第2話 キアラの失せ人探し(後編)

「実は、君に伝えたいことがあるんだ」


 幼馴染みのサミュエルから、キアラが自宅前でそう声を掛けられたのは、キアラがカトリーナの元に相談に訪れてからちょうど三日後のことだった。


 いつもとは違い、少し俯きがちに頬を染めるサミュエルに、キアラは警戒の表情を浮かべながら口を開いた。


「……はい、どのようなご用件でしょうか?」

「つれないな。君に婚約を申し込んだこと、お父上から聞いてはいないのかい?」

「それは本当のことだったのですか?」


 キアラが驚きに目を見開いた。


「確かに、父から聞いてはいましたが……何かの間違いか、そうでなければたちの悪い冗談かと思っておりました」


 サミュエルは、多少困惑した様子ながらも淡々と答えるキアラの様子に、微かに口元を歪めた。


「いくら何でも、そんなことを冗談で言うはずがないだろう」

「でも、どうしてですか? サミュエル様は、昔から私のことを嫌っていらしたではないですか。いつも、私を見ると不快そうに顔を顰めて、辛辣な物言いをして……」

「そ、それは……」


 サミュエルは、ばつが悪そうに一瞬言葉を詰まらせてから、思いきって顔を上げるとキアラを見つめた。


「……本当は、幼い頃からずっと君のことが好きだったんだ。でも、それを素直に言えずに、悪い態度で誤魔化していた。そのことは、十分に反省しているよ」


 耳まで真っ赤に染まったサミュエルの顔を見て、ようやく、恐る恐るキアラが尋ねる。


「それは、本当なのですか……?」

「ああ。いつかは何かしらの形で君に償いたいと、そう思っていたんだ。その証拠に、ほら……」


 サミュエルが取り出した茶色の付け髭を見て、キアラは言葉を失った。


「貴方様が……クラーク様だったのですか?」

「そうだ。君が襲われそうになった時、何とかしなければと慌てて助けに入ったのは、その証拠だ」

「では、どうしてそのような変装を?」

「君はしばらく、僕のことを避けていただろう? ……いきなり僕が君に近付いたところで、きっと嫌な顔をされる。それならばと、多少変装をすることにしたんだ」

「では、この前はどうしてあんな手紙を私に?」


 サミュエルの瞳が僅かに揺れる。


「……まあ、正直に想いを告げるのであれば、誰かになりすましてではなく、ありのままの自分の姿で伝えたいと思ってね。それで、最後にあのような手紙をしたためて、君に渡した」

「……」


 何と返してよいかわからず、言葉を選びあぐねているキアラの耳に、次第に大きくなる馬の蹄の音が聞こえて来た。

 キアラが振り返ると、ちょうど、ナリス子爵家の馬車が門の前に止まり、中から彼女の父と義兄のケネス、そして執事のクリストファーが降りて来るところだった。


 キアラの父は、頬を赤く染めたサミュエルがキアラと家の前で話している様子に口角を上げた。


「サミュエル、君もとうとう、キアラに直接想いを告げたのか。で、どうなんだ、キアラは?」


 興味深そうに瞳を輝かせた彼は続けた。


「キアラがサミュエルの気持ちに応えるなら、ほかの縁談には断りを入れておくが。……この前に言っていた、気になっている男性というのを連れて来る気はなくなったのかい?」


 その言葉に、キアラの代わりにサミュエルが答えた。


「もう、その必要はございません。……キアラが探していたその男性というのは、実はこの私なのです」

「ほう? よく状況がわからないが、それならば、もう問題はないということかな」


 キアラの父はサミュエルからキアラに視線を移した。


「キアラ、サミュエルの言葉の通りなのかい?」


 彼女は黙ったまま、混乱する頭の中で考えを巡らせていた。


(確かに、あの付け髭は、クラーク様と同じものに見えるわ。何より、あの別れの手紙の存在さえも知っていることが、サミュエルがクラーク様だという証拠ではないのかしら……)


 ここで父の言葉に頷けば、探し続けていたクラークとーーいや、クラークを装っていたらしいサミュエルと、今後の生活を共にすることになる。

 サミュエルには今までよい印象はなかったけれど、クラークは生涯を共にしたいと思った男性だ。


 返事をしようかと、彼女は口を開きかけた。

 けれど、キアラはサミュエルに対して、何とも言えない違和感を覚えていた。

 そして、カトリーナに告げられた、まるで予言のような言葉を思い出していた。


『早まらず、決断の前には深呼吸』


(……あの神官様も、そう仰っていたわ。それに、私の直感も、何かが違う、すぐには結論を出さないほうがいいと、そう告げているような気がする)


 そして、キアラはゆっくり大きく鼻から息を吸い込むと、静かに口から深く息を吐き出した。


 キアラが息を吐き出し切った、その時だった。


 馬が速足で駆ける音が近付いて来る。

 その場に集っていた面々が振り向くと、立派な造りの一台の馬車が、すぐ側まで来ていた。

 ナリス子爵家の馬車よりも一回りほど大きなその馬車は、先程停められていたナリス子爵家の馬車の横に止まったかと思うと、慌ただしく扉が開けられ、中から一人の初老の男性が杖をつき、従者に支えられながら降りて来た。


 辺りを見回して、何かを探すような様子の男性に、キアラの父親が慌てて声を掛けた。


「これは、クラーク様……! そちらの馬車にレクレット侯爵家の家紋が見えて、まさかこの家の前に止まるとは思わず驚いておりました」


 彼はその男性に近付くと、恭しく一礼をした。


「何か、私共に御用でもありますでしょうか? ささ、どうぞ屋敷の中にお入りください」


 思い掛けずクラークの名前を聞き、目を瞬くキアラの前で、クラークと呼ばれた男性は首を横に振った。


「いや、構わない。それよりも、ここにクリストファーという者はいるか?」


 その場にいる者たちの視線が、一斉にケネスの少し後ろに控えていたクリストファーに集まった。

 クリストファーはその表情に戸惑いを浮かべながらも、一歩前へも進み出た。


「はい、私がクリストファーでございます。私に何か御用でも……」


 クリストファーが言葉を言い終わらないうちに、クラークは感極まった表情で、杖をついていない方の左手で、彼の手をぎゅっと握った。


「ああ、君がクリストファーか……!」


 彼はしみじみとクリストファーの顔を眺めた。


「……髪色も、目の色も、そしてその品のある佇まいも……ヘレンに、よく似ているな」


 両目に涙を浮かべるクラークとは対照的に、クリストファーはさっとその顔色を変えた。


「どうして母上の名前を? ……貴方は、まさか……」

「ああ、君の父親だよ」

「……」


 しばし呆然と、目を見開いていたクリストファーだったけれど、みるみるうちにその顔が怒りに染まった。


「どうして……! 何故、今更……!!」


 普段の穏やかなクリストファーからは想像もつかないほどに、彼は激しい口調で続けた。


「母は二年前に他界しました。再婚もせず、ずっと、貴方だけのことを想い続けて。どうして、もっと早くに母を探しに来てはくださらなかったのですか?」


 そして、クリストファーはクラークの左手薬指に嵌っている銀色の指輪を冷ややかに見つめた。


「……母を棄てて、ご自分は幸せな結婚生活を送られていたと? 随分と結構なことですね。……どうぞ、今すぐにでもお引き取りを」


 クラークは、少し口を噤んで思案気な表情を浮かべた後、従者に身体を支えられながら、左手の薬指に嵌った指輪を引き抜いた。節くれだった指に長く嵌められたままだったのであろう指輪の跡が、白くくっきりと指に浮かんでいる。

 彼は、引き抜いた指輪をクリストファーに手渡した。


「……私が愛した女性は、ヘレンだけだ。ヘレンが私の前から姿を消してからも、その後誰とも結婚などはしていないよ。この指輪の内側を見てみなさい」

「これは……」


 クリストファーの両目に、じわりと熱いものが滲む。そこに刻まれていたのは、『ヘレンより愛するクラークへ』という文字だった。


 それとよく似たものに、クリストファーには見覚えがあった。

 母の死後、形見にとその指輪を外した時に、内側に刻まれていた言葉が、『クラークより愛するヘレンへ』だったのだ。

 その時、クリストファーは生まれて初めて、父親と思しき人物の名前を知ったのだった。


 クラークは、クリストファーの肩にそっと優しく手を置いた。


「本当に長い間、ヘレンを、そして君のことを探していたんだ。

ずっと手掛かりが掴めずにいた中で、神官様にも再度ご相談したところだったよ」


 彼は記憶を辿るように、遠い瞳をした。


「ヘレンは昔、私の家の侍女をしていてね。私が彼女に惚れ込んで、両親には反対されたが、何が何でも彼女と結婚するつもりだったんだよ。駆け落ちの約束をしていて、一緒に逃げた先では、その時に既に彼女の胎内に宿っていた君とも一緒に、ささやかな家庭を築こうと思っていた。……ところが彼女は、駆け落ちの直前になって、一通の置き手紙を残して失踪してしまった。身分違いの恋で貴方に迷惑を掛けたくはないと、そう書き残して」


 小さな溜息を吐いたクラークは、呆然としているクリストファーを見つめた。


「私がどれ程嘆き悲しんだか、君には想像できるだろうか。ヘレンにも、今一度会いたかったのだが……君は、ヘレンに生き写しだね」


 優しく瞳を細めた彼は、息子に向かって微笑んだ。


「せめて、同じような悲劇を繰り返したくはなかったのだよ。とある神官様から、君のこと、そして君の居場所の知らせを受けて、急いで飛んで来たという訳だ。……もう、君は一介の執事ではない。レクレット侯爵家の唯一の跡取りだよ」


 キアラは、想像だにしていなかった光景を目の前にして、ただぼんやりとその様子を見守っていた。


(もしかして、クラーク様が仰っている神官様って、私の話を聞いてくださった方かしら。……それにしても、クリストファーは、クラーク様とも面立ちがよく似ているわ。クラーク様の息子というのは本当なのね。同じような悲劇って、いったい何のことかしら……?)


 クラークの言葉を受けて、なぜかケネスは嬉しそうな笑みを浮かべると、クリストファーの背中を軽く叩いた。


「よかったな。これで、君には何の障害もなくなっただろう?君は、実のところ侯爵家の跡取りだとわかったのだから、これで身分差がなくなったどころか、今や君の家の方が格上だ。僕は、君たちのことを影ながら応援していたんだよ。今こそ、キアラに本当のことを話せばいい」

「……本当のこと?」


 まだ訳がわからない様子のキアラを見て、サミュエルは静かに俯いた。ケネスは明るい顔で彼女に続けた。


「ああ。クリストファーが、キアラ、君の探していたクラークだったということだよ」

「えっ……!?」


 ふっと息を吐いたクリストファーは、申し訳なさそうにサミュエルに一礼してから、キアラに歩み寄ると、熱の籠もった瞳でじっとキアラを見つめた。


(彼は、本当に……)


 キアラの胸は大きく跳ねた。彼の美しく優しい碧眼を見て、確かに見覚えがあると、それはクラークの瞳だと、そう思ったのだ。


「キアラお嬢様に身分を偽ってお会いするなどということをしてしまい、大変申し訳ありませんでした」


 一度深く頭を下げてから、クリストファーは続けた。


「キアラお嬢様が暴漢に襲われ掛けた当時、あの街の治安はあまり良くないと言われていて、それを不安視されたケネス様が、私を貴女様の護衛に付けてくださったのです。貴女様はお一人での街の散策がお好きだと知っておりましたので、陰から見守っておりました。まさか本当に良からぬ輩にお嬢様が襲われるとは、肝が冷えましたが」

「どうして、変装などを……?」


 首を傾げたキアラの言葉に、クリストファーは苦笑した。


「変装せずに歩いていると、どうやら私は余計な人目を引いてしまうことがあるようで。見知らぬ令嬢から話し掛けられるなど、色々と煩わしいですし、お嬢様を見守るにも都合が悪かったのですよ」


 彼は、そっとキアラの手を取った。


「キアラお嬢様からまた会いたいと仰っていただいた時、断るべきだとはわかっておりました。けれど、私も、また貴女様と二人きりでお会いしたいという自分の気持ちに、逆らうことができなかったのです。……きっとお気付きではなかったでしょうが、私は長い間、心の中で貴女様をお慕い申し上げていたのですから」

「……まあ、それは気付かなかったわ」


 目を瞠ったキアラに、クリストファーは切なげに微笑んだ。


「母は、母とその腹にいた私を救ってくださった、大きな恩のあるナリス子爵家を、そして旦那様を決して裏切るようなことをしてはならないと、私が幼い頃から常々申していました。もしかしたら、母は私の気持ちに朧げながら気付いていたのかもしれません。私が名前をクラークと偽って、キアラお嬢様との心躍るような時間を過ごす一方で、私の罪悪感もまた、大きく膨らんでいきました。私は一介の執事に過ぎません。お嬢様と結ばれることなど、許されるはずがない」


 眉を下げた彼は、じっとキアラの瞳を覗き込んだ。 

 

「ですから、断腸の思いで最後にあの手紙を差し上げました。……勝手なことをして、お嬢様を傷付けてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」


 再び深々と頭を下げるクリストファーの横で、サミュエルがちっと軽く舌打ちをした。


「あーあ、上手くいくと思ったのにな。君を騙したのは俺の方だ、悪かったよ」

「サミュエル様……?」


 サミュエルに視線を移したキアラに、彼は続けた。


「……クリストファーが、屋敷に入る前に、鬘とこの付け髭を外す様子を偶然見掛けて、何か後ろ暗いところがあるんじゃないかって、問いただしたんだよ。そうしたら、さっきの話を白状してさ。自分ではキアラを幸せにできない、代わりに俺がクラークだったことにして貰えないかと、そう頼まれたんだ」


 彼はがりがりと頭をかくと、正面からキアラを見つめた。


「俺が君を好きだったことは本当だし、彼もそれには気付いていたんだろう。君をどうか幸せにして欲しいと、そう頼まれていた。

……でも、もうその必要はなくなったようだな」


 サミュエルは、ぐっと堪えるように笑顔を作ると、キアラの肩を叩いた。


「俺を振るんだからな、その分も幸せになれよ」

「……ありがとう、サミュエル様」


 サミュエルに、ここ数年では初めてとも言える心からの笑みを見せたキアラは、自分の手を取ったままのクリストファーに視線を戻した。

 その横では、クラークが溢れんばかりの笑みを浮かべている。


 クリストファーは、父であるクラークが彼に頷くのを見ると、キアラの前にそっと跪いた。


「もしも、こんな私でも、許していただけるのであれば。……私と、これからの生涯を共にしてはいただけませんでしょうか」

「は、はい。喜んで。……嬉しいわ!」


 クリストファーの手を取って立ち上がらせると、キアラは感極まって彼に抱きついた。

 クリストファーの頬は、みるみるうちに赤く染まっていった。


 そこに集っていた者は皆、ーーそして、遠く離れた場所からもう一人がーー、温かな目で二人のことを見守っていた。


***


 カトリーナは、キアラから届いた事の顛末を知らせる手紙を読んで、嬉しそうに微笑んだ。そこには心からの感謝が、金色で縁取られた美しい便箋に綴られていた。


 同じ便箋でも、先日カトリーナが触れた、クラークからの別れの手紙とは、……あの、触れるだけで切ない悲しみが伝わってきた手紙とは対照的に、カトリーナが今しがた受け取った手紙には、はちきれんばかりの喜びが溢れていた。

 ちなみに、カトリーナのみる限り、互いに足りないところを補い合い、そして双方思いやりのある彼らの相性は、とても良い。幸せが末長く続くことだろう。


(間に合って、よかったわ)


 あの日、相談に訪れたキアラが帰ってからすぐに、カトリーナはクラークに手紙を出して、息子と思しき人が見付かったことを伝えていた。


 ……クリストファーが偽名として用いていた「クラーク」と、妻と息子を探していた「クラーク」が、なぜカトリーナの中で一つに結び付いたのか?


 それは、彼女の神官としての特別な力によるところもあったけれど、人が慌てて偽名を騙る時、思わず知人の名前を出す者が一定程度いるという彼女の経験に基づくものでもあった。

 特に、クリストファーにとっては、ようやく知った父の名前は、特別印象深いものだったのだろう。似たような人探しの相談が少なくない中で、それでカトリーナはピンと来たのだ。


(……でも、それだけではないわね。あの方も、きっと彼らに味方したのでしょう)


 カトリーナは、クリストファーによく似た彼の母が微笑みを浮かべて、天の上から二人を見守る様子が目に浮かぶのを感じながら、手元の便箋をそっと静かに閉じた。

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