第10話 聖女と騎士の旅立ち

「ハリー、元気でな〜!」


「副隊長のメシ、食えなくなるの寂しいっす!」


「副隊長、今までありがとうございました!」


 近衛騎士団第二小隊の隊長を筆頭に、合宿へ参加していたすべての騎士が勢揃いしていた。

 黒薔薇ローズノワールの聖女の同行者に選ばれ、騎士団を去ることになったハリーへ、彼らは次々に別れの言葉をかける。


「みんな、今までありがとう」


 ルアネの頼みとはいえ、慕われているハリーを彼らから引き離すことになって、リリアーナは心苦しい。

 うつむく彼女を乗せた馬車は、騎士たちの最敬礼に見送られながら出発した。


 それから、どれくらい経っただろうか。

 やがて馬車は街を抜け、ゴトゴトと微かに揺れながら街道を走り始める。

 揺れる音に混じって聞こえてきたコツコツと窓をたたく音に、リリアーナは顔を上げた。


 窓を開けたリリアーナの目に入ってきたのは、仮面。

 馬車の隣を、馬に乗ったハリーが並走していた。


 今日の彼は、近衛騎士の服を着て、口から上を覆い隠す半顔の仮面を被っている。

 茶色の毛が生えた仮面は、丸い耳付き。テディベアのような愛らしいものではなく、本物の熊の頭を仮面に写し取ったかのようなデザインだ。


 今にも襲いかかってきそうな怖い顔をした仮面は、直視しづらい。

 けれど、ハリーの太い首と立派な体格には、よく似合っていた。


「申し訳ございません、黒薔薇の聖女様。もしかして、寝ていましたか? 朝から騒がしくてあいさつもできなかったので、今のうちに話を、と思ったのですが」


 昨日会った時はこんな話し方をする人ではなかったのに、とリリアーナは残念に思った。

 仮面といい話し方といい、昨日とは別人のようだ。


(もしかしたら、本当に別人なのかも。わたしに同行したくなくて、代わりを立てたって不思議じゃないもの)


 宰相ならば、やりかねない。

 うわさに聞く宰相は、それはもう過剰なまでに、ハリーのことを溺愛しているようだから。


 たとえ彼がハリーでなかったとしても、リリアーナに責めるつもりなんて毛頭ない。

 逃げ出したいなら逃げていいし、行く場所がないなら見つかるまでいればいい。


 目の前にいる人が本物ハリーだとしても、同じこと。

 ただ少し、話し方だけは、昨日みたいにしてほしいと思うけれど。


「いえ、寝ていません。大丈夫です」


「そうですか。では、少々付き合っていただいても構いませんか?」


 リリアーナがコクリと頷くと、ハリーの唇がニッと笑みを刻んだ。

 彼が昨夜のハリーなのだとしたら、仮面の向こうはクシャッとなっているのだろう。不器用な微笑みを思い出して、リリアーナは惜しい気持ちになった。


(目の前にいる彼が、ハリー・エドランド様なのだとしたら……わたしの前では、気兼ねしないで素顔を見せてほしいな)


 隠し続けるのは、大変だろう。

 みんなはどうだか知らないが、リリアーナは平気なのだから、仮面なんていらないと思う。


(それに……どうやら彼は、わたしのことが気に入らないようだったし)


 昨夜のハリーは終始不機嫌で、だからこそ、今の彼の礼儀正しさが大人の対応のように思えてならない。


(手を振りかえしてくれた時は、驚いたわ。たぶん、基本は優しい人なのね。わたしみたいな者も、放っておけない……)


 気に入らない相手に対して、わざわざ気を遣う必要もないだろう。

 だからやっぱり、ハリーに仮面は必要がないのだ。


(それに……)


 世間では【毛虫の騎士】なんて呼ばれているハリーだが、リリアーナの目には優秀な騎士にしか見えない。

 宝石街灯に照らされた黒の目は、星が瞬く夜空のように綺麗だったし、こうして陽の光のもとで改めて見てみても、誠実そうに凛としていた。


 どうして素顔を隠す必要があるのか、リリアーナはまるでわからなかった。

 容姿ですべてが決まる世界なら、おぞましい笑顔でリリアーナのものを燃やしていた人たちに、侯爵位が得られるはずもない。


 ハリーは、周りが怯えるから仮面をつけるのだと言っていたけれど、素顔よりも熊の仮面の方がよほど怖い顔をしていた。


(わたしがサティーナ様のような……完璧な令嬢だったら、納得できたのかな)


 きっとリリアーナが、ないない尽くしの令嬢だからわからないのだろう。

 サティーナのようなすべてにおいて完璧な令嬢や、由緒正しい侯爵令息であるハリーからしてみれば、必要なことなのだ。

 なにせ貴族には、地位に見合ったふさわしい美貌と、品格と、教養が必要らしいから。


「改めて……俺の名は、ハリー・エドランド。エドランド侯爵家の三男で、もうすぐ退職するが、近衛騎士団第二小隊の副隊長をしている。どうぞ、よろしく」


 退職。

 短いが、重みのある言葉がリリアーナの背中にずんとのしかかる。


 なんでも自分のせいのように思って抱え込んでしまうのは、リリアーナの悪い癖だ。

 サティーナから何度も注意されているのに、直るどころか年々悪化してきている。


 苦い気持ちを隠すように、リリアーナは笑みを浮かべて言った。


「こちらこそ。どうぞよろしくお願いします、エドランド様」


「エドランド、か……」


 ハリーのつぶやきは、どこか不満そうだった。

 事情はわからないけれど、どうやら彼はリリアーナに、エドランドと呼んでほしくないようだ。


(無理もないわ。エドランド家は代々宰相をつとめる家だもの。わたしなんかが気軽に呼べるような、お名前ではないのよ)


 何かを思案するように、ハリーは小さく息を吐いて黙り込んだ。

 恐れ多いと、貴族らしく遠回しな物言いで注意されるのだろうか。


 リリアーナは、言葉の裏を読むことが苦手だ。

 頭の中が不安でいっぱいになり、リリアーナは助けを求めるように、おずおずと彼の名前を呼んだ。


「……ハリー、副隊長様?」


「ああ、いや、その……そうでは、なくて……」


 ハリーの視線が泳ぐ。

 歯切れの悪いセリフをぶつぶつとつぶやいているが、彼はどうしてしまったのだろう。

 よくわからないまま、リリアーナは困った顔で首をかしげる。


 どこからともなく「プッ」と吹き出すような声が聞こえたけれど、きっと気のせいだろう。

 任務中の騎士たちが、笑うなんて。そんな警戒を怠っているような行為を、するわけがない。


「くそっ……かわいいな……んんっ」


 リリアーナの意識が逸れたのと、ハリーが呟いたのは同じタイミングだった。

 無意識に発せられたのだろう。つぶやかれた独り言は、判然としない。


 思わず口から出てしまったかのような気まずい雰囲気のせいで聞き返すのもはばかられ、リリアーナは様子をうかがうようにチラリとハリーを盗み見る。

 目に入った首は、なぜか赤らんでいた。


(大丈夫なのかな……?)


 だって、今日も外はこんなに暑い。

 仮面なんてつけていたら、倒れてしまうかもしれない。


(やっぱり仮面を外してもらおう。倒れてしまったら元も子もないし……)


 そう思ってリリアーナが口を開いたのと同じタイミングで、ハリーが「あの!」と声を発した。

 切羽詰まった、懇願するような弱々しい声音に、言おうとしていた言葉がヒュッと喉の奥へ消えていく。


「家族は俺のことを、ハリーと呼びます。長い付き合いになるのですから、あなたもそう呼んでください」


 ハリーは早口で、ボソボソと言った。

 恥ずかしがっているようにも、あるいは突き放そうとしているようにも聞こえるぶっきらぼうな物言いは、昨夜の彼に通じるものがある。


 リリアーナは、気取った喋り方よりこちらの喋り方のほうが好きだと思った。


「ハリー様……?」


「ああ、それがいい」


 ちょっと歪な唇が、やわらかく緩む。

 それがいいという声は甘く、どこか誇らしげに感じたのはリリアーナの気のせいだろうか。


「では、ハリー様。わたしのことはどうか、リリアーナとお呼びください。敬語も不要です。昨日と同じように話してくれた方が、わたしは嬉しい、です」


「じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらおう。それで、今後の予定なのだが──」


 こうして、リリアーナの旅は始まった。

 茨の城からもっとも近い、街道の最終地であるシュタッヘルまで約ひと月。

 騎士たちが護衛してくれるのはそこまでで、そこから先はリリアーナとハリーの二人で移動することになっている。


 それが、代々伝わる黒薔薇の聖女にまつわる決まりだから。


(仕方ない、仕方ない、のだけれど)


 リリアーナには一つだけ、心配な事がある。

 茨の城がある場所の目と鼻の先に、竜たちが暮らす山があるのだ。

 時折、城の屋根で子竜が羽を休めることもあると言う。


 黒薔薇の聖女たちは竜たちを巧みに御していたそうだが、果たしてリリアーナにそんな大それたことができるのかどうか。

 不安がるリリアーナの心配をよそに、旅は順調に進んだのだった。

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