きさらぎに逃げる

 来週はバレンタインデーだ。

 逃げたい、とつぶやくと、それを聞き咎めたらしいサッカが、すかさず寄ってくる。お風呂上がりでパジャマを着たサッカの身体はほんのり温かかった。背中に押しつけられた胸がやわらかい。伸ばしかけの髪から水滴が滴り落ちて、わたしの肩を濡らしていく。パジャマが濡れるのが嫌で、サッカの体を後ろに押し退けると、大人しくわたしから離れた。

 後ろを振り向くと、サッカが濡れた髪にタオルを被って、何やら不満そうに唇を尖らせている。

「……とりえあず、髪を拭きなさいな」

「繭がやって」

 何故か拗ねた調子でサッカがそう言う。その調子を不思議に思いながら、わたしはサッカの頭の上にのっているタオルへ手を伸ばす。タオルはもういくぶんか湿っているけれども、とりあえず髪を拭くには事足りそうだった。指を立てて、わしゃわしゃとタオルを動かす。タオルの生地でサッカの髪を挟んでぽんぽんと叩く。サッカが去年から伸ばし始めた髪は、ようやく鎖骨に届くほどになった。もう十分に長いと思うのだけど、サッカはまだ髪を伸ばす気らしい。それはそれできっと似合うと思うけれども、こうして迷惑をかけられるのは、少し、いやだいぶ、いただけない。

 タオルをとりはらって、サッカの髪に触れてみる。まだ湿っているけれど、水を含んでいるという程でもない。これなら、のしかかられても水滴の被害を受けることもないだろう。タオルをサッカの頭の上へ戻してやる。

「もういいよ」

「うん、ありがとう。回れ右して」

 言いながら、サッカはわたしの両肩に手を置いて、無理矢理回れ右をさせようとする。そんなことしなくても、はじめからちゃんと背中を向けてあげるつもりだったのに、本当に何を拗ねているんだか。不思議に思いながら、床に手を付いて回れ右、こたつに足を潜り込ませると、机の上にスケジュール帳が開いて置いてある。開いた頁の真ん中辺りに燦然と輝く「バレンタインデー」の文字。逃げたい、改めてそう思う。

 サッカがさっきと同じように、わたしの背中にのしかかってくる。温かなおもみと石鹸のにおい。胸の前に伸びてきた手が、机の上のスケジュール帳に書かれた文字をなぞった。

「繭は、バレンタインデーが苦手ですか」

「そうですね、あまり得意ではないです」

 敬語で尋ねられるものだから、敬語で返事をしてしまう。その声もやっぱり拗ねているようだった。拗ねている、しょげている、しょんぼりしている、元気がない。それだけじゃなくて不満げでもある。

「義理チョコにお金がかかる」

「義理」

「うん。職場に撒くの。若手が買いに行くから、今年はわたしが担当だけど、甘いの苦手な人間には拷問にも等しい」

 思わずため息も出るというものだ。あの、チョコレート売り場のにおい。はじめは良いけれど、だんだんと頭痛がしてくる。だれだ、バレンタインデーにはチョコレート、なんて言い出したやつは、と毎年、腹が立ってくる。

 ふたたびのため息と同時に、サッカがわたしの項へ、自分の鼻を擦りつけてくる。甘えているときの仕草だ。そう頻繁ではないけれど、時折ある仕草。本人に、そういうときにしているという自覚があるかは、分からない。

「そうですか」

「そうなんですよ。……サッカ、くすぐったいからそこから顔退けて」

「いや」

 わたしの項へ鼻を押しつけたまま、サッカは首を横へ振ったらしい。鼻だけでなく髪まであたって、くすぐったさがいっそう増す。腕をふりあげて離れてしまいたいところだけれど、サッカの腕がそれを許してくれそうになかったし、何より、そろそろ眠たくなってきた。無駄な体力を使うのも面倒だ。くすぐったさはあきらめて、サッカの好きにさせておくことにする。

 後ろに手をやって、タオルを被ったままのサッカの頭を撫でてやれば、少しは気も収まったようで、首を振る動きはおさまった。しかし、拗ねた原因は分からない。ため息をこらえて、そういえば、と思い出したことを聞くのに、口を開く。

「サッカは」

「はい」

「どんなチョコレートが好き?」

「……バレンタインデーにもらえるなら、手作りが良い。手作りならなんでもいい」

「そうか……だったら、ちょっと週末まで待ってね。当日には時間とれそうにないから」

 ぽんぽんと、頭をかるく叩いてやる。ちょっとの沈黙の後、わたしの手を退かす勢いで、サッカは体を起こした。「えっ」と、驚いたような声がした。

「チョコくれるの」

「お菓子作り慣れてないから、失敗したらごめんね。簡単なレシピにするけど」

 レシピが簡単だからといって、初心者が失敗しないという謂われはない。結局のところ料理もある程度の慣れが必要で、同じ説明を見て違う出来になるというのは、そのせいだと思うのだ。そしてわたしは壊滅的に、お菓子作りというものになれていない。成功するかどうかは相当に怪しかった。

 はじめからある程度そうするつもりの覚悟は決めていたが、先行き不透明なことを改めて確認して、道のりの険しさに自分の表情が険しくなるのが分かる。しかし、サッカがまた勢い良く、後ろから抱きついてきたので、出そうになったため息が引っ込んだ。

「大丈夫、失敗しても気にしない。なんなら板チョコでも良いよ」

「それは手作りとは言わない……機嫌、治った?」

「何のこと?」

 ぎゅっと腕に力を込めるサッカは、わたしの問いかけに本当に不思議そうに尋ねてくる。その声に、さっきまでの拗ねた調子はどこへやら、翳りは一切感じられずに、逆に、軽すぎて浮かび上がってしまいそうなぐらい、明るく、気分良さそうな様子だった。

 不思議に思うのはこっちだ、と言いたくなるような急な変化だったが、サッカ本人に自覚がなかったのなら、何を聞いたって無駄だろう。それに、いま機嫌が良いのなら、別に何だって良い。つられてわたしの気分まで良くなりそうだ。いや、もうすでに良くなっているのかもしれない。

 サッカが、わたしの背中で鼻歌を歌い出す。でたらめな音程の鼻歌がおかしくて、おかしくて、こらえようとしても口からは、くすりと笑みがこぼれた。

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