第3話 ジュリアは破談を望む(前編)

 とある祝日の昼下がり、ジュリアは、注文のあった数種類の茶葉を顧客のカフェへと納品すると、客で賑わう店内を避けて、店の裏口から外へ出た。一歩外に出ると、眩しい日差しが目に染みて、思わず目の上に手を翳す。少し目が慣れてから、彼女はカフェの横を走る大通りへと歩き出た。


 天気にも恵まれた休日とあって、街の通りはなかなかの人混みだ。楽しそうに道を行き交う人々を、ジュリアは多少の羨望を込めて見つめた。

 そんな人々のざわめきの中から、ジュリアの耳は聞き慣れた笑い声を拾うと、思わずその声の聞こえた方向に視線をやった。


(ダグラス様……)


 さらりと流れるプラチナブロンドにスカイブルーの瞳を持つ、女性好きのしそうな甘い顔をしたダグラスは、今日も一人の美しい令嬢を伴い、その腰に手を回しながら、ついさっきジュリアが商品を納めたカフェのドアから出て来るところだった。

 ……目の前にいる自らの婚約者に、気付いてもいないかのように。


 ダグラスと一緒に笑みを浮かべていた令嬢が、ひややかに彼らを見つめるジュリアの姿を認め、決まり悪そうにダグラスの腕から逃れた。すると、ダグラスはようやくジュリアに気付き、軽く彼女に手を上げた。


「やあ、ジュリア」

「……ダグラス様、こちらで何をなさっているのですか?」

「ああ、彼女は宝飾品のデザイナーでね。ほら、君に贈る予定だった婚約指輪、忙しくてまだ選べていなかっただろう? だから、彼女とデザインの打ち合わせをしていたんだよ」

「……」


 別の状況で聞けば、嬉しいと感じられる言葉だったのかもしれない。

 けれど、必要以上に親しげに、二人きりで会っていた彼らを見て、ジュリアは呆れて声も出なかった。このカフェにも程近いダグラスの家が営む商会では、ちょうどかき入れ時を迎えており、祝日にも関わらず皆忙しくーージュリアも含めーー働いているというのに、一人呑気に指輪の相談などしていた跡取り息子のダグラスに、彼女は深い溜息を吐いた。朝から、彼の姿が見えないと思っていたのだ。


 ダグラスの陰に少し隠れた、宝飾品のデザイナーだという女性の顔に、微かに、しかし確かに勝ち誇ったような笑みが浮かぶのを、ジュリアは見逃さなかった。とても打ち合わせ用には見えない、美しいドレスを纏った彼女に対して、ジュリアは簡素な仕事用の服を着ている自分が少し恥ずかしく、惨めになった。

 ……ダグラスの言葉はきっと体のよい言い訳だと、推して知るべしというものだろう。


 それにも関わらず、悪びれもせず、ジュリアに軽く手だけを振って彼女を残して去って行くダグラスと、その横に伴われている女性を、彼女は唇を噛んで見送った。

 すれ違いざまに、彼の横の女性がジュリアをちらりと振り返ったけれど、ジュリアはあえて彼女と目を合わせようとはしなかった。


(……いったい、これで何回目かしら)


 まるでジュリアに当て付けるかのように、側に置く女性を取っ替え引っ替えするダグラスに対して、ジュリアは今まで、心を石のようにして、なるべく自分の感情を抑え、ずっと我慢し続けて来た。

 けれど、そろそろ限界が来たようだと、自分でもようやく悟っていた。


 ぼんやりと彼らの後ろ姿を見送っていたジュリアが、はっと我に返って歩き出そうとした時、力の入らない両足が少しよろめいて、横にいた人にぶつかってしまった。


「すみません……」


 慌てて頭を下げた先にいたのは、人のよさそうな顔をした、穏やかな雰囲気の若い女性だった。彼女は首を横に振ると、心配そうな顔をして、ハンカチをジュリアに差し出して来た。


「あの、大丈夫ですか……?」


 ジュリアは一瞬、自分が何を言われたのかわからなかったけれど、目の前の女性に差し出されたハンカチを見て初めて、自分が涙を流していることに気が付いた。少し震える手で、礼を述べてハンカチを受け取ったものの、いざハンカチを目に当てると、まるで堰を切ったように、後から後から涙が溢れ出して来た。


「……少し落ち着くまで、カフェにでも入りましょうか」


 すぐ横のカフェを指し示した見知らぬ女性の、ジュリアを気遣う温かな言葉に、彼女はこくりと頷いた。


***


「申し訳ありません、お恥ずかしいところをお見せしてしまって……」

「いえ、お気になさらないでください」


 深く頭を下げたジュリアと、その正面に座る彼女の前に、香りのよいアールグレイの入ったティーカップが二つ運ばれて来た。

 ジュリアは温かな湯気の立つ紅茶に口を付けると、ほっと息を吐き出した。


「お蔭様で、大分落ち着きましたわ。……見も知らぬ私などに、わざわざ付き合ってくださってありがとうございます。申し遅れましたが、私はジュリアといいます」

「少し顔色が良くなられたようで何よりです。私は、カトリーナと申します」


 ジュリアはどことなく不思議な思いで、目の前のカトリーナと名乗った若い女性を見つめた。

 艶のある長い焦げ茶の髪に、琥珀色の温かな瞳。彼女とは初対面のはずなのに、何故か旧知の、気心の知れた友人と会っている時のような落ち着きと安心感を覚えていたからだ。

 少し躊躇ってから、ジュリアは続けた。


「あの……。差し出がましいのですが、カトリーナ様。少し、このまま話を聞いていただいても? 聞き流してくださって構いませんので」

「ええ、もちろんですわ。これも何かのご縁でしょうから」


 微笑んだカトリーナに安堵の表情を浮かべたジュリアは、少し目を伏せてから口を開いた。


「私は、今はこの近くにある大きな商会で働いています。さっき私が、女性連れの男性と言葉を交わすのを、もしかしたらご覧になったでしょうか。彼は、私の勤め先の跡取り息子のダグラス様で、……私の婚約者でもあります」


 カトリーナが静かに頷くと、彼女は呟くように続けた。


「彼と婚約したのは、かれこれ二年程前でしょうか。私の家は彼の商会に、主に領地で取れる茶葉を卸しておりまして、彼の商会が一番の得意先に当たります。実は、今この店で飲んでいるこの紅茶も、私の家の領地で取れたものなのですよ」

「まあ、そうなのですか? とても美味しいですね」

「そう言っていただけて嬉しいです」


 ようやくジュリアの顔に微かな笑みが浮かんだ。


「……私が仕事のご縁で彼のお父様とお会いした時、どうやら大層気に入っていただいたみたいで。是非長男の嫁に、と言われ、そのままトントン拍子に婚約が整いました。でも、これは家の事情によるものでした」


 ジュリアの表情に苦いものが混じる。彼女は溜息交じりに続けた。


「正直なところ、下手にこの縁談を断って角を立て、彼のところの商会との取引がなくなることにでもなれば、私の家が傾きます。家格としても、私は男爵家なのに対して、彼の家は伯爵家で、彼の方が上。彼のお父様は、私の仕事に対する姿勢を買ってくださったようで、円満に運べば双方に利がある反面、この縁談を断るのは難しい部分もありました」


 真剣な表情で、カトリーナは頷きながらジュリアの言葉に耳を傾けていた。


「そのようなご事情があったのですね」

「はい。……ただ、後から知ったことなのですが、ダグラス様と初めてお会いした時、彼は、取引先である私が重い荷物を運んでいたのを、女性の細腕で大変だろうと手伝ってくださったのです。婚約の段階になって初めて、その時に助けてくださった方が彼だとわかったのですが、私はその時、彼が私の婚約者でよかったと嬉しく思いました。家の都合とはいえ、お慕いできる相手と添い遂げられる方が幸せですものね。でも、それはほんの始めのうちだけでした」


 彼女は悲しげに表情を翳らせた。


「彼は、婚約当初こそ私に優しかったのですが、すぐに不満げに、他の女性を側に置くようになりました。しかも、一人ではなく、何人も、すぐにころころと側に置く女性が変わります。誰か特定の女性と長続きする様子はありませんでしたので、私さえ目を瞑れば済む話と思い、ずっと我慢していたのですが。でも……」


 ジュリアは我慢できずに深い溜息を吐いた。


「今、私が、私の家の手伝いをするのではなく、彼の商会で働いているのも、彼と結婚したら彼を支えられるようにと、花嫁修業の一環を兼ねています。充実はしていますが、覚えることが多く、自由になる休みも少なくて、忙しさに疲弊する日々です。将来の夫のためなのだからと、今まで自分に言い聞かせていましたが……彼は仕事そっちのけで女性と会ってばかり」

「それはお辛かったでしょうね……」


 カトリーナの言葉に、彼女の瞳には涙が滲んだ。


「結婚前から既にこのような状態では、将来に対する希望が持てなくなりました。家のために耐えるべきなのだろうとはわかってはいますが、これでは、私の人生は誰のものなのかわかりません。こんな人生からは、私は逃げ出してしまいたい……」


 ジュリアは膝の上で両手を固く握り締めた。


「ダグラス様のお父様やお母様、それに弟のルーファス様は、ダグラス様を諫めてくださっていますが、ダグラス様は聞く耳を持ってくださいません。実は、私みたいなつまらない女とは婚約破棄してもらえないかと、一度、ダグラス様ご本人に直談判したこともあったのですが、何故か頑なに取り合っては貰えませんでした。……どうにかして、彼との婚約を破談にしたいものですわ」

「婚約を破談に、ですか?」


 彼女の言葉に目を瞬いたカトリーナに、ジュリアは強い瞳で頷いた。


「彼が女性を伴っていた程度ではなく、何か決定的な場面にでも出会さない限り、こちらから破談にしていただくのは難しいのでしょうけれど。もうすぐ私の誕生日なのですが、誕生日パーティーを彼の家で開催してくださることになっていて、そこでダグラス様との結婚式の日取りも発表する予定なのです。それまでには何とかしないと、もう八方塞がりです」


 力なく笑うジュリアに、カトリーナはゆっくりと口を開いた。


「……もし、ダグラス様が本当はジュリア様を愛していらっしゃったとしても、お気持ちは変わりませんか?」

「えっ?」


 カトリーナの思い掛けない言葉に、ジュリアは一瞬言葉を失った。

 カトリーナは言葉を選ぶように続けた。


「今まで、ダグラス様が連れていらっしゃったという女性に、共通点はありませんでしたか?」

「共通点、ですか?」


 きょとんとしたジュリアに、カトリーナは頷く。


「そうですね。例えば、どこかジュリア様を連想させるようなところなど、ありませんでしたか?」


 ジュリアはしばし考えを巡らせながら、首を捻った。


「どうでしょうか……。今までにお見掛けした女性のタイプは皆ばらばらで、特に、共通点は思い浮かびませんね。もしかしたら、人によっては、髪色や背丈、瞳の色など、私と近い部分もあったのかもしれませんが、そこまでまじまじと見た訳ではないので……。それに、ついさっきダグラス様が連れていた女性は、少なくとも、私とまったく外見が似てはいないように思えましたわ」

「そうですか。……では、ダグラス様がジュリア様をお好きだったとしても、やはり彼とは破談にしたいと、そうお思いですか? ところで、ジュリア様がつけていらっしゃる香水ーー薔薇の香りでしょうかーーみずみずしくて華やかで、素敵ですね」


 ジュリアは、突然のカトリーナの言葉にはっとした。いつも彼女がつけている香水は、ダグラスとの婚約後、たった一度だけ、何か彼女にプレゼントがしたいという彼と一緒に選びに出掛け、人気のある薔薇の香水を気に入ったジュリアに、彼が贈ってくれたものだった。……そう、幸せだった、あの一瞬の思い出が詰まった香水。


 けれど、それでも、とジュリアは思う。

 ジュリアの脳裏に、女性を連れたダグラスと鉢合わせた過去の映像が過ぎった。ジュリアができる限り辛抱しながら、しかし隠し切れずに顔を苦痛に歪めるのを、優越感でも覚えるように、見下すような目で見てきたダグラスに、もう今更たいした愛情は残っていないように思われた。どれほどの回数、ジュリアは悔しさと情けなさを感じたことだろう。


 ダグラスが継ぐ予定の商会でも、特に女性の従業員からは、優秀なジュリアへの嫉妬とないまぜになった陰口を、嫌というほど耳にした。生意気だから、女性としての魅力に欠けるからダグラスの目が他の女性に向くのだ、そんな口さがない言葉は、次第にジュリアの心を蝕んでいった。

 そして、そんな時にジュリアを庇ってくれたのは、最も守って欲しかったダグラスではなく、むしろ彼の弟のルーファスの方だった。


 ジュリアは真っ直ぐにカトリーナを見つめた。


「そうですね、万が一、彼が私を好きだったとしても、……そんな可能性は、考えづらいですが……彼と破談にしたいという私の気持ちは、まず変わりませんわ。もう、堪忍袋の緒が切れたというか、彼の態度に疲れてしまったようです」


 彼女はどこか寂しそうな笑みを浮かべた。


「仮に婚約破棄ができるとして、心残りがあるとするなら、彼のご両親や弟君にはとてもよくしていただいたので、彼らに対して期待に添えず申し訳ない気持ちと、私の家に対する後ろめたさ、そして、私も破談によって傷物になりますし、新しい縁談が見込めなさそうだというあきらめくらいでしょうか。それから……」


 香水がふわりと香る手首を見下ろしながら、ジュリアは続けた。


「褒めてくださったこの香水、実はダグラス様からいただいたものなのです。もしも破談が叶ったら、もうこの香水をつけることはないと思いますので、それは少し残念かもしれません。気に入っていた香りだったので。……言われてみると、私がこの香水を付けているということは、ほんの少しだけ、これを贈られた時の気持ちが残っているのかもしれませんね」


 カトリーナは、ジュリアの言葉に頷くと、じっと彼女の瞳を見つめた。


「なるほど、よくわかりました。そうですね……ジュリア様の誕生日パーティーで、もし、ダグラス様がいるべき場面で彼がいないことがあれば、急いで探してみてください。彼が見つかった時には、ジュリア様はきっと、縛られているものから解放されることでしょう。けれど、ジュリア様のその、お気持ちの残りといいますか、……その分、最後に一度だけ、ダグラス様にチャンスを与えてはいただけませんでしょうか」

「チャンス、ですか?」

「ええ。次にダグラス様にお会いになる際、『もう次はない、よく気を付けるように』と、最後に釘を刺してはいただけませんでしょうか」

「……え、ええ。彼に届くかはわかりませんが、承知いたしましたわ」


 まるで未来を占うかのような、そして謎めいたカトリーナの助言に、ジュリアは首を傾げていた。


***


 カトリーナには、ふっと未来の一場面が頭に浮かぶことがある。


 未来というのは、予め定められた一つの道ではない。未来はこれから作っていくものだから、いかようにでも変わり得るし、カトリーナも枝分かれした未来を覗くこともある。結局は、未来は当事者が作っていくほかないのだ。


 けれど、自業自得という言葉の通り、自らの行ったことの結果が、その後自らに返ってくるということは、往々にして起こる。


 カトリーナがジュリアの中に見た、僅かにダグラスに対して残っていた温かな気持ち。ジュリアにダグラスへの最後の忠告を託したのは、カトリーナの意思というよりも、ジュリアの心の声、ほんの微かに残るダグラスへの気持ちを汲み取ったものだった。

 それを活かすも殺すも、ダグラス次第になるだろう。


 カフェを出て、ジュリアと別れたカトリーナは、晴れていた空が厚い雲で覆われ始め、太陽が雲の陰に隠れる様子を、見るとはなしに視界の端に映していた。

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