンディは俯いたまま、震える声で呟いた。


「あなたのことを知れば知るほど、どんどんあなたに惹かれていく自分を止められなかったわ。あなたは優し過ぎるのよ、憎み続けるのが難しいほどに。それに、兄が命を賭してまで助けたあなたの命を私が奪ってよいのかも、考えるほどにわからなくなってしまったわ」

「……」


 テオドールは、彼女に返す言葉を見付けることができなかった。シンディの声は消え入りそうに掠れていた。


「でも、私の胸の奥には、兄を失った時の消えない気持ちが、ずっと燻り続けているの。悲しみ、憎しみ、悔しさ……そういったものが。あのまま都合よく兄の存在が忘れられてしまったら、兄の人生は何だったというの? せめて私だけは兄を忘れずに、兄の復讐をしようと、その気持ちを支えに今まで生きてきたの。それに、その気持ちをどこかにぶつけないでいたら、自分がおかしくなってしまいそうだった。それで、考えたの」


 彼女は、黙ったままのテオドールに虚ろな瞳を向けた。


「……あなたの命を奪わなくても、あなたの婚約者である私が、もしあなたの目の前で息を引き取っていたら、少しは悲しんでくれるのじゃないか、って。大切な人を亡くした悲しみを、少しは感じてもらうことができるかしらって。あなたが私を心から愛してくださっていることは、よくわかっていたから。それで、もう私の復讐は終わりにしよう、そう思ったのよ。結局、失敗してしまったけれどね」

「ねえ、シンディ……」


 ようやく口を開いたテオドールを、彼女は遮った。


「……これで、もうあなたともお終いね。それとも、私を殺人を犯そうとした罪人だと突き出したいかしら?」


 テオドールの腕を振り払おうとしたシンディのことを、もう一度テオドールは強く抱き寄せた。彼はぎゅっと両の瞳を閉じた。


「……謝って済むことではないのは、わかっているけれど。どうか、僕のことを許してもらえないだろうか。それから、さっき、君が落としていったこのロケットだが」


 彼は、ポケットから取り出したロケットを、大切そうにシンディに手渡した。シンディが、受け取ったロケットをそっと掌に包む。


「あら……あなたが拾ってくれていたの? 元々、これは兄が首に掛けていて、私の姿絵が中に入っていたの。このロケットを兄の形見として、中を兄の姿絵に変えたのだけれど。……これを見られたなら、さすがに隠し通せなかったわね」


 溜息混じりに溢すシンディがロケットを握る手に、包み込むように自分の手を重ねながら、テオドールが口を開いた。


「このロケット、裏側も開くみたいなんだ。知ってた?」

「えっ……?」


 シンディが驚いたようにロケットを裏返しにして、その端に爪をかけると、小さくカチリと音がして裏蓋が開いた。

 開いた裏蓋から、小さく折り畳まれた紙切れがはらりと落ちる。


「……あなたは、これも見たの?」

「いや、見ていない。まだ、ロケットの裏を開いてはいなかったから」


 少し変色して黄ばんだ紙切れを拾い上げると、テオドールはそれをシンディに手渡した。


 丁寧に紙切れを開き、そこに書かれた内容に目を走らせたシンディの横から、テオドールもその紙を覗き込んだ。彼女の瞳から、再びはらはらと大粒の涙が零れ落ちる。


『シンディ。君を遺していくことになってしまって、すまない。

 可愛い君の兄としてこの世に生を受け、まるで弟のように思っていたテオも助けることができて、僕はもう思い残すことはない。

 ……ただ、君のことだけが心配だ。

 シンディ、君をずっと見守っているから、だから、お願いだから、どうか幸せに生きておくれ。

 それだけが、僕の心からの希望だ。頼んだよ。


愛を込めて、ノーラン』


(……確かに、これは兄の字だわ)


 乱れ気味ではあったけれど、シンディにとって懐かしい、几帳面な兄の字がそこにはあった。

 シンディは間に合わなかったけれど、病院に運ばれてから、兄に一度、僅かな時間だけ意識が戻ったと聞いていた。きっと、その時に、最後の力を振り絞って書かれたものなのだろう。


 わっと両手に顔を埋めて泣き崩れたシンディが膝から崩れ落ちそうになるのを、テオドールがすぐに抱き留めた。

 テオドールは必死に、シンディの耳元に話し掛けた。


「すべてを知っても、僕の君に対する気持ちは変わらないよ」


 驚いたように、シンディの肩がぴくりと揺れた。


「僕が愛しているのは君だけだよ、シンディ。僕がこの先、人生をずっと一緒に歩みたいと思うのもね」


 テオドールは、真っ直ぐな瞳で彼女の顔を覗き込んだ。


「こんなことを言う権利は、僕にはないかもしれないけれど。……君は、僕の手で幸せにしたいんだ。どうか、君を幸せにする資格を、僕にくれないか」


 涙に濡れた顔をゆっくりと上げたシンディは、テオドールの真剣な顔の向こう側に、信じられない姿を見た。

 兄のノーランが、薄く滲む姿で、優しくシンディに微笑みかけながら頷いていたのだ。


「……お兄様……」


 兄の姿が完全に消えるまでじっと見つめていたシンディは、嗚咽を漏らしながら、テオドールの胸に顔を埋めた。

 そんなシンディに両腕を回すと、テオドールは、シンディが落ち着くまで、ずっと優しく彼女を抱き締めていた。


***


 神殿に戻っていたカトリーナは、何かが近付いて来る気配を感じてはっと顔を上げた。


 そこには、ほっとしたように柔らかな笑みを浮かべる、薄らと透けたノーランの姿があった。

 その様子に、カトリーナも安堵に胸を撫で下ろして相合を崩した。


「まあ、うまくいったのですね。よかったです。……それに、わざわざそのことを知らせに来てくださったのですね。ありがとうございます」


 カトリーナがシンディに会った時、切迫した表情で、シンディを止めてほしいと伝えてきたノーランは、とても疲れた哀しげな顔をしていた。

 もうとうの昔に天に昇っていてもおかしくはないのに、恨みに囚われ、復讐に燃えるシンディが心配で、その側を離れられなかったのだろう。


 ノーランから、シンディがこれから行おうとしていることを感じ取ったカトリーナは、テオドールに、シンディから出されたものには手を付けず、けれど口にした素振りをして眠ったように見せ掛けるようにと伝えていた。そして、シンディが摘んだ草には毒草が含まれており、もし毒を呷ろうとする様子があれば、すぐに止めるようにとも告げていた。


 カトリーナに深く頭を下げたノーランが再び顔を上げた時、彼女がそっとその姿に触れると、彼の姿は仄かに輝く光へと変わっていった。そして、カトリーナに手を振りながら、ゆっくりと天に向かって昇っていった。

 これからは、彼は天からシンディたちの姿を見守ることになるのだろう。



 その後、テオドールとシンディは予定通りに結婚式を挙げた。

 天が恵んだような、雲一つない青空の下で、彼らは晴れ晴れとした笑みを浮かべながら、幸せそうに、互いに愛情のこもった瞳で見つめ合っていた。


 彼らの結婚式に招かれていたカトリーナは、ふとその視線を眩しい空に向けると、目を細めた。

 そこには確かに、シンディたちを見守り、祝福するノーランが、嬉しそうに笑みを溢す気配が感じられたのだった。

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