しもつきの氷

 北海道の十一月は、本土のそれとは違って、もうすっかり冬だった。気温は一桁、テレビの週間予報に並ぶ記号は雪だるまばか。こちらに来るときに服装にひどく悩んだ結果、ダウンのコートを着てきたのは正解だった。飛行機を降りて、諸々の手続きの間はよかったが、空港を出て外気に触れた瞬間、北風の冷たさが肌を刺した。

 道の端に雪も積もり始めているのに、知らない土地でレンタカーを借りて運転していくなんて無謀にも他ならず、三日間の契約で貸し切りのタクシーを頼んだら、途中の宿代よりも高く付いたのはご愛敬。通帳の残高については、もう、考えないようにしておく。三日間、正確には二日と半日のつきあいになる運転手の年輩の男性に、まわってほしい場所を頼んだら、怪訝な顔をされた。

「あんた、なにしにきたの」

 少し訛りのある柔らかな口調で、怪しんでいるのを隠そうともせずに、彼はそう言った。わたしは曖昧に笑って、首を傾げておく。しばらく互いに見つめあっていれば、さきにあきらめたのは相手の方だった。ちゃんと前を向いて、シートベルトを締める仕草をする。私もそれにならって、シートベルトを締めた。北海道での移動は「少し」という言葉の単位が違うと、方々から聞いている。どれくらいかかるものかしら、考えながら窓にもたれ掛かる。冷たい空は灰色で、しんしんと、今も雪が降っている。


 事前に断りを入れておいたから、すんなりと門をくぐることができた。わたしがひ弱そうな女性だったためもあるだろう。

 広い校庭にもうっすらと雪が積もっているらしく、足跡一つないまっさらな白色は、広いキャンバスのように思えた。よそものの自分がそれを最初に汚してしまうのが忍びなくて、校庭の端をそろりそろりと歩く。フェンスに沿って、丸裸の並木が立っている。その枝もうっすらと雪をかぶって、白く化粧をしていた。

 一番手前の木に近寄る。当然わたしの背丈よりも高い木は、丈夫な幹をしていて、いつからここへ生えているのだろうか。ひとひとりの体重ぐらいなら、そこの枝でもかるく支えられそうだ。

 爪先で背伸びをして、細い枝に触れてみる。少し強く自分の方へと引き寄せて、その表面をまじまじと観察する。まったくなめらかなわけではなくてあちこちがでこぼこしている。薄い白に覆われた下には、しかし、まだ何の気配も芽吹いていないようだった。そうね、冬になったばかりだもの。納得をして、枝を離す。枝はしなって、薄い白をはねのけて、もとの場所にじっと佇んでいる。きっとそのまま、春を待つのだろう。前の年を忘れて、新しい花を咲かすのだろう。花は、そう考えると、ひどく薄情なやつな気がする。

 校舎の方から、チャイムの音が聞こえてくる。わんわんと反響する短いメロディーはどこでも同じなのだなあと考えながら、ぼんやりと校舎の時計を見上げる。なるほど、もう授業は終わりで、とすると、そろそろ生徒たちが校庭に出てくる頃だ。お礼だけを言って、早く出ていかないと、怪しまれて通報されてしまうかもしれない。

 きっと彼女はそんなことなかったのだろうなと思った。子どもたちに囲まれて、楽しそうに笑っていただろうなと思った。


 日本という国にいれば、どこであっても朝の混雑というのは仕方がないものなのかもしれない。

 ホームの上を横断する通路の上から、人でごった返しているホームを見下ろしながらそう考えて、ため息をつく。さすがに東京並とは言わないが、それでも、なかなかの人の数だ。ただスーツを着ている人もあれば、ミニスカートの女子高生もいるし、私のようにダウンコートを着込んでいる人もいる。その誰もが、ホームの人混みをつくりだすのに一役買っている。

 ひどい喧噪だ。最近、足を踏み入れることがないから忘れていたが、朝と夕方の駅というのは、とりわけうるさい場所だった。生きていくために働きに出て、生きていくために家に帰る。そんな当然を毎日、毎日、阿呆みたいに大勢の人が繰り返している。

 わたしもいずれはそこへ戻らないといけないだろう。考えるだけで、めまいがしてきて倒れてしまいそうだけれども、それは紛れもない事実だった。だってわたしも、いきている阿呆みたいな大勢のうちの一人に、他ならないのだから。

 駅に入る前に買った缶コーヒーをすする。まだ熱いぐらいのコーヒーは、わたしには慣れていない苦さで、思わず顔をしかめた。


 アスファルトの上に雪が積もっている。さすがにまだこの季節だと、昼間の日差しで少し溶けてしまうのだろう。雪の表面は半透明であるように見える。

 どこをどう切り取ったら、あの写真になったのだろう。遠くに山を臨みながら、うろうろと動きまわる。空の端が橙色に暮れかかっている。赤い夕日は山のてっぺんのわずか上に、辛うじて引っかかっている。きれいに舗装された道路なのに、さっきから車は通らない。中央線の上に立って、背伸びをしてみる。夕日のある位置は変わらない。もう十分もしないうちに沈んでしまうだろう。

 わたしはまた、ちょっと間に合わないのかもしれない。そんな良くない考えが、ふわりと脳裏に浮かび上がる。何をどうしたらそのちょっとを間に合うことができたのか、分からない。分からないまま闇雲に繰り返しても結果は同じことになるだけだと、理解はしているはずなのに、さきに行動に移してしまうのは、きっと分かりたくないからだった。目を逸らしたままで居たいのだ。それじゃあいつか立ちゆかなくなると分かっているはずなのに、どうしてわたしは。

 澄んだ空気の向こうに、山の稜線はくっきりと黒く浮かび上がっている。少しずつ、丸い光が近づいてくる。ぽつ、ぽつとふたつ並んだ丸い光が、ぐんぐんと速度を上げて、わたしの方へ近づいてくる。少し黄色みがかった、思わず顔をしかめてしまうぐらいのまぶしい光。

 光と一緒に、けたたましいブザーの音が近づいてくる。まるで、しかりつけているような音だ。

 それがクラクションの音だと気が付いたときには、道の端の雪にしりもちを付いていたし、目の前を黒いタイヤが横切っていったし、通り過ぎた音はわずかに低くなってうめいていた。

 首を横に振る。まばたきを、する。とっさに地面に付いたらしい手のひらはじんじんと痛い。

 ゆっくりと、さっきまでと同じ山の方を見る。とうとう赤い夕日が、こらえきれなくなって山のてっぺんに姿を隠そうとしている。

 同じ画面を見たことがあった。

 わたしは、間に合ったのだ。

 おうい、おういと、後ろから声がする。そちらを振り向くと、タクシーを停めてもらった方から、運転手の男性が、慌てた様子で走ってきた。

「あんた、だいじょうぶか」

「ええ、なんとか」

 軽く叫ぶような調子に合わせて、わたしも声を張り上げる。男性はわたしのそばに立ち止まると白い手袋をはめた手を差し出してくる。しばらく手袋の真ん中の皺を見つめてから、ああ、これはつかまれといわれているのだ、と気がついて、差し出された手を握った。足に力を込めるのと一緒に上へと引っ張られて、勢い良く立ち上がる。バランスを崩しかけて、まだ柔らかい雪を踏んだ。

「やっぱりあんた、死ににきたんか」

 男性の声が、責めるような調子でわたしに言う。帽子の下のやさしげなまなざしは、心配をしてくれているのだろうか、まっすぐにわたしを見つめていた。

 しににきた。

 その言葉を反芻する。言われたことの意味が、分かるような気もするし、まったく理解できないような気もした。ただ、すくなくとも、わたしがここへ来ようと思った理由とまったく同じではなかったので、首を横に振る。まだ、わたしの手を離してくれない運転手の男性の目を見つめ返しながら、口を開く。

「わたしは、友人に、会いに来たんです」

 ゆっくりと、手に込められた力が緩められていく。すとんと、自分の手が白手袋から滑り落ち、すっかり冷たくなった空気を切った。

 吐く息が白い。

 黒い山の稜線に、夕日が沈んでいく。

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