みなづきの憂鬱
近頃、サッカが朝の洗面台を占領している。
わたしが朝、洗面台を使うのは起きたときと、ご飯を食べ終わった後だけだから、それもこれも終わった後のサッカのその行動に別に困りはしないのだけど、これが毎日毎日続くと、いい加減気にもなるし、気になるのが高じて鬱陶しくもなってくるのだった。
今日もサッカは着替えを終えて、洗面台へ向かおうとしてる。サッカが着ているシャツの裾をつかんで、その場に引き留めた。
「なに、繭。私は洗面所へ行きたい」
「別に、予定があって出かけるわけじゃないんでしょう。ちょっと座って、聞きたいことがある」
わたしがそう言うと「聞きたいこと?」と首を傾げながら、サッカはおとなしくクッションの上に腰を下ろす。不思議そうにしているのが当然なのに、突然「あ」と声を上げた。思っていなかった反応に、わたしの方が「なに」と思わず聞き返してしまう。
「繭は、怒っている」
「いきなり、どうしましたの」
「怒っている、私が、冷蔵庫のアイスの最後の一個を食べてしまったから!」
小刻みにふるえながら後ずさられると、まるでわたしが悪いことをしたみたいだ。まだ、引き留めることしかしていないのに。しかもとてもささいなことで、怒ると思われているなんて、サッカにわたしは何だと見えているのだろう。
「アイスが無くなってるなんて、わたしは今はじめて知ったんだけど」
「あれ?」
「仮に知ってても、別に怒らないし。アイス食べるのはサッカだし、また買ってくるし」
「あれ、うん、繭はやさしいな。でも、だったらどうしてこんなに眉間に皺を寄せるんだ」
サッカの手がためらいなくわたしに伸びてくる。カメラを構えている印象の強い手が、指が、わたしの顔に向けられている。どきりとしてしまって、とっさに目をつむった。
冷たい指が、わたしの眉間を押さえている。二本の指が皮膚を押さえて、指の間の皮膚をのばそうとしている。その仕草のくすぐったさに、知らぬ間に入っていたらしい顔面の力がふっと抜けた。
「あ、戻った」
おかしそうに言うくせに、サッカの指はわたしの眉間から離れない。また自分の表情が険しくなりそうなのに、サッカの指がそれを許してくれない。
ためいきをつくための呼気がもったいなかった。「最近ね」と切り出せば、「うん」と相づちを打って、サッカは聞いている。
「サッカが朝、長いこと、洗面台を使ってるの。別に、困ってはいないんだけど、そろそろ気になってきて。どうして、そんなに長くかかってるの?」
言い終わって口を閉じると、ゆっくり、サッカの指がわたしの眉間から離れた。押さえられていたのが妙に心地よくなっていたようで、物足りなさを覚えていると、不意に頭を撫でられる。いや、そうではなくて、髪をすかれる。誰がしている、なんて犯人はひとりしか居ないのに。
目を開けて、視線だけ横に向けると、サッカの手は確かにわたしの髪を指ですいていた。人差し指にくるくると、わたしの髪を巻き付ける。そのまま下まで滑らせると、するすると髪はほどけていく。
髪をいじられるのは、どうしたってくすぐったいものだ。けども笑い声をこらえて、強ばりそうになる肩を意識して、すとんと下ろしておく。
「私の髪もこんなだったらなあ」
サッカが言う。ため息混じりの声は、心底うらやましがっているのだな、と感じさせるような悲哀に満ちていた。そう思う間にもまた、サッカの指はわたしの髪をくるくると巻き付けて、弄んでいる。
「天然パーマなんだな、私」
「そう」
「だから、まとまらないんだよ。梅雨なんだもの」
「ああ、そういうこと」
悔しそうに言うサッカに、謎は一気に解けた。なんて単純なことだったのだろう。確かに今日も窓の外は雨模様で、雨傘か雨合羽が手放せない。そんな季節に髪のことで悩む人たちが居るのは知っていたけれど、サッカとはまったくつながっていなかった。サッカの髪は、言われてみれば確かにくるくると、パーマを当てたようにカールしていて、それがもともとのものだということは初めて聞いたけれど、それならより一層、朝のセットには時間がかかるのだろう。
「縮毛矯正は?」
「お金がかかりすぎる」
「ならせめて、伸ばしてみればいいのよ。髪だけじゃまとまらなくても、括れれば楽でしょう?」
サッカが指に巻き付けていたわたしの髪がまたするするとほどけてわたしの首筋を撫でて鎖骨を覆った。わたしの髪から指先を離して、サッカは、おそるおそるという雰囲気で、ゆっくり自分の髪へ手をやる。確かに、サッカの黒い髪は各々が自由にカールしながら広がっていて、まとまっているとは言い難いけれど、それだって充分に個性的で似合っているとわたしは思う。わたしにはないものだからいっそう、そう思うのだろう。
自分の髪を指ですきながら、サッカが首を傾げる。
「伸ばして、似合うかな?」
わたしに寄越した視線は、自信なさげに揺れていた。なにをそんなに弱気になることがあるだろう。
「似合うよ、絶対」
そんなことを思っていたものだから、口にした返事には、思っていたよりも力と熱がこもっていた。そのことに気恥ずかしさは覚えなくて、サッカと視線を合わせたまま、うんうんと強く頷いて見せる。
「そうかな」
逆向きに首を傾げて、ゆっくりと手を下ろしながら、サッカが笑う。ほんのりと頬が紅くなっている。口元と目元が控えめに笑みを形作って、あ、照れている、とすぐに分かった。はじめて見る、サッカの表情だった。そうだよ、と口にする間も惜しくて、サッカの笑みをじっと見つめる。この表情がきっとすぐに失われてしまうのが、もどかしい。
シャッターを切りたい気持ちとはこういうものだろうかと考えながら、わたしもサッカに笑みを返した。サッカのはにかんだ笑みを、まだまっすぐに見つめながら。
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