第31話 聖女のおねがい

 茨の城が建つ小高い丘から旧市街へ降りていくと、いつもとは違った場所に様変わりしていた。

 そこかしこに大小さまざまなベル型のテントが並び、狭い通路を縫うように人々が楽しげに歩いている。

 昨日までは穏やかで物静かな時が流れる場所だったはずだが、気温が五度くらい上昇しているような錯覚を抱くくらい、活気に満ちていた。


 歩いている人々も、いつもとは違う格好をしている。

 基本色を踏まえつつ、民族衣装を思わせるような凝った刺繍が施された服をみな着ているのだ。

 そして驚くべきことに、ほとんどの人々が黒薔薇のコサージュをつけていた。


「これは一体……」


 新市街の市場マーケットを丸ごと移動させたようなにぎわいに、リリアーナは目をまん丸にして驚く。

 その隣で、いたずらが成功した子どもみたいな顔で、ハリーがニヤッと笑った。


「驚いただろう?」


「ええ……でも、どうして?」


 リリアーナが最初に思ったのは、こんなに騒いで大丈夫なの? だった。


 シュタッヘルでは、竜に狙われないように屋外では静かに過ごすのが常識だ。

 音楽を流す際は魔法石によって防音、子どもがいる家庭には必ず一つは防音用の魔法石が配布されているのである。


 ハリーがリリアーナの質問に答えるよりも前に、リリアーナの意識は旧市街へと向く。

 だって、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。


(蚤の市よりもずっとにぎやか……!)


 リリアーナは目を輝かせて周囲を見回した。

 彼女は一度だって行ったことがなかったけれど、これはお祭りというイベントによく似ている。


 どこからともなく聞こえてくる、ステップを踏みたくなるような軽快な音楽。威勢のいい呼び声と、おいしそうな匂い。

 さまざまなものが、あふれていた。


(わたしも混ざりたい)


 人々の熱気に当てられたかのように、リリアーナは思った。

 早く早くと両親を急かす子どもを目にしなかったら、フラフラと行っていたかもしれない。


「実は今日は、竜の休息日という日なのだ。理由は定かではないが、すべての竜が寝坊をする日らしい。竜が起き出す午後になるまでの短い時間、シュタッヘルでは祭りが開かれる。それがこの、黒薔薇祭というわけだ」


「そうなのですか」


 なるほど、それで人々は恐れることなく騒いでいられるらしい。

 理由を知ったリリアーナは、ホッと息を吐いた。

 それは、無意識のうちに彼女が「黒薔薇の聖女がいるから大丈夫だと高を括られていたらどうしよう」と考えていたからだったが、紳士が淑女をダンスへ誘うかのようにハリーの手が差し出されて、驚きとときめきで吹っ飛んだ。


 戸惑ったのは一瞬だった。

 新たにやってきた人の波に押される形で、リリアーナはたたらを踏んでしまう。


「ひゃっ」


「危ないっ」


 ハリーはそんな彼女を引き寄せると、人の波から守るように腕の中に閉じ込めた。


「大丈夫か?」


 心配そうなハリーに、リリアーナはコクリと頷くだけで精一杯だった。

 彼の腕の中は、あたかかくて爽やかな匂いがする。


 かすかに混じる薔薇の香りは、胸につけたコサージュだろう。

 彼はリリアーナが最初に作った試作品を、まるで勲章かのようにつけてくれていた。


「ふむ。どうやら奥の広場で催しものがあるらしい。それで流れが急になったのだろう」


「催しものですか?」


「ああ、いろいろ用意してあるようだぞ。時間ごとにプログラムが決まっていて、最後はダンスで締めくくるそうだ」


「ダンスで……」


 残念ながら、リリアーナは参加できそうにない。

 ないない尽くしの令嬢である彼女は、「習っても無駄だから恥をかかないように」という両親の配慮により、ダンスを習ったことがなかった。


 肩を落とすリリアーナ。

 躍る相手以前の問題にしょんぼりしていたのだが、ハリーは思い至らなかったらしい。

 人混みから離れてベンチへ腰掛けたあと、ハリーは言った。


「安心してくれ。絶対に、勘違いなんてさせないから。だからその……俺をダンスのパートナーにしてくれないか?」


「え、勘違い?」


 ハリーは何を言っているのだろう。

 リリアーナは一瞬不思議に思ったものの、そういえば恋人だと勘違いされる恐れがあるのだと言っていたことを思い出す。

 しかし、躍ることと恋人と勘違いされることが結び付かず、リリアーナは困ったように眉を寄せた。


「ああ。『黒薔薇祭のダンスを踊りきった独身の男女は恋人同士になる運命』なんていうジンクスがあるそうだが、あくまでジンクスだ。俺は信じないし、リリアーナも信じることはない。だから、相手が決まっていないのなら、俺とチャレンジしてみないか?」


「えっと……」


 リリアーナが言い淀むと、ハリーの目には悲しみの色が浮かんだ。

 当惑しきった顔つきで、彼はリリアーナを見つめる。


「俺では、駄目か? もしや、ノヴァと約束しているとか?」


「いえ、ノヴァとは約束していませんけれど」


 リリアーナに相手がいないとわかると、ハリーはパッと表情を明るくさせた。


「じゃあ」


「……駄目なんです」


 再度断ると、ハリーは萎れた花のようにシュンと表情を枯れさせた。


「そうか、俺では駄目か」


 ポソリとつぶやく声には生気がなく、この世の終わりかのような響きをしている。

 リリアーナはすぐに「ちがいます」と答えた。


「ハリー様がいけないわけではありません。問題はわたしにあって……。実はわたし、ダンスを習ったことがないのです」


「習ったことが、ない」


 リリアーナの告白を、ハリーは噛み締めるように反芻した。

 チラリと視線を上げた瞬間に見えた、ハリーの燃えるような怒りの目に、リリアーナはビクンと肩を揺らす。

 リリアーナが基本的なステップすら知らないと告白すると、彼の目は、底なしの穴のように黒くなった。


「ああ、すまない。ソワレ侯爵夫妻があまりにも非常識でな。彼らは他にも、」


 それ以上は過ぎると思ったのか、ハリーは口を閉ざした。

 リリアーナも、ハリーが何を言いかけたのかわかる気がしていたから、何も言わずに苦笑いだけを返す。


 もういいやと捨ててきた人たちだから、今はもう、本当にどうでもよかった。

 それよりも目の前の人を──ハリーを大事にすることの方が、リリアーナにとっては大切だ。


(踊りたいって言っているのだもの。歩み寄りは、大事よね?)


 二人の間に流れ出した澱んだ空気を洗い流すように、リリアーナはにっこりと微笑んだ。

 出会ったときより何倍も魅力的になった、花のような笑みに、ハリーは息を飲む。


「ですから、ハリー様。お祭りの終わりまでまだ時間はありますし……教えていただいてもよろしいでしょうか?」


「もちろんだ!」


 リリアーナのお願いに、ハリーは何度も何度も頷いた。

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