はづきの傾斜

 雨はいつの間にかあがっていた。

 窓の外に蝉の声は聞こえてきて、いまが夏だということを思い出させてくれた。開け放した窓から風は吹いてこない。網戸は雨で濡れているのに、困ったものだ。

 ゆっくり、体を起こす。視界が端から暗くなり、くらりと眩暈がする。床に手を突っ張って、目を閉じていれば、くらくらと世界の揺れる感じは消えていく。まばたきを繰り返せば、少しずつ視界は明るくなる。体の下へ敷いてあったタオルケットは、皺だらけになっていた。部屋着代わりのワンピースの背中も腹も、肌の上にじわりと玉を作るのと同じ汗に湿っている。顎の下も、項も、同じように汗で濡れている。わざわざタオルを持ってきて拭くのも面倒で、手の甲で肌の上に流れてくる汗を拭った。

 机の上にはアルバムと、写真を収めたケースがどちらも開けっ放しで置いてある。わたしがそうしておいたものだった。こうでもしておかないと、居眠りから目覚めたあとに忘れてしまうと思ったのだ。ただでさえ先送りにしてきたことで、これ以上遅らせるといい加減、またにげてると言われかねない。そんなつもりはないのだけど、と考えるとため息が出た。

 大学時代の、わたしとサッカと共通の友人の、結婚式に渡すアルバム。サッカの撮った写真から、良いものを選んでいくのが大変だ。ケースに溢れんばかりに収められた写真の全部を、さすがに、わたしは把握していない。サッカだったら違ったかもしれないけれど、言っても詮ないことだった。

 ため息をついて、ケースに入った写真に手を伸ばす。指先が写真の固い紙の縁に触れたのと同時、ぴんぽん、と陽気に呼び鈴が鳴る。来客の予定はなかったはず。けれど、がちゃりと玄関のドアが開く音がする。窓のレースのカーテンが、一瞬ふわりと浮き上がった。誰か、うちに上がってきたのだ。

 ゆっくりとした足音が近付いてきて、わたしの後ろへ立ち止まったようだった。ゆっくり、背中を仰け反らせて後ろを見る。ポロシャツにジーンズというラフな出でたちの、がっしりした体型の男性が、ビニール袋をひとつ提げて、涼しい顔でそこへ立っている。わたしはこの人を、ちゃんと知っている。

「佐塚さん」

 サッカと同じ苗字。滅多に口にすることはなく、まだ口に馴染まないその名前は、わたしの胸をこそばゆくする。おう、と低く応じて、佐塚さんはずかずかと、わたしの隣へ腰を下ろす。ビニール袋は机の端へ置かれて、がさりと音を立てた。

「差し入れだ」

「ありがとうございます。アイス?」

「ああ。溶けるぞ」

「冷凍庫にしまってくれれば良いじゃないですか」

 家の勝手は知っているだろうに、わざわざ回りくどいことをする。ビニール袋を手にとって立ち上がり、冷蔵庫のある台所へ足先を向ける。袋の中をのぞくと、サッカが好きな種類の箱入りアイスが入っている。それと同じ箱は、冷凍庫を開けると一番手前に置いてあるので、一度その箱をどけて、ビニール袋ごと奥へ押し込めてから、封の開いた箱をもとの場所に戻す。他のものが入らなくなりそうな様子にため息をつきつつ、扉を閉めた。減るペースより増えるペースが早いんじゃ、いつまで経ってもなくならない。

「不用心だったな」

 佐塚さんが言う。

 部屋の方へ戻ると、佐塚さんは机の上に、写真を広げていた。ケースは机の上にひっくり返っている。片付けをすることを思うと気が滅入るが、されてしまったことは仕方がない。ふたたびため息を吐きつつ、自分のクッションの上へ足を崩して座る。

「知らない奴だったらどうするんだ」

「どうしましょうね。でも、サッカが入って来れなくなる方が困るから、このままで良いんです」

「あいつは鍵も持って出んのか」

「わすれちゃうんですよ。だから、心配で」

 サッカは何度締め出しをくらって、部屋の前で待ちぼうけを喰らっていただろう。そのたびに声をかけて、瞬間、ぱあっと明るくなるサッカの顔が好きだった。

 けれども、とふと思う。蝉の音がやかましくて、部屋の中は蒸し暑くて、机の上は写真とアルバムで散らかっていて、いつもと違うのは佐塚さんがそこに居ることぐらいで、それさえも部屋の景色に馴染んでいる。いつもと変わらない、毎日の風景だ。

「でも、もう大丈夫かもしれないです」

 だからふと、そんなことを思ったのかもしれない。言ってみて、つんと目と鼻の奥が痛んだけれども、自分が嘘を言っているとは思わなかった。佐塚さんが「そうか」と頷いている。そうですよ、と返事をしようと思ったら、声が出なくて、代わりに、口の中に塩の味がした。手で目元を拭う。いつの間にかわたしの目からは涙が溢れていて、目の周りだけでなくて頬も濡れている。ぐずりと鼻をすすった。それでもまだ、涙は止まりそうにない。

 佐塚さんの手が、ゆっくりとわたしの背中をたたいてくれている。大きくて無骨な手のひらは、兄妹なのに、サッカと全然似ていない。

 サッカの繊細な手のひらを思い出す。その細い指がカメラを構えて、シャッターを押すところ。カメラを避けて、こちらへ顔を見せたサッカは、うれしそうに笑っている。高く、片方の手を空へ掲げて。

 きっと、もう大丈夫だと思った。雨はとっくに、上がっていた。

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