第5話 カレンデュラの聖女
リリアーナが連れて行かれたのは、治療院のすぐそばにあるルアネの私室のようだった。
決して広くはないが、品の良い家具がちょうど良く並べられている。
「さぁどうぞ、座って」
ルアネに促され、リリアーナはおずおずとソファへ腰を下ろした。
白衣を脱ぎながらルアネは部屋の奥へと向かい、締め切っていた窓を開け放つ。
夏の季節特有のからっとした風が、カーテンを揺らした。
「あの……私、出てきちゃって大丈夫だったのでしょうか? 神官のみなさま、物言いたげにこちらを見ていましたが……」
「構わないわ。私が一緒にいるのだから、文句なんて言わせませんとも」
ルアネはそう言うと、プクッと頰を膨らませた。
祖母くらいの年齢であるはずなのに、その無邪気な様子が可愛らしく見えて、リリアーナは知らずフフッと笑い声を漏らす。
ようやく笑顔を見せてくれたリリアーナに、ルアネはやわらかな微笑みを返した。
「さて、お茶でも淹れましょうかねぇ」
腕まくりをして、お茶の準備を始めたルアネ。手慣れた様子に、のんきに座ったまま見ていたリリアーナは、ポットにお湯を注ぎ終えたところでハッとなって腰を浮かせた。
「て、手伝います!」
「お茶を淹れるのも、気分転換の一環なの。だから、座って待っていてくれると嬉しいわ」
「そう、ですか……」
ルアネの言葉が本音なのか建前なのか、誰ともろくに会話してこなかったリリアーナには、わからなかった。
申し訳なさが拭えず、借りてきた猫のように背中を丸めて小さく座る。といっても、サティーナのように
「さぁ、どうぞ。カレンデュラのハーブティーを淹れてみたの。お口に合えば良いのだけれど」
「……ありがとうございます」
差し出された花柄のカップには、黄金色のお茶が入っていた。
一口飲むと、ふわりと花の香りが広がる。
ホッとする味は、リリアーナのグチャグチャになった気持ちを少しだけ落ち着けてくれるようだった。
「おいしいです」
「良かった」
カレンデュラの花は、感情を鎮静させる作用を持っている。
ショックやトラウマ、怒りなどの強い感情をやわらげてくれるのだ。
ルアネがこのお茶を出してくれたのは、単なる偶然だろうか。
彼女はカレンデュラの聖女だから、いつものことなのかもしれない。
カップに口をつけながらリリアーナがこっそり彼女を盗み見ると、リリアーナの視線に気がついたルアネは、「なぁに?」と言いながらおっとりと目尻の皺を深くした。
リリアーナは途端に恥ずかしくなって、急いでカップへ視線を落とした。
「リリアーナ様」
「は、ひゃい!」
名前を呼ばれ、リリアーナは体を強張らせた。
リリアーナはルアネに、「盗み見なんてはしたない」と叱られるのだと思った。
父のように。母のように。そして、姉のように。
とはいえ、初対面の人に叱られるのは、家族から叱られるよりも怖い。
(何をされるか、わからないもの)
何をされるのかわかっている分、家族からの
カップを置き、身を竦めて沈黙するリリアーナに、しかしルアネは申し訳なさそうに「実は……」と言い出して、それから気配を探るようにドアを──ドアを隔てた向こう側を見るように視線を向けた。
そして、誰も来ないことを確かめたあと、彼女は内緒話をするように小さな声で「実は、」と再び切り出した。
「こんな大変な時に申し訳ないのだけれど、あなたに紹介したい人がいるの」
それはまるで、メイドたちのうわさ話に出てくる【お見合いおばさん】のせりふのようだった。
お見合いおばさんとは、縁談をしつこく勧めてくる世話好きなおばさんを指す言葉らしい。
「紹介したい人、ですか?」
まさか
不思議そうな顔をして停止している彼女に、ルアネは苦笑いを浮かべる。
「そうよね。本当に、こんな時に申し訳ないのだけれど……こんな時だからこそ、紹介したいのよ」
言いながら、ルアネはクッキーをすすめてきた。
数枚のクッキーがのった小さな皿を受け取りながら、リリアーナは戸惑いの表情でルアネを見る。
「はぁ……」
「ああでも、誤解しないでちょうだい。見返りを求めているわけではないの」
「見返り、ですか?」
「そうよ。たとえば、黒薔薇の祝福を使ってほしい、とかね」
ルアネに言われて初めて、リリアーナはそういうお願いもあるのだと理解した。
黒薔薇の祝福を使えば、およそ大抵のことが思い通りになると言われている。
真っ青な顔でブルリと体を震わせたリリアーナにルアネは、
「考えもしなかったという顔ね」
と呆れたように肩を竦めた。
「あなたは……黒薔薇を与えるにはあまりにも……純粋すぎる」
黒薔薇の聖女は、悪女の代名詞みたいなものだ。
ないない尽くしの令嬢には、不釣り合い。
だけど、そんなことは誰よりもリリアーナ自身がよくわかっている。
キュッと唇を噛む彼女に、ルアネは「女神様も酷なことをなさる……」と重いため息を吐いた。
「それで、ええと……黒薔薇の聖女は、茨の城へ送られることが決まっている。それは、知っているわね?」
知っているもなにも、今まさに、茨の城行きの馬車を用意されているところである。
このお茶会は、その間に許されたつかの間のひと時でしかない。
リリアーナはルアネの質問に、コクリと頷いた。
「では、一人だけ同行者を選ぶことができることは、ご存じ?」
「いえ、知りませんでした」
「執事、メイド、騎士……まぁそれ以外でも良いのだけれど、とにかく、たった一人だけ連れて行くことが許されているの」
「たった一人……」
つぶやきながら、リリアーナは誰がいいだろうと考えた。
けれどどんなに考えを巡らせても、連れていきたい人なんて思いつかない。
執事も、メイドも、騎士も、それ以外だって、誰もいない。
「王族以外であれば、誰でも指名することができるわ」
現状、指名したい人なんていない。
どうしようと、リリアーナは困りきった顔でルアネを見た。
「指名しない、ということもできるのですか?」
「できるけれど……前例はないわね。それに私は、あなたに紹介したい人がいると言ったでしょう?」
どうやら、ルアネは縁談ではなく同行者について話していたらしい。
早合点してしまって、リリアーナは恥ずかしく思う。
そんな中、ふと見ると、ルアネは落ち着かなげに指をソワソワさせていた。
どう言えばリリアーナが断らずにいてくれるのか、考えているようにも見える。
(つまり、わたしが断るかもしれない相手ということ……?)
黒薔薇の聖女について来るような、奇特な人物。あるいは、黒薔薇の聖女とともに追放したい人物。
どちらにせよ、問題がありそうだ。
むむ、と眉間に皺を寄せるリリアーナに、「とりあえず名前だけでも」とルアネはある男の名前を告げた。
告げられた名前に、リリアーナは目を剥いた。
聞き間違いかと問い返してしまったけれど、改めて聞いた名前に間違いはないようだった。
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