第8話 試着室の中で(意味深)

 とある有名な登山家の残した有名な言葉で、『なぜ山に登るのか。そこに山があるからだ』ってのがある。


 それを知ったのは……確か何かの本を読んでた時だった気がするんだけど、当時は「ふーん」としか思わなかった。


 登山家のセリフだ。山があれば山に登りたい。そう思うのもまあ、当然ではあるだろうな、と本当に軽く捉えていた。


 だけど……。


「ご、ごめんね、宇井くん……。苦しいよね……? でも、ちょっとだけ……耐えて……お願い……」


「あっ……ふぁ、ふぁい……」


 ごめんなさい。有名な登山家さん。今になって俺はあなたの言った言葉の意味がよくわかりました。


 確かに目の前に山があれば登りたくなります。


 こんなにも大きくてふにふにしてて、魅力的な二つの山があれば誰だって――


「んぶぶっ……!?」


「少しだけ……少しだけだから……このままジッと……」


「んんんっっ……!」


 四つん這いになった状態で、俺は欅宮さんの大きな胸に顔を埋めていた。


 けれど、待って欲しい。これはわざとってわけじゃないんだ。


 欅宮さんの声に反応した女子複数人がこっちに迫って来た。だから、急遽俺たちは試着室の中へ隠れたんだけど、その拍子に微妙な段差のせいで軽く躓いてしまい、なだれ込むように室内へと入る形になってしまったのだ。


 幸い欅宮さんに怪我をさせるようなことにはならなかったけど、代わりに尻もちをつかせ、俺は勢いのままに彼女のはだけた胸元へ顔を落としてしまった。


 もちろん、すぐに謝って離れようとはしたんだ。


 けど、なぜかそのまま欅宮さんにギュッと頭を抱かれ、そこから離れられない状態に……。


 ……これ、俺は悪くないよな……? うかつに動いてゴソゴソしてたら、それこそ外にいるであろう女子複数人から怪しまれかねないし、ジッとするしかないですよね……? 欅宮さんもジッとしてて、って言ってたし……。


 ただ、俺が時折酸素を求めて胸元でもぞもぞすると、


「ひゃっ……///」


 欅宮さんは小さく、甘い吐息の混じった声で悶えるわけだ。


 そして、切なそうに潤んだ瞳で「こらぁ……///」と言ってくる。


 ……うん。必死に隠れてるところで俺たちは何やってんだろうね。いい匂いもするし、俺はもうこの場で意識を失ってしまいそうだった。頭もクラクラし始めてる。酸素不足ではないと思うよ。……たぶん。


「あっれー? この辺だと思ったんだけどなー」

「全然欅宮さんとかいないじゃん。空耳だったんじゃないの?」

「いやいや、アタシもこの辺りから欅宮さんって名前呼ぶ声聞こえたし。男子の」

「嘘じゃん。あの欅宮さんが男子とこんなとこ来るってのも想像できんし」


 声がすぐそこで聞こえる。


 これは……近いな。


 俺の頭を抱いてくれてる欅宮さんの手の力が少しだけ上がった。


「でもさ、あのおっぱいじゃん? 外見も可愛いし、普通に彼氏いてもおかしくない?」

「あー、性格とか見ずに、外見に釣られて、みたいな?」

「そそ。あのうざい感じを知ったらさすがに男子も距離取ると思うんだけど、おっぱいに負けて、とかならありそう」

「男子ってほんと単純だよね。結局おっぱいじゃん」

「それね。もっと性格とかちゃんと見ろって感じ」

「ねー」


 好き勝手言って、声は段々と遠くなっていった。


 どうやらどこかに行ってしまったらしいが、さすがにこれ以上の長居は禁物だ。店内にいる可能性だってあるしな。


「……欅宮さん。そろそろ……」


「……あ、う、うん。外、出ても大丈夫そうだね」


「うん。けど、もうここに二人でいるのは危険だ。早めにカフェの方、行こっか」


「……そうだね」


 欅宮さんのテンションは見るからに低くなってた。


 もしかしたら、さっきあの女子たちが言ってたことを気にしてるのかもしれない。


 声の感じからして、あれはクラスメイトの半田さんと立木さん、それと前川さんだ。


 どちらかというと三人ともクラス内で男子とよく絡むタイプで、俺とはたぶん合わないタイプの人種。


向こうも俺に対してはあまり印象を持っていないだろう。それはそれで、別に構わないんだけど。


「あ、あと、欲しいって言ってた服、あれは俺が買っとくよ」


「……へ?」


「さっきの人たちにまた見つかるようなことがあっちゃいけないから。俺が代わりに買っとく。気にしないで」


「で、でも、割と高いし、そんな――」


「大丈夫。俺、無趣味だし、普段からお金貯めてるタイプなんだ。使い時って言ったらこういう時くらいしかないだろうし……それに、お試しとはいえ、今欅宮さんは彼女だもん。彼女の喜ぶことがしたいんだ、俺」


 本心からそう言った。


 すると、欅宮さんは目を見開き、それでも申し訳なさそうに「けど……」と返してくる。


 俺は「いいから」と、一人試着室から先に出た。「店の外に出てて」と言葉を残して。

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