さつきにワルツ

 今日は五月六日だ。

 久しぶりにひとりで迎えるこの日かもしれない。何せ、今日はわたしの誕生日で、出会ってからこちら、サッカがわたしを放っておいてくれなかったものだから。


 特に色濃く思い出せるのは、一緒に暮らし始めて最初のわたしの誕生日のこと。


 五月六日が近づいてくるにつれてそわそわと落ち着かない様子だったから、何かを準備しているんだろうな、とは思っていたけれども、当日のサッカの様子というのは、さすがに、わざとらしすぎやしないだろうか、と思えるほど、あからさまだった。

 別にいいんだ、構わない、と言い聞かせていたけれども、朝起きてからずっと、挨拶はしない、目は合わせない、出かける前に声をかけようとすればトイレに逃げる、と露骨に避けられていれば、わたしだって少しは傷ついたし、それを狙っているのであれば、お見事、としか言いようがない態度だった。だってわたしは一瞬、サッカに本当に嫌われているのかしらと、真剣に悩んで、信じかけたぐらいなのだから。

 極めつけには、わたしの住む場所でもある部屋のドアの前で、締め出しを食らう羽目になったのだ。

 ドアノブを下げて、ドアを手前へ引いてみても、十センチほど開けたところで、がん、という固くて鈍い音がして、ドアノブを握る手に衝撃が走った。ドアロックがかけられていて、外からの侵入者は徹底的に拒まれていた。

 せめて、ドアの開いた隙間に顔を寄せてみると、玄関先は暗くて、部屋の奥の様子はよく見えなかったものの、誰かが忙しなく動き回っている気配はした。それが誰かは分かっていたから、「サッカ」と呼びかけると、少しの間の後、がしゃん、と派手な音がした。食器を落としでもしたんだろう、と思って、そんなに驚くぐらいなら、はやく私を部屋に入れてくれれば良いのだ、と考えていた。

「もうちょっと。もうちょっとだけ待って、繭。もう、すぐだから!」

 けれど、部屋の奥からサッカがそう叫んだ。声はうわずって、早口で、要するにひどく焦っていた。すぐにでも部屋の中に押し入って手伝いたい衝動に駆られたけれど、ドアロックがあるとなると難しく、サッカの言うとおり、わたしにはあと少し、を待つしかできることはないのだった。顔をドアから離してため息をつき、ゆっくりと最後までドアを閉め、廊下の塀にもたれかかって、鞄を足元へ下ろした。

 サッカと暮らし始めてはじめてやってくるこの日付だから、きっと何かは用意されるだろうと思っていた。予想して、主に心の準備もしていたのに、実際にことを起こされると、落ち着いてはいられなかったのだ。わたしがその日、落ち込みに落ち込んだのは、そういうことだった。理由があると分かっていても、無視や何やらは結構、こたえるものなのだとよく分かった。自分がするときにはこうはしまい。もっと賢く実行するのだ、と心に決め、でも、それをすべき日をそのときのわたしはまだ知らなかった。それに気が付いてまた少し、気分が落ち込んだように思う。わたしばかり与えられていて相手にはちっとも、なんていうのは、避けたいところであるのに、サッカにことを聞けなかったのは、遠慮していたからだろうか。そうかもしれない。そうでないかもしれない。その頃、わたしはまだサッカのことをよく知らなくて、そもそも、知ろうという心意気で行動したことがまだなかった。そうする必要を感じることがないほど、サッカは私を構って、構って、構い倒していた。

 放っておくとどんどん沈んでいきそうな思考に割り込んで、そのとき、ドアの向こうで何かがちゃりと音がしたのだった。勢いよくドアが開いて、サッカが満面の笑みでわたしを見つめていた。

「お待たせしました!」

 そう言うと、サッカは体をずらして、わたしが部屋に入れるようにした。わたしは鞄をもって、勢いをつけながら壁から体を起こした。にこにこと笑うサッカの横を通り、ドアをくぐって部屋の中へ入ると、明かりは落とされて暗かった。カーテンも閉めきっているのだろうと思われるほど、暗かった。靴を脱いで、廊下にあがるのに、何だかそこが自分の家じゃないような気がした。

 後ろでサッカがドアを閉めたかと思うと、視界は一層暗くなった。それでも、家の中のつくりぐらいは分かっていたから、わたしは奥へ、奥へと進んだ。リビングの明かりも落ちて、暗かったけれども、暗がりの真ん中に橙色が灯っていた。

 わたしは、リビングの入り口で立ち止まって、鞄を床におろした。サッカがわたしの横をすり抜けて、一瞬、橙色の明かりを隠してしゃがみ込む。ふたたび明かりが見えたとき、サッカはわたしの目の前にすっくと立っていた。暗がりで表情は分からなかったけれど、「繭」とわたしを呼ぶ声が、ただただうれしそうだった。

「お誕生日、おめでとう」

 何の特別でもない誕生日に、サッカは小箱をわたしに差し出していた。わたしは半ばおそるおそる、サッカの手のひらの上の小箱に手を伸ばした。指先が触れたベルベットのなめらかさが、何故だかとても心に沁みた。


 そうして贈られたのが、わたしの小指を華やかにしてくれるピンキーリングで、お守りなのか何なのか、分からないけれども、肌身はなさず身に付けている。サイズはぴったりだったけれど、最近少し痩せてしまったから、緩くなっている。

 左手を天井に掲げて、手の指を思い切り広げてみる。窓からさすわずかな明かりにも、指輪はきらりと光っている。

 きっと、サッカが居たら、新しいのをくれたかもしれない、と思う。もう、言っても仕方がない、今年の誕生日はひとりきりなのだ。机のに置いた写真立ての、三枚の写真をじっと眺めてみても、何も変わらない。写真を裏返したって同じことだろう。

 広げていた指をぐっと握る。指輪の冷たさが手のひらにも伝わった。鮮やかな冷たさに、サッカが指輪をわたしの指へはめてくれたことをふと思い出す。

 好きだよ、繭。

 そう言って笑うサッカが好きだと、わたしはそのとき、はじめてはっきりと自覚したのかもしれない。

 もう一度、手の指を広げて、窓にかざす。指輪はまだ鈍く光っているけれど、どこか遠くで雷の唸る音がした。

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