ながつきはトートロジー

 指輪を捨ててしまおうと思った。

 こんな指輪なんか捨ててしまおうと思った。だって、かなしいことばかり思い出す。

 はずした指輪を握りしめていたら、その手をさらに握りしめられた。拳ごとそっと持ち上げられて、机の上に載せられる。爪先が白くなっている。自分でも思った以上に力が入っていたらしい。小指から一本一本、順番に指を開かされる。抵抗しようにも、相手の力の方が強くて無駄だった。中指を開かされた時点で、抵抗する気も失せる。手のひらのそこに、指輪がきらりと光っている。人差し指と親指まで広げられて、わたしの手のひらの真ん中に、捨てようと思った指輪が光っていた。

 わたしの指を開かせた指が、指輪を拾い上げて、もう片方の手が、左の小指を固定して、指輪が小指にはめられる。簡単に抜けないところまで、しっかりとはめられる。無性に悲しくなった。どうして指輪だけがここにあるんだろう。

「ちょっと、歩くぞ」

 無骨な声がそう言った。とっくに珈琲も紅茶もなくなって、そういえばお冷やを注ぎにくる店員はいつから回って来ていないだろうか。わたしはいつから指輪を握りしめていただろう。

 分からなかったけれども、柱時計の鐘が鳴り始めて、四つ鳴ってから静かになった。十分長く店には居座ったのだろうと思った。


 前を歩く大きな背中にただただ着いて歩けば、やってきたのは駅前だった。複数路線の乗換駅で、駅前のにぎわいとは無縁なくせに、人だけは馬鹿みたいな数が群れていた。

 唯一のにぎやかしといえば最近建った駅ビルで、歩くぞとわたしを強引に誘った相手は、そのビルへと入っていく。不似合いな化粧品売場を平気な様子で突き進んでいく後ろを、無心で付いていく。制服を着た店員らしい人影は、目を合わせさえしなければこちらを引き留めてくることもないのだから。

 エレベーターの前で立ち止まる。三つ並んだエレベーターの、左の一機の前で立ち止まる。他の二機の前には人が群れているのに、ここだけは他にだれも待っていない。どうしてなのか、エレベーターの階数表示の上を見れば「展望台まで止まりません」と、ラミネートされた赤い札が言っている。このせいだ。このせいに違いなかった。

 わたしはその場を立ち去ろうと、後ろを振り向こうと、するのに、さっきと同じ手がわたしの肩をつかんで引き留めた。

「逃げるな」

 低い声が言うのはいましめのためではないと、知ってしまっているから従うしかない。止めてしまっていた息をゆっくり、ゆっくり吐いていって、底をついた。空っぽの肺が空気を取り入れ始めるのと同時に、左端のエレベーターの扉が開いた。彼がわたしの肩をつかんでいた手を離して、エレベーターへ乗り込んでいく。逃げるつもりはなかった。わたしも彼へ続いてエレベーターに乗り込む。

 乗り込んでから操作盤を振り向くと、まだ何も押していないのに、最上階のボタンが光っている。他に誰も乗り込んでこないまま扉が閉まって、小さな密室はすぐに上昇を始めた。上から押さえつけられるような重力を感じたのは一瞬で、エレベーターがどんどんと上へ向かっていることを知るには、後ろのガラスを通して外を見るしかなかった。秋晴れの鰯雲の下に、電車が走っている。どちらに飛び込んでも簡単に死ねるのだろう。そういうことは、いつだって簡単にできる。

 また一瞬、上から押さえつける力を感じたかと思うと、床が小さく揺れて、エレベーターの扉が開いた。彼が先にエレベーターをでる。わたしも、それに続いてエレベーターをでる。踏み出した足の爪先がふるえているのが分かった。握りしめた両手の拳の、左手の端だけが冷たい。

 色違いを組み合わせた大理石の模様を見ながら、彼についてエレベーターホールの真ん中まで進み出る。後ろで、エレベーターの扉が閉まる音がした。逃げ場はもうない。嘘を思って、ゆっくりと顔を上げる。

 狭いホールの、エレベーターをでた正面の壁一面に、大きな写真が飾ってある。額に入れられたのでも、天井につるされたのでもなくて、正しく壁一面に、その写真は飾られている。ガラスの層の一枚を、隔てられて。

 黒いシルエットが写真の真ん中にひとり佇んでいる。スカートをはいて、細い足を肩幅に開いている。足下には鞄が転がっていて、その横には、靴が脱ぎ捨てられているようだった。カメラのレンズには背を向けている。その視線の向こうにあるのは、金網のフェンスと真っ赤な夕焼け。

 はじめてみる写真だった。でもわたしは、この写真のことを知っている。ずっと、知っている。知っているから、見たくなかったのだ。指輪と同じ。かなしいことばかり思い出すことが分かっているから。

 視界が端から滲んでいく。

 目元を拭おうと持ち上げた左手の小指がきらりと光る。指輪だ。指輪だけがここに残っている。

 残ったのはどうしたってものばかりで、残せるのはどうあがいたってそればかりで、きっと自分がするにしたって同じことしかできないのに、こんなにもつらい思いばかりするのなら要らないと考えてしまう。

 ぐずりと鼻をすする。目をつむって、開いてみても何も変わらない。夕焼けの写真はここにあるし、指輪は左手の小指に光っているし、わたしをここへ連れてきた人はそこに立っている。逃げられない。分かっていた。彼に会うと決めたときからこんな思いをすることは分かっていたのだから、せめて、こんな指輪捨ててしまおうと思った。

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