うづきの終わり

 おまえをさがしてるやつがいるんだ。

 高校が同じ先輩にそう声をかけられてのこのことついていったのは、学校横のカフェのケーキセットをおごってくれると、先輩が言ったからだった。名前をだされた店は四月の初めに開店したばかりだけれど、チーズケーキが絶品らしいという噂は、とうに耳に入っていた。

 相手を待つという先輩を店の前へ残して、一階のテラス席に通されてすぐ、ケーキセットをみっつ頼む。好きにしろと言われたから、全部同じ組み合わせにしてやった。考えるのも後で揉めるのもいやだから、これが一番合理的。ため息をついて木の背もたれに体を預ける。あくびをするのも億劫なほどの眠気がすぐに襲ってきた。

 空は春霞、うすぐもり。日差しは強くもなく弱くもなく、うららかな陽気。ざわめきはうるさすぎず静かすぎず。春眠暁を覚えず、居眠りにはちょうど良い条件ばかりがそろっている。良い塩梅に、ちちちと鳥の鳴く声まで聞こえてきた。

 目を閉じる。うとうとと、眠気に誘われるままに呼吸を落ち着けて、体の力を抜いていく。

 暗くなった視界の端に言葉がちらつく。「さあ、ショーの始まりです。ゲストはあなたの運命の相手、左手の小指の赤い糸がもつれてないと良いんですがね」。意味不明な羅列が上っ面を滑っていく。寝入り端の声ってどうしてこうもおかしなことを言うんだろう。それともこれをおかしいと感じるわたしがおかしい? うつらうつら、とぎれとぎれ、変な言葉はつづけて叫ぶ。「さあ、ようやっとお目見えです!」

 カシャ。

 と、頭の中ではないところで音がした。頻繁に聞くものじゃないけれど、何の音かは知っている。デジタルじゃないカメラが、シャッターを切るときの音。

 目を開けようとするのに、まぶしくてうっすらとしか開けられない。黒いシルエットが目の前に居る。

 一度、瞬きをするように目を閉じてから、ゆっくりと開けていく。また、カシャ、と音がした。

 目を開いてちゃんと前を見れば、大きなレンズが私を見ていた。

 黒くて大きなカメラが私に向いていて、それを支えているのは対照的に白い手で、カメラの大きさに不似合いに、細い指だった。

 ぼんやりと、ほんのり紅い爪の先を見ていると、カシャ、と人差し指がシャッターを切るのが見える。その動作と、自分が写真に撮られているという事実がつながるのに、時間がかかって、瞬き。背筋をただす。

 カメラの向こうから、くすくす、笑う声がした。

 そこに人が居ることは分かっているはずなのにわたしはひどくびっくりしてしまって、びくりと肩を跳ねさせる。それでも目の前のカメラを構えた誰かからは目が離せない。

 ゆっくり、大きなカメラが下ろされる。

 くるくる丸まったショートカット、広いおでこ、アーモンドの形をした大きな目に、コーラルピンクの頬。赤いくちびるが、うれしそうに笑っている。

「やっと会えた」

 目の前のだれかがそう言った。

 その言葉は、なぜだかとてもしっくりわたしに馴染んだ。目覚めの意識に染み入って、確かにそうだ、とわたしはその言葉を聞いていた。

「さあ、運命の相手のお目見えです」と、頭の中の声が笑っている。

「ずっと探してたんだ」と目の前のだれかが言う。

 頭の中の声を無視するために首を傾げて、もう一度、目の前の相手をよく見つめる。特別美人というわけでもないけれど、カメラを首から提げているせいなのだろうか、ちょっとやそっとじゃ忘れられない、妙に鮮やかな印象を与える人だ。まだ名前も知らないのに。

「わたしを? 人違いではないんですか」

「ううん、違うよ。私が探していたのは君だよ、木芽繭さん」

 わたしの名前を知っている。自分の目が丸くなるのが分かった。きっと先輩に聞いたんだろうけれど、うれしそうに口にされると心臓の音が速くなる。それぐらい、特別な感じを与える人だ。彼女はにこにこと笑っていて、胸の前のカメラを、自然な挙動で顔の前へ構えると、カシャリとシャッターを押した。何の断りも躊躇いもなく、シャッターを押した。それを咎める気は起こらない、というよりも、すぐにしぼんでしまう。カメラを避けて見えた彼女の顔が、まだ、うれしそうに笑っていたから。

「附属校に通っていたでしょう、木芽さん」

 頷く。確かに、わたしはついこの間まで、この学校の附属高校へ通っていた。すぐ隣の敷地に高校はあるのだから、大学へ進学したといったって新鮮味は特になかった。毎朝くぐる門がそれまでの隣のに変わって、授業時間が延びたぐらいのものだ。

 私がその附属校の出身であることは、先輩伝手に約束をとりつけるぐらいなのだから知っているだろうし、わざわざここでわたしの通っていた高校の話をし出すのは、なんだろう。

「附属校の校舎の屋上、大学の方が建物高いから、よく見えるの」

 彼女がそう言って、得意げに唇の端をつり上げる。確かに、高校生の頃のわたしは、よく屋上へ通っていた。放課後が多かったけれども、フェンスに囲まれて狭い癖に開放的な屋上はわたしのお気に入りだった。フェンス越しに見る真っ赤な夕日が沈みきってしまうまで眺めていることが、何度あったか分からない。

「屋上に居る君を何度も見たよ。レンズ越しでもこの目でも、何度も何度も。一度で良いから会いたかったんだ、あんまりきれいな女の子だ。……って思ったから」

 口にする彼女は、今度はどこかはにかんでいるようだった。臆面もなく褒め言葉を口にしたかと思ったら、まったく、そんなことはなかったらしい。多分年上だ。年上の彼女のことを、可愛らしい、と思う。

「あなたの名前は?」

 今度はわたしから尋ねてみる。彼女ははにかんだ笑みのまま、背筋を正して胸を張って、口を開く。

「佐塚由紀」

 さづかゆき。彼女を表すには短いような気もしたけれど、それぐらいで丁度良いのかもしれない。名前ばっかりが魅力的でも意味がない。それなら、もっと短く呼んでしまえば、彼女はもっと可愛らしくなるのかもしれない。

 寝起きの頭だからかそんな変な考えがぐるぐるとまわって、けれども肝心の「もっと短い呼び名」は思いつかなくて、わたしは「よろしくお願いします、佐塚さん」なんて改まって挨拶をしながら立ち上がった。彼女の方が私よりも背が高かった。

 トレイを持ったウェイターが、困った顔をして佐塚の後ろに控えていた。

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