第4話 黒薔薇の聖女
「お黙りなさい!」
凛とした一喝に、動揺していた神官たちがピタリと黙る。
中庭が、静寂に包まれた。
こちらへ近づく足音がして、神官たちの視線が、一斉に回廊へと向かう。
現れたのは、一人の女性だった。
とっさに反論しようとしていたのだろう。口を開きかけていた神官たちは、しかし彼女を見るなり口をつぐんだ。
まるで、戦う前から敗戦することがわかっていたかのように。
女性はゆったりとした足取りで──勿体ぶっているわけではなく、それが彼女の最速であるようだった──中庭の中央へ歩み寄ると、這いつくばっていたリリアーナを立たせ、膝についた土を払ってくれた。
「怖かったわよね。神官たちが、ごめんなさい」
さきほどの一喝とは打って変わり、優しく気遣うような声。ショックのあまり、時が止まってしまったように感じていたリリアーナは、その声にゆるりと顔を上げた。
「え、っと……大丈夫、です」
波打つ髪は黄緑が混じった金色、リリアーナを掴む手はこんがりと日焼けしていて、気の毒そうに見つめてくる瞳は落ち着いた緑色をしている。
年齢を重ねてなお美しいその顔は、社交界に出たことがないリリアーナでも、見知っていた。
ルアネ・エミール。
エミール伯爵家の、カレンデュラの聖女。
聖女であることに誇りを持ち、生涯独身を公言して精力的に活動している人だ。実際、リリアーナの祖母くらいの年齢であるが、今も独身を貫いている。
カレンデュラの祝福は、対象者の健康状態を鑑定するもの。医師さえ見逃してしまうような小さな病も、たちどころに見つけてみせる。
聖女としてのお勤めだけではまだ足りないと、医師免許まで取得したパワフルな方だ。
おそらく、治療院からの帰りなのだろう。
神殿には、無償で医療行為を受けられる場所がある。
彼女が羽織る白衣からは、かすかに消毒液の匂いがした。
「おめでとう、あなたも聖女の仲間入りをしたのね。同じ聖女として、うれしく思うわ」
「おめでとうだなんて、そんな……」
ルアネは気づいていないのだろうか。そこに咲く、花に。
リリアーナは震える手で、黒薔薇を指し示した。
「だって……だって、わたしは……」
ちっともおめでたくなんてない。
だって黒薔薇の聖女は……否、黒薔薇の魔女は、誰にも望まれない存在なのだ。
(誕生すれば疎まれ、逝去すれば喜ばれる。それが、黒薔薇の魔女)
恥も外聞もなく大声で泣き喚いて、自身の不幸を嘆き悲しみたかった。
サティーナは「悲劇のヒロインぶって馬鹿みたい」と
(だって、本物の悲劇のヒロインになっちゃった……)
ルアネが去れば、神官たちはリリアーナを捕らえて茨の城へ送るのだろう。
運が良ければ、荷物を取りに帰らせてくれるかもしれないが……。
そこまで考えて、ちっとも運が良くないことにリリアーナは気がついた。
彼女が黒薔薇の魔女になったことを家族が知れば、荷物を取るためという理由があっても屋敷へ入れないはず。
さらには、侯爵位を脅かす悪魔だとして、勘当されるに違いない。
(住む場所を用意してもらえるのだもの。わたしはまだ、大丈夫)
ないない尽くしの令嬢は、とうとう家族を失うらしい。
辛うじて残っていた希望が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
絶望に、声も出なかった。
いらない子だとわかっていたつもりだけど、聖女になればあるいはと、わずかな希望に期待していたぶん、なおさらに。
言葉を話せない代わりに、あふれた気持ちはぎこちない笑みとなって表情に現れた。
絶対に、泣かない。
リリアーナにだって、小さいけれどプライドはある。
彼女は手の甲に、ギュッと爪を立てた。痛みで泣く気を逸らそうとしてのことだった。
リリアーナの行動に気づいたルアネは「あらあら」と困ったように声を漏らす。
まるでケガを診察するかのように、慎重に、気を遣いながらリリアーナの手を持ち上げた。
「そんなことをしてはいけないわ。痛いでしょう?」
爪を立てる左手をやんわりと退かすと、ルアネは「まぁ」と驚きの声を上げた。
リリアーナの手の甲は、傷だらけだったからだ。
「あなた、いつもこんなことを?」
「……」
リリアーナの手の甲は、右も左も傷だらけだ。彼女自身がつけたものもあるし、家族がつけたものもある。
右手より左手の傷がひどいのは、自分自身でするよりもためらいがないせいもあるが、三人分の躾がそこへ集中していたせいだろう。
カレンデュラの聖女たる彼女は、何もかもお見通しらしい。
厳しい顔で「下衆が」とらしくもなくつぶやいたが、幸い誰も反応しなかった。空気を読んだ神官たちが、聞こえなかったふりを決め込んだだけともいうが。
「あなた、お名前は?」
「リリアーナです。リリアーナ・ソワレ……」
「そう。では、リリアーナ様。ちょっと私と一緒にいらっしゃいな。ちょうど休憩をとるところだったのよ。少し、付き合ってちょうだい」
「ルアネ様、しかし……」
さぁ行きましょうと、にこやかな笑みを浮かべたルアネを、神官が呼び止める。
このまま行かせるわけにはいかなかった。
カレンデュラの聖女には大恩があるけれど、黒薔薇の聖女の決まり事は絶対である。
誕生次第、茨の城へ即差遣。
例外は、ない。
「何か問題でも? 神官様」
「ですが、ルアネ様」
「馬車を用意する時間くらい、良いではありませんか。こんな暑い日に、日傘も差さずに聖女の儀だなんて。私の仕事を増やしたいようですわね?」
亀の甲より年の功。
物言いたげな神官たちを
置いてけぼりを食う形になった神官たちは、戸惑いの表情を浮かべながら二人を見送るしかない。
すっかり二人の姿が見えなくなってようやく諦めがついたのか、それぞれの仕事を全うするために散っていったのだった。
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