第9話 聖女のうわさ
「たしかおまえ、
部屋へ戻るなりソファへ寝転び、リュディガーは「だから一人で酒飲みに行ったんだけど」と不満そうに言った。
彼が不機嫌なのは、酒を出してもらう前か、あるいはそのあとに一悶着あったせいだろう。
どうしたって少女にしか見えない顔立ちは、いつだって彼を大人の男性と認識させない。ハリーが一緒であれば近衛騎士団第二小隊の隊長だとわかってもらえるが、そうでない時は大抵、問題が起きるのだ。
(酒の匂いがするから、とりあえず提供はしてもらえたようだが……絡まれるということは何かあったのだろうな)
酔っ払いに子ども扱いされたか。あるいは、女性と勘違いされてナンパされたか。
どちらにせよ、リュディガーの機嫌が悪くなるのには十分な理由である。
水差しを持ってきてコップへ注いでやりながら、ハリーはリリアーナ・ソワレとの出会いについてかいつまんで話した。
黒薔薇の聖女の同行者に選ばれたことは、すでにリュディガーへ話してある。
茨の城へ護送したあと、近衛騎士団を辞することもだ。
「なるほど、そんなことがあったのか」
水を飲んで幾分か酔いが覚めたのか、とろんとしていたリュディガーの目に正気が戻ってくる。
座り直して足を組んだ彼は、何かを思い起こすように顎をさすった。
「リリアーナ・ソワレ。
リュディガーの言葉に、ハリーは瞠目した。
「紫薔薇の聖女の、妹だって?」
名乗られていたにも関わらず、ハリーはリリアーナとサティーナが姉妹であることに思い至らなかった。
結びつかないくらい二人が似ていないせいもあるだろうが、サティーナとは、初めて護衛して以来露骨に嫌みを言われるほど嫌われているため、無意識に避けたのかもしれない。
「彼女のことを、知っているのか?」
「知っているもなにも、有名じゃないか。彼女のことは、誰も何も知らない。生まれてこの方一度だって屋敷を出たことがない、筋金入りの
「一度もって……大袈裟に言っているのではなく?」
「大袈裟なものか。健康に問題がない十六歳の侯爵令嬢が、茶会も舞踏会も街にも出たことがないだなんて、ふつうならあり得ない」
そうだろうとも。だからこそ、ハリーは信じられなかった。
十六歳の、それも侯爵令嬢ともなれば、茶会に舞踏会にショッピングにと、外出する理由はごまんとある。
花の聖女たちを守る騎士であるハリーは、よく知っていた。
「人は、隠されれば隠されるほど暴きたくなるものだ。どこぞの貴族の坊ちゃんが調べたが、とうとう外出する彼女を見ることはなかった」
「たまたまでは……?」
「サティーナ嬢曰く、リリアーナ嬢はないない尽くしの妹なのだとか。侯爵家にふさわしい美貌も品格も教養も、誇れるものはなに一つ持っていない。恥ずかしすぎて外へ出せないし、本人もそれを自覚しているから出ることはないのだと、サティーナ嬢だけでなくソワレ侯爵夫妻も言っていたぞ」
思い返せば、つい先程見送ったばかりのリリアーナは、令嬢というより町娘と言われた方がしっくりする質素な身なりをしていた。
見かけるたびに王宮の舞踏会へ行くような煌びやかな格好をしているサティーナとは、雲泥の差である。
(なんて愚鈍なのだ、俺は!)
気づかない自分に、腹が立つ。
リリアーナは今まで、どんな扱いを受けてきたのだろう。
屋敷の中に閉じ込められ、着飾ることも外出する楽しみも知らず。ふつうの令嬢なら誰もが与えられるものを、彼女は知らない。
ハリーはリリアーナの令嬢らしからぬ気安さに好感を抱いていたが、おそらくは勉強をさせてもらえなかったせいだろう。
虐待の疑いがある、と。
ルアネの言葉を甘く考えていたと、ハリーは恥じた。
「下衆が」
ハリーから発せられた怒気に、リュディガーの背が戦慄く。
一瞬剣を構えそうになったものの、そこは隊長らしく弁えた。
「ハァ……俺は聞いたことをそのまま言っただけだ。殺気立った目でにらむんじゃない。俺じゃなかったら失神しているところだぞ」
「すまない……」
ぶっきらぼうに謝るハリーに、リュディガーは呆れ顔だ。
「いいけどさ。しっかしおまえ、チョロすぎやしないか? 初めて怖がられなかったからって、気を許しすぎ。いや、懐きすぎと言うべきか?」
自覚がないわけでもなかったから、ハリーは黙るしかなかった。
どっと疲れを感じて、ションボリとリュディガーの向かいにあるソファへ座り込む。
「相手は黒薔薇の聖女様なんだぞ? 祝福の効果、知らないわけじゃないだろう」
「わかっているが、しかしだな……」
「だめだめ、絶対わかってないだろ」
「わかっている」
「わかってないね。だって今のおまえ、双子のきょうだいが初めて見分けてくれた人にうっかり恋に落ちたみたいな顔をしているし」
言い得て妙な例えだ。
当たらずとも遠からず、限りなく近い気持ちがハリーの胸にある。
息苦しさを覚えて、水差しへ手を伸ばした。
コップはないから、じかに口をつける。
飲んだ水はぬるく、ハリーの心を落ち着けるには至らない。
観念したように前屈みになって膝の上で両手を組むと、手の甲へ顎を乗せた。
聴衆を前にした探偵が推理を語るかのように、厳かにハリーは言った。
「恋ではないと思う。まだ」
「まだって保険をかけているあたり、確実にあやしい」
「しかし、俺は同行者だ。彼女を好きになり、仕えることに喜びを感じることは、悪いことではない。はず」
「はずって……隠す気あるの? おまえ」
「わからない。こんなことは初めてだからな。しかし、茨の城へ着いたら存分に甘やかす予定だ。そして、俺なしには生きられなくなればいいと思う」
よく知っていると思っていた部下の、思いもよらなかった暗黒面を垣間見て、リュディガーの唇の端がひきつる。
今ならまだ訂正可能だろうか?
こういう話は苦手だろうと思って避けてきた、その弊害が今、リュディガーの前に立ちふさがっている。
「それはちょっと、どうかと思う。煩悩爆発して襲う可能性も捨てきれない」
「大丈夫だ、その時は祝福してもらう!」
拳を握って堂々と言い放った部下の頭を、リュディガーは容赦なく蹴った。
殴るなんて生ぬるい。これでも足りないくらいだ。
「大丈夫じゃねぇ。ちっとも、大丈夫じゃねぇ! ああ、やだー。初恋拗らせ男、ここに爆誕……! たった数時間で、うちの副隊長を狂わせるなんて、リリアーナ嬢はとんでもない悪女だな」
「悪女じゃない。聖女様だ」
椅子から吹っ飛んだハリーが、ムクリと起き上がってくる。
その目はどこからどう見ても恋する男そのもので、リュディガーは「あーあ」と宙を仰いだのだった。
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