神官カトリーナの託宣帳

瑪々子

第1話 キアラの失せ人探し(前編)

 夜明けの空は美しい。

 藍色から始まる淡いグラデーションが広がる空を、地平線から顔を見せた太陽が次第に明るく照らしていく。


 まだひんやりとした空気に白い息を吐きながら、朝日に照らされて輝き始めた神殿の前を、手際よく掃き掃除する一人の若い女性の姿があった。

 足先まで被さるような真っ白の長衣に、胸元だけ濃紺の神官服を纏ったこの女性は、この神殿で働く神官の一人、カトリーナ・セレネ・オヴェリウス。この王国を古来から支える神官の直系に当たる彼女の父親は、今はこの王国の大神官、つまり神官長を務めている。


 けれど、神官には親の七光りというものは存在しない。あくまで粛々と王国の民のために尽くすことが目的の神官には、継続的な努力と自己研鑽、そして地道な下積みが求められる。神官の中でも非常に強い霊感と、特殊な占いの才に恵まれているとはいえ、まだ神官となってから一年足らずで、未だ新人の域を出ないカトリーナには、神殿の掃除もまた大切な下積みの仕事の一つだった。

 リズムよく箒を動かすカトリーナからは、機嫌良さそうに口ずさむ鼻歌が聞こえている。彼女は、ぴりっと澄んだ空気の中で、まだ誰もいない世界を独占できるような早朝が好きだった。鳥の声が遠く響くだけの静かな空間に、まるで神経までもが研ぎ澄まされていくようだ。


 その時、微かな足音がカトリーナの耳に届いた。

 こんな時間に人に出くわすことは珍しい。驚いたカトリーナが振り返ると、そこには大振りのストールで半ば顔を覆うようにした、小柄な女性が立っていた。

 カトリーナが箒を動かす手を止めると、その女性は少し躊躇った様子を見せてから、カトリーナに近付いて深く頭を下げた。


「すみません、こんな時間にお声掛けしてしまって」


 緊張が滲む若い女性の声だった。カトリーナは彼女に向かって優しく微笑んだ。


「いえ、大丈夫ですよ。どうなさいましたか?」

「実は……。できれば、ご相談したいことがあるのです。人を、探しておりまして」


 カトリーナはこくりと頷いた。失せ人探しは、時々依頼を受けることがある。目の前の女性からは、どこか思い詰めたような雰囲気が漂っていた。


「ここで立ち話をするのも何ですから、こちらにいらしてくださいな」


 カトリーナは、背後にひっそりと佇んでいる荘厳な神殿を指差した。


「も、申し訳ありません。神官様にご相談するには、正式な手続きが必要なことはわかっているのですが、その……」

「手続きを踏むと、どうしても時間が掛かりますものね。何かお急ぎなのでしょう?」


 彼女の事情を汲み取った様子のカトリーナの言葉に、女性はほっとした様子を見せて頷くと、カトリーナに導かれるままに、その後について神殿へと入っていった。


***


 神殿の片隅にある小さな事務用の部屋で、カトリーナは、年季の入った木のテーブルの前に設えられた椅子に女性を案内した。彼女が用意した温かな紅茶に、恐縮したように口をつけた女性は、改めてカトリーナに頭を下げた。


「あの、ありがとうございます。お時間を取っていただいて」

「いえ、構いませんよ。では、早速ですが、本題に入りましょうか?」

「はい」


 テーブルを挟んで前に座ったカトリーナがほとんど同年代であることに気付き、多少なりとも緊張が緩んだ様子の彼女は、ぽつりぽつりと話し出した。


「私はナリス子爵家の長女、キアラと申します。実は、私の愛する方が姿を消してしまって……。神官様のお力をお借りできればと思い、まいりました次第です」

「愛する方、ですか?」

「はい。あの方が私をどう思っていらしたのか、今となってはわかりませんが……。少なくとも、私は心の底から彼をお慕いしておりました」


 キアラの目にじわりと涙が滲む。朝陽の差し込み始めた部屋の中で、カトリーナが改めて彼女を見ると、上品に整った彼女の顔には、目の下に痛々しいほど黒い隈がくっきりと浮かんでいた。


「彼と出会ったのは、この神殿にも程近い街です。私が一人で買い物に出掛けた際、うっかり細くて薄暗い路地に迷い込んでしまい、暴漢に襲われかけたところを助けてくださったのが彼でした」


 彼女の脳裏には、下品な笑いを浮かべた男たちに路地の奥に追い詰められて絶望していた時、突然飛び出してきて自分を助けてくれた勇敢なクラークの姿が、はっきりと焼き付いていた。

 カトリーナが頷くと、キアラは続けた。


「その彼ーークラーク様というお名前しかわかりませんがーーは、私を助けてから、すぐに立ち去ろうとなさいました。けれど、私は、細身で腕っぷしが強そうにも見えなかったのに、あっという間に目の前の暴漢たちを撃退してくれた彼の勇姿に、一目惚れしてしまって……」

「一目惚れ、ですか」

「はい」


 キアラはカトリーナの視線にほんのりと頬を染めると、はにかみながら答えた。


「彼は茶色の髪に、同色の口髭と顎髭をたくわえていて、眼鏡の奥には、知的で優しそうな碧眼が輝いていました。品のある見た目と、勇ましいお姿とのギャップも魅力的で、どうしてもまたお会いしたいと、私は彼に無理を申し上げたのです」


 彼女は、懐かしそうにふっと遠い瞳をした。


「最初は戸惑った様子を見せたクラーク様でしたが、最後には了承してくださり、また二人で会う約束をいたしました。それから、両手では数え切れないくらいは、彼とお会いしたでしょうか」

「お二人で会っている時には、何をなさっていたのですか?」

「カフェでお茶を飲んだり、手を繋いで街中を散歩したりといった、普通の恋人同士がするようなささやかなことです。彼との時間は、私にとって幸福そのものでした。きっと、彼も私のことを憎からず思っているはずだと、そう信じていたのですが……」


 キアラは少し口を噤むと、手にしていた小さな鞄の中から一通のベージュの封筒を取り出した。そして、それを悲しげにカトリーナに手渡した。


「最後に彼とお会いした時、どうも様子が少し変でした。浮かない顔をしていらっしゃって。別れ際に、一人になったら読んで欲しいと手渡されたのが、この手紙です」


 カトリーナはその封筒から中の便箋を取り出した。縁に金のエンボス加工の施されたその便箋には、彼がもうキアラとは会えないこと、彼女と過ごした時間を感謝していること、そして彼女の今後の幸せを願う言葉が、流れるような美しい達筆で綴られていた。

 一見して、彼女に別れを告げる手紙だ。


 辛そうに口元をきゅっと引き結んだキアラは、カトリーナが便箋を読み終えたことを確認すると、呟くように言った。


「彼が私と別れたいというのなら、それは仕方のないことです。けれど……。あまりにも別れが突然で、そして、彼が別れ際に私を見た時の、どこか切なげで、辛そうな顔が忘れられなくて」


 気遣わしげにキアラを見つめるカトリーナの前で、彼女は声を震わせた。


「この手紙を読んで、そして彼と会えなくなって初めて、私がいかに彼のことを知らなかったのかに気付かされました。彼は品のある物腰でしたが、どこの貴族家の方なのかも、お住まいの場所も、私は何も知らないままでした。私は、できれば彼にあと一度でもお会いして、その真意を伺いたいのです」


 どうしたらクラークに会えるのだろうと、キアラは最近そればかりを考えていた。ぐっと涙を堪えた彼女は、カトリーナを見つめた。


「今、私にはいくつかの縁談が来ております。父には、私には想う方がいると伝えたのですが、それならば連れて来いと、それが無理なら縁談を受けろと一蹴されました。あまり、私に残された時間はないのです。……別れ際の、彼の掠れ気味の低い声が、今も私の耳から離れません」


 キアラの切実な視線を受け止めて、じっと彼女を見つめ返してから、カトリーナはしばらくその瞳を閉じた。


 カトリーナの頭の中に、目の前のキアラから感じられる、生まれ落ちた時の星の配置と、今現在の星の配置とが瞬時に展開する。脳内の小さな宇宙に瞬く星々の位置をカトリーナが把握し、そして胸にかかったロザリオに連なる水晶球を一撫でした後で、彼女はゆっくりと目を開いた。


「キアラ様、貴女様の身の周りの、半径一キロメートル圏内に……。そうですね、日常的によく会うか、または物理的に近くにいる方、と置き換えていただいても構いません。クラーク様と同じ碧眼で、同じくらいの背格好をしている方はいらっしゃいますか?」


 キアラは面食らったような表情になった。


「クラーク様は、私の身近にいると、そう仰りたいのですか? けれど……」

「ええ、キアラ様がお考えになられていることはよくわかります。クラーク様に似た外見を持つ方は、お知り合いにはいないと思っていらっしゃる。もしそれが身近な誰かだったとして、そんなことをする動機も理由も、思い当たらないということですね」


 その通りだと言わんばかりに、キアラは大きく首を縦に振った。怪訝な顔をしている彼女に、カトリーナは微笑み掛けた。


「それはそれで構いませんので、私が先程挙げた条件に合いそうな方がいれば、挙げてはいただけませんでしょうか?」


 キアラはしばらく宙に視線を彷徨わせてから、カトリーナに視線を戻した。


「先程、神官様が仰った条件……青い目と、背格好がクラーク様に似ているという点では、三人の男性が思い浮かびます。どなたも、髭を生やしてはいらっしゃいませんが」

「三人、ですか」


 すっとカトリーナの目が鋭く細められた。キアラは彼女の言葉に頷くと、思案気に続けた。


「はい。一人目は、私の義兄のケネスです。義兄といっても、彼は私の二つ年上の従兄弟です。私は一人娘ですので、婿を取るか、または誰かを養子に迎える必要がありました。ケネスは次男で、父の甥に当たり、七年程前にナリス子爵家の養子となりました。ただ……」


 彼女は首を捻ってから、カトリーナに視線を戻した。


「彼の髪色は明るい金髪です。それに、彼はとても優しい義兄で、仲も良いですし、割合とよく話すので、仮に変装などをしていたとしても、会えばわかるような気がします」

「そうですか。最近、彼に何か変わった様子などはありませんでしたか?」

「いえ、特には……。ただ、縁談のことで父と言い争った後、部屋を飛び出して涙目になっていた私の頭を撫でてくれたのですが、何かもの言いたげでした。……そう言えば、クラーク様と最後にお会いした頃、義兄は風邪を引いていたように思いますが、それくらいでしょうか」


 ケネスがその頃咳をしていて、少し声が掠れていたことを、キアラは思い出していた。カトリーナは、彼女の言葉に頷いた。


「ありがとうございます。では、二人目の方というのは?」

「二人目は、義兄のケネスの執事をしているクリストファーです。義兄が養子に来てから彼の執事をしていますが、義兄とは同い年で、それまでは時々私もお世話になっていました。幼い頃は私の遊び友達でもありました」

「幼い頃からのお知り合いなのですね?」

「はい。臨月の時に、家の前で行き倒れていた彼の母君を家人が助けたのをきっかけに、彼女には住み込みでメイドとして働いてもらっていたので、彼も同じ家で育ったのです。数年前に彼女は天に召されましたが、私の家に来るまでも恐らくメイドをなさっていたのでしょう、腕もよくマナーも完璧でした。でも……」


 キアラは考え込むように、少し眉を寄せた。カトリーナは、そんな彼女が口を開くのを静かに待っていた。


「……クリストファーは、亡き母君に似た栗色の髪をしています。目は碧眼で、人目を惹く美しい容姿をしており、護身術にも長けていて、義兄も彼を信頼しているのです。彼の母君を私の家が助けた経緯からか、彼も、私の家族を大切にして、誠心誠意仕えてくれています。最近は、執事としての立場を踏まえてか、昔のように話すことはあまりないものの、彼が私のことを騙すようなことをするとは考え辛いのですが……」


 カトリーナの瞳が興味深そうに輝いた。


「なるほど、よくわかりました。では、最後の三人目の方は?」

「三人目は、私の幼馴染のサミュエルです。家が近く、同い年で、そして同じ子爵家ということもあり、昔から付き合いがあります。三人の中で、クラーク様と同じ茶色の髪をしているのは彼だけです」


 そう言いながらも、キアラは表情を翳らせた。彼が候補に入っていることを、どことなく嫌がっている様子だった。


「彼も整った容貌の持ち主ではあるのですが、彼は昔から私に会う度に、何かしら嫌味を言って来ました。私はそれが嫌で、ここ数年は彼をできるだけ避けるようにしていました。私は彼に嫌われているのだろうと、長いことそう思っていたのです。なのに、なぜか、先日彼から私に婚約の申し入れがあったようなのです」

「それはまた突然ですね」

「詳細はまだ聞いていないのですが、私としては、まさか彼からの縁談だなんて晴天の霹靂で、何かの間違いなのではないかと、今でもそう思っています。私を見下したような日頃の態度に鑑みると、彼が私のことを好きだとはとても思えません。……単純に家同士の都合ということなら、まだ理解はできるのですが」

「そうでしたか。三人の皆様のことを教えてくださって、ありがとうございました」


 カトリーナは、キアラの話から何か大切なことを掴んだように、満足気な表情で、にっこりとキアラに笑い掛けた。


「さて、キアラ様の生まれついた星の配置からは、今は、意志を持って行動することで運が大きく開ける時期に来ています。そしてまさに、キアラ様は今回、自ら動いて現状を打開し、クラーク様に会おうとなさいました」

「は、はい」

「大丈夫、キアラ様がお探しの方には、もうすぐ会う機会が訪れます」


 キアラの瞳が大きく瞠られた。


「クラーク様に会えるのですか……!?」

「はい。ただし、彼に会える時、その後に繋がる道は二手に分かれています。彼と幸福になる道か、またはお別れする道か」


 緊張を滲ませたキアラに、カトリーナは続けた。


「幸福に繋がる道の前には、今まで、高い扉が聳えていたようです。けれど、キアラ様がその扉を必死に叩いて開こうとなさったことからーー今回、決心をして私の所にいらしたようにーー、きっと、幸福へと繋がる道の扉が開けることでしょう」

「それは本当ですか……?」


 ぱっと瞳を輝かせたキアラを、カトリーナは真剣な眼差しで見つめた。


「ええ。ただし、一つ注意点があります。解決の糸口が見えたように思えた時、この言葉を思い出してください。『早まらず、決断の前には深呼吸』……よろしいですか?」

「あの、ええと、はい。わ、わかりました……!」


 カトリーナの言葉を消化し切れないように、不思議そうに耳を傾けていたキアラだったけれど、最後にしっかりと頷いた。そして、繰り返し礼を述べてから、カトリーナの元を去って行った。


 去り行くキアラの背中に向かって、カトリーナは微笑んだ。


(不思議な偶然もあるものね。……いえ、これは必然というべきかしら)


 カトリーナの元には、ちょうど、別の「クラーク」からの失せ人探しの依頼が来ていたのだ。

 まだクラークからは手紙を受け取っただけで、そして、キアラとは一見何の関わりもなさそうに見える話ではあったけれど、カトリーナの中では、点と点が線に繋がった感覚があった。

 そして、彼女に、神様がそっと耳打ちしてくれたかのようなこの感覚がある時には、今までその予感を外したことは一度たりとてない。


(……元からクラーク様に会う予定ではあったけれど、少し急いだ方が良さそうね)


 カトリーナは、机の引き出しから一枚の便箋を取り出すと、さらさらと何かをしたため始めた。

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