第30話 ワクワクする朝

 その日は朝から、茨の城の外が騒々しかった。

 悪い意味ではない。むしろ良い意味で、心躍るようなにぎやかな雰囲気が、城まで届いていた。


 おりしもその日はハリーとデートの約束をしている日で。

 雰囲気に飲まれたのか、リリアーナはワクワクした気持ちで目を覚ました。


 ベッドを降りたリリアーナは、ペタペタと素足で歩き、カーテンを開ける。

 広い空に、放牧されている羊のような、あるいは魚の鱗のような雲が見えた。


「明日は雨かしら。でも今日は晴れてよかった」


 窓から離れたリリアーナは、クローゼットへ歩いていった。

 本当の恋人ではないのだから着飾る必要なんてないのだけれど、これが生まれて初めてのデートだと思うと、少しくらい気合を入れたってバチは当たらないのではないかと思う。


 さんざん悩んだ末に、リリアーナはハリーの目の色を思い起こさせる黒地に銀の刺繍が施されたワンピースを着て、黒薔薇のコサージュとレースのリボンで髪を飾った。

 鏡の前でクルリと回ると、ふだんより少しだけ大人びた顔をした自分と目が合う。


「大丈夫。いつもよりずっとすてきよ」


 隣を歩くだろうハリーに合わせて、もうちょっとだけ背伸びをしたくなったリリアーナは、以前コサージュのお礼にとプレゼントされたリップを唇へ乗せた。

 それはほんのりと色をつけただけだったけれど、リリアーナは出来栄えに大満足だった。


 足取りも軽くダイニングルームへ向かうと、キッチンにハリーの背中を見つける。


「おはようございます、ハリー様」


 いつもより数倍は元気の良い声が出て、リリアーナの頰が赤らむ。

 まるでデートをすごく楽しみにしているみたいで、恥ずかしかった。


「おはよう、リリアーナ」


 振り返ったハリーは、リリアーナを見るなり停止した。

 リリアーナを見る瞬間までは、露草を思わせる清楚な微笑みが浮かんでいたのに、見た瞬間にごっそりと抜け落ちる。

 ぴしりと直立したまま、ハリーは険しい表情でリリアーナを見つめた。


 ハリーは、リリアーナの愛らしい格好に見惚れ、顔面の崩壊をなんとか食い止めていた。

 内心では女神リリアーナをたたえる会が開催されていたが、もちろんリリアーナが知る由はない。


(おかしいかな? わたしはかわいいと思うのだけれど)


 不安に思って、リリアーナは自分の格好を見下ろした。

 鏡で見た時はすてきに思えていたのに、ハリーが気に入っていないというだけで色褪せて見えてくるから不思議である。


「あの、ハリー様?」


「……」


 ハリーは黙ったまま、口を開く様子もない。

 リリアーナなりになんとかしようと声をかけるも、ハリーはうんともすんとも言わなかった。


「もしかして、この態度が答えなのでしょうか。見るに耐えない、格好だと……」


 しょんぼりと、落胆の色がにじむ声でリリアーナがつぶやいた、その時だった。


「そんなわけ、ない!」


「ひゃあっ」


 突然大きな声を出されて、リリアーナは飛び上がった。

 ビクビクと子ウサギのように震えるリリアーナを見て、ハリーはヒュッと息を飲む。


「……大きな声を出してすまない」


「いえ……大丈夫です」


 きっとこの後は、遠回しにお叱りを受けるのだろう。

 初デートだからって調子に乗りすぎた。やっぱりいつもの格好にするべきだったのだ。

 反省するリリアーナだったが、直後とんでもないせりふを聞いて、素っ頓狂な声を上げた。


「つい、掻っ攫いそうになった……」


「へ⁉︎ 今、なんと?」


「いや、リリアーナがあまりにも綺麗で、ついうっかり」


 リリアーナの聞き間違いでなければ、ハリーは見惚れてくれたらしい。


(まさか、そんなことってある⁉︎)


 社交辞令とはとても思えない真剣なコメントを反すうして、リリアーナは首まで真っ赤になった。


「今日は化粧もしているのだな。大人っぽいリリアーナも、すてきだ」


「はわわわわ!」


 これ以上聞いていられなくて、リリアーナはハリーのそばへ走り寄ると、彼の口をふさいだ。

 かすかに感じる吐息がくすぐったいし、近すぎる距離に心臓が早鐘を打っているが、背に腹は代えられない。


 ハリーの口をふさいだまま、スーハースーハーと深呼吸すること数回。

 ようやくまともに話せるようになったリリアーナは、おずおずと──それでもやっぱり視線を合わせるのは無理があったが──ハリーへ言った。


「ハリー様。今から手を離しますけれど、褒めたりしないでくださいね? これ以上褒められたらわたし、恥ずかしくて死んでしまうかもしれません。だからどうか、ご協力お願いします」


 恥を忍んで頼むと、ハリーは「わかった」と言うようにゆっくりとまばたきを一つした。

 背伸びをし続けるのも限界だ。

 そろりと手を離しながら踵を下ろすと、足がビリビリした。


 リリアーナの足が痺れてしまったことに気がついたのだろう。

 ハリーは「ちょっとだけ我慢してくれ」と声をかけると、リリアーナを抱き上げた。


 羽化前とは随分と太さが違うのに、リリアーナを抱える腕は安定している。

 どうしてなのだろうと、どうでもいいようなことを考えてしまうリリアーナは、恥ずかしさから逃げたい一心だったに違いない。


 リリアーナをダイニングチェアに下ろしたハリーは、手早く朝食の準備を済ませた。

 バゲットにハムとチーズ、サラダを挟んだサンドイッチ。みずみずしい果物。そして、木製のスープボウルにはキノコのポタージュ。


 バゲットのサンドイッチはもちろん、しっとりとなじんでいた。

 料理上手な彼のことだ。早朝からしっかり準備してくれていたに違いない。


 先ほど褒められた仕返しとばかりに、リリアーナは持てる語彙ごいを総動員して朝食を褒め称えたのだった。

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