第5話 テオドールの胸騒ぎ(前編)

「おや、カトリーナ様じゃないか。久し振りだね、元気にしているかい?」


 道の向こう側から笑顔で近付いて来た青年が、ひらひらとカトリーナに手を振った。


「あら、テオドール様。卒業以来ですわね。ええ、私は元気にしておりますわ」


 彼に気付いたカトリーナも微笑みを返した。


「テオドール様もお元気そうで何よりです。……ご一緒の、そちらの方は?」


 テオドールは自分の傍らに寄り添う女性に、愛しげな優しい視線を向けた。


「彼女は、僕の婚約者のシンディ。つい先日、婚約を受け入れてもらったところで、この春には、僕たちは結婚する予定なんだ。……ね、シンディ?」


 シンディと呼ばれたピンクブロンドの可憐な女性は、控えめに目を伏せたまま、カトリーナに会釈をした。


「初めまして、シンディです」


 カトリーナは二人を見てにっこりと笑い掛けた。


「まあ、それはおめでとうございます! 私はカトリーナと申します、テオドール様とは学園の同窓ですわ。お二人の末長い幸せをお祈りしておりま……」


 そこでカトリーナはシンディの背後に視線をやると、一瞬表情を強張らせて言葉を切り、目を瞠った。そんなカトリーナの様子に、テオドールは不思議そうに首を傾げる。


「カトリーナ様、どうかしたのかい?」


 カトリーナの視線は、もう今はシンディの手元に移っていた。シンディは、その手元に数本の野の花を抱えており、白や薄黄色、薄紅色の花々に数本の枝葉が混ざった花束は、素朴ながらも温かみのある色合いを醸し出している。


 無言のまま、カトリーナがじっとシンディの手元の花束を眺めているのに気付いたテオドールは、彼女に向かって口を開いた。


「シンディは、花が好きなんだよ。花屋で売ってるような花よりも、自然の中で伸び伸びと咲く野の花が好きだって、さっきも一緒に散歩がてら、花を摘んできたところなんだ」

「……そうでしたか。ところで、そちらの花を摘みに、どちらまでいらっしゃったのですか?」

「ああ、そこの神殿の裏に、豊かに茂った森があるだろう? そこの、散歩道が途切れた少し先まで分け行った、泉が湧いている辺りまでだよ。珍しい花や植物があるって、シンディが教えてくれたんだ……」


 シンディは、テオドールの言葉を遮るようにはっと顔を上げ、何か物言いたげに彼を見ると、手にしていた花束を慌てて胸の奥にぎゅっと抱え直した。

 そして、その視線を今度はカトリーナに向けた。シンディの意思の強そうな金色の瞳が、カトリーナを探るように見つめる。


「すみません。……私、ちょっとした用事を思い出しましたわ。申し訳ありませんが、お先に失礼いたしますね。積もる話もあることでしょう、ごゆっくりお話しなさってくださいね」


 また後で、とテオドールに小声で囁くと、シンディは早足でその場から立ち去って行った。


 そんなシンディの後ろ姿を見送っていたテオドールは、微かに苦笑した。


「……どうしたのかな。最近、彼女の様子が少しおかしいんだ。時々上の空になっていたり、泣きそうな顔をしていたりする時があって。今も、何か焦っているようだったね。特に用事なんかはなかったと思うんだけどなあ……。これがマリッジブルーっていうものなのかな?」


 はっとしたように、テオドールは申し訳なさそうに頭をかいた。


「あ、ごめん。久し振りに会ったのに、こんな話……」

「いえ、構いませんよ。もう少し、詳しく聞かせていただけますか?」

「ありがとう、僕の話に付き合ってくれて」


 彼は穏やかに笑ってから、心配そうに眉を寄せた。


「ついさっきも、せっかく綺麗な花を摘んでいるというのに、彼女はちっとも楽しそうではなかったんだ。むしろ、どこか追い詰められているような、切迫しているような感じで。何だか、そんな彼女の様子を見ていると、どこか胸騒ぎがするんだ……」


 カトリーナは頷きながらテオドールの話を聞いていたけれど、ふと道端にきらりと光るものを見つけると、腰を屈めてそれを拾い上げた。


「……これは、シンディ様の落とし物でしょうか?」


 蔓草の細かな彫りが外側に施された、縦長の楕円形のロケットが、長く細いチェーンの先で、鈍い銀色に輝いていた。チェーンの留め金が外れて落ちたようだ。

 テオドールがそれを見て頷いた。


「ああ、間違いない。それはシンディがいつも大切そうに身に付けているものだよ」

「ロケットの中をご覧になったことは?」

「いや、それはないが……」


 カトリーナは徐にロケットをカチリと開くと、それをテオドールの目の前に差し出した。


「これは……。やっぱり、彼女は……」


 ロケットに収められた姿絵をじっと見て、呻くような声を絞り出したテオドールに、カトリーナはロケットの蓋を閉めてからそっとそれを手渡すと、静かに口を開いた。


「テオドール様、このことはもう薄々、いえ、恐らくかなりの確信を持って、既に気付いていらしたのではないでしょうか?」


 彼は苦しそうな表情でカトリーナの言葉に頷いた。


「これからシンディ様にお会いになるのですよね。……その時には、テオドール様のそのままのお気持ちを、正直に彼女に言葉に出して伝えて差し上げてください。『すべてを知っても、君に対する気持ちは変わらない』と」


 テオドールの目が、みるみるうちに驚きに大きく見開かれた。


「どうして、それを知って……」


 カトリーナは微笑むと、彼の疑問には答えずにそのまま続けた。


「それから。もし、彼女がお茶などの飲み物や何かの食べ物をテオドール様に用意してくださったら、その時には……」


 カトリーナが声を落として耳打ちした言葉を、テオドールは固まったままで聞いていたけれど、こくりと小さく頷いた。その表情には緊張感が漂っている。


「カトリーナ様、どうもありがとう。……どうやら、急いだ方がよさそうだね」

「ええ。それと、もう一つ。シンディ様のこのロケットは、わかりづらいですが、裏蓋も両開きで開けられる仕組みになっています。シンディ様に、後でその裏蓋も開けるようにと、そうお伝えください」

「わかった、どうもありがとう。……では、急いでシンディを追い掛けるよ」


 テオドールは丁寧にカトリーナに頭を下げると、もう見えなくなった彼女が歩き去った方向に向かって勢いよく駆け出した。最後に、彼はカトリーナを振り返ると、大きく手を振った。


 カトリーナも、テオドールと、同じ方向に移動を始めたもう一つの影に向かって、大きく手を振り返したのだった。

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