第8話 騎士の戸惑い

 近衛騎士団第二小隊が滞在している、宿舎の前。

 ハリーを下ろした馬車が、ゆっくりと走り出す。

 窓から顔を出した少女は、


「では……」


 と口元に控えめな笑みを浮かべて、小さく手を振った。


 ハリーは初対面の人──それも女性に!──笑顔を向けられるのなんて、初めてのことだった。

 怯え、悲鳴を上げられ、逃げられることには慣れていても、笑顔を向けられることになんて慣れていない。

 少女の愛らしい笑顔に、ハリーはくすぐったい気持ちになった。


 鼻の頭に蝶が止まったような、ホワホワと夢を見ているような心地だ。

 手を振るなんて久しくしていなかったハリーは、つられるように緩く持ち上げた手で、ぎこちなく振り返す。


 彼の唇は、痙攣したようにモニョモニョ動いていた。

 おそらくは、笑っていたのだ。あまりに醜くて、ふつうの人にはわからないくらいだったけれど。


 リリアーナがハリーの笑顔に気がついたかはわからない。

 けれどハリーの顔を見た彼女は驚いたように目を見開いて──でも嫌悪感は微塵も見られなかった──それからふわりと目を細めた。


 また、明日。

 ハリーはたしかに、彼女がそう言ったような気がした。


「……ふぅ」


 馬車が見えなくなってようやく、ハリーは息を吐いた。

 知らず、息をすることさえ忘れていたらしい。


「リリアーナ・ソワレ……黒薔薇ローズノワールの聖女、か……」


 つぶやく声は、熱を帯びていた。

 興奮冷めやらぬ、とはこのことを言うのだろう。


「なにが、黒薔薇の魔女だ。どんな聖女よりも聖女らしい方ではないか」


 口にすれば、ますます確信が深まる。

 やはり、カレンデュラの聖女から聞いた話の方が正しかったのだ。


 少しでも疑ってしまって、リリアーナには申し訳ないことをした。

 神官たちは当てにならないと、ハリーは鼻筋に皺を寄せる。


 神殿から、


『黒薔薇の魔女が誕生したので、茨の城まで護衛するように』


 と連絡がきたのは、昼前のこと。


 神官たちはドラゴン討伐を依頼する時のような仰々しい書簡で、近衛騎士団第二小隊へ一人の少女の護衛を依頼してきた。

 書簡には、『最高難度の仕事だから気を引き締めるように。失敗すれば黒薔薇の魔女から祝福を受けることになるぞ』と脅し文句まで書いてあったという。


 神殿からの使者を丁重に見送ったあと、今度は以前から相談に乗ってもらっていたカレンデュラの聖女──ルアネからハリー個人へ、虐待の疑いがある令嬢の面倒をしばらく見てほしいと依頼がきた。

 黒薔薇の聖女となった彼女を、家族が操作する可能性がなきにしもあらず。可能な限り接触を防ぎ、遠い地へ送られる彼女を助けてやってほしい、とのことだった。


 なるほど、この任務は他の誰よりもハリーが適している。

 ハリーならば、騎士としても従者としても、臨機応変に対応することができる。

 なにより彼は、王都から離れたがっていた。


 ルアネからの手紙には、リリアーナのことをよく見るようにとも書かれていた。

 黒薔薇の祝福へ注意を促しているようにとも取れるが、虐待の疑いがある令嬢だから気をつけて接するよう伝えているようにも取れる。


 どちらにせよ、ハリーはハリーにできることを精一杯やるだけだ。

 それに彼には、どんな要求にも応えられる自信があった。


「しかし……まさか、こんなに早く実現するとは。ルアネ様には感謝しかないな」


 わずらわしい貴族同士のやりとりに、辟易していたところだった。

 もう限界だと思っていた矢先のことで、知らせを受けた時のハリーは、小さくガッツポーズしたのだった。


 近衛騎士団第二小隊は、それなりに数が多い騎士の中でも腕の立つ者が配属されるエリート集団である。

 ブルームガルテン国において、花の聖女が他国へ連れ攫われることはもっとも憂慮されることであり、実のところ、王族を守る第一小隊よりも重要視されている。


 つまり、近衛騎士団第二小隊の副隊長ともなれば、エリート中のエリート。さらに宰相閣下が目に入れても痛くないと豪語するほど溺愛している愛息子とあっては、聖女だって放っておかない。


 実家は侯爵家、両親も兄姉も美男美女揃い。

 期待しない方が無理というものだ。


 ハリーが近衛騎士団第二小隊へ配属された時は、嵐のように指名されまくった。

 護衛の必要がない者──そう、例えばたった一度きりしか使うことを許されていない祝福を持つあの人とか──や護衛が必要だけどハリーの腕ではまだ持て余すような者まで、たくさんの指名をいただいた。


 でもそれは、数日の間だけ。

 彼の顔を見た者は数秒も保たずに「チェンジ」と言い放ち、あっという間に【毛虫の騎士】のうわさは広まった。


(特に紫薔薇ローズヴィヨレットの聖女……彼女は最悪だった)


 それでも、指名がまったくなくなったわけではない。

 侯爵家と縁続きになろうと、ハリーの容姿に頰を引き攣らせながらも取り繕った顔で近づいてくる者が後を絶たなかった。


 でも、わかるのだ。そういう人は。

 無理に平静を装おうとしているのが、ハリーにはわかってしまう。


 幼い頃から、繰り返し見てきた。

 おかげさまで、ささいなしぐさから次の行動を予測できるようになり、優秀な騎士になれたのは幸いだ。


 リリアーナは、怯えを隠そうという躊躇いや同情からくる後ろめたさが一切感じられなかった。

 それが新鮮で、なんとも心地よくて。


 リリアーナは、花畑に吹くやわらかな風のような人だ。

 ハリーのささくれた気持ちを、穏やかにしてくれる。


「もっと一緒にいたかったな」


 会ったばかりの女性にこんな思いを抱くのは、失礼なことだろうか。

 初めてのことにハリーは戸惑い、髪をかき上げる。


「追いかけていって護衛するのはどうだろう?」


 つぶやくと、なんだか良い案のような気がしてきた。

 善は急げと馬を求めて厩舎へ行こうとしたハリーは、振り向きざまに気配を感じて、その場でたたらを踏んだ。

 それからすぐに、馬車が去った道とは別の道から歩いてきた青年が、ハリーを見るなりギャッと、つぶされたカエルの悲鳴のような声を上げた。


「おまえそれ、もしかして笑っているつもりか?」


 酒気を帯びた顔をしかめているのは、近衛騎士団第二小隊の隊長、リュディガー・ハイス。

 薄紅薔薇ローズローズの聖女を母に持ち、その母譲りの愛らしい少女のような顔で、えげつない技を繰り出す騎士だ。

 天使のような微笑みを浮かべた時は要注意。彼は自分の顔の良さを嫌と言うほど理解しており、うっかり見入ればグサリとやられる。それはもう、完膚なきまでに。


 ハリーの素顔を見ても驚かないのは、エドランド家の面々とこの男くらいのものだ。

 自身の顔がコンプレックスだからこそ、彼はハリーを見ても驚かない。むしろ、「その隆起したすばらしい筋肉と顔を交換してくれ」とぐいぐい迫ってくるほどである。


「笑って……? いや、そうかもしれない。そうか、俺は笑っていたのか」


 笑うのはいつぶりだろう。

 手で顔を擦ってみても、よくわからない。けれど、悪い気はしなかった。


「自分が笑っているのかもわからないなんて……おまえ、いくら普段は仮面を被っているからって無精しすぎだぞ。表情筋もちゃんと使ってやれ。他の筋肉はバキバキのくせして、ずるいぞ」


 やれやれと肩をすくめるリュディガーに、ハリーは苦い顔で「わかった」と答えた。

 思いがけず素直に返されて、リュディガーは面食らう。そしてこれはなにかあったに違いないと、いたずらをたくらむ子どものようにニヤリと笑んだ。


「なぁ、ハリー。どうやら俺は、おまえから聞かなくちゃならないことがたくさんあるようだ。ちょっと付き合え」


「いや、遠慮す──」


「──るわけないよなぁ? ハリー。俺とおまえの仲じゃないか。ハッハッハ……上官命令な」


 不穏な声で「上官命令」と言いながら、リュディガーはにっこりと、天使の微笑みを向けてきた。

 天使と書いて悪魔と読む微笑みだ。こうなったら、言うことを聞くしかない。


(どのみち、話すつもりだったしな)


 ハリーは観念したように諦観の息を吐き、とぼとぼとリュディガーのあとをついていったのだった。

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