第9話 フクロウ、そして歌鶫

 

 モーガンを見送り、オウルは再びマリーの部屋へと戻った。

 そしてタイル張りの小物入れを開くと、再度、デッサン画を取り出す。


「メイヴィ……」


 オウルは小さく、亡き妻の名を呼ぶ。

 彼の胸中を占めるのは、ではなく、16だった。





 メイヴィとは、オウルがまだ父の元で勉強中の頃に出会った。

 彼女はジェニーレン男爵家のメイドで、何度か仕事で顔を合わせている内に恋仲になり、結婚した。

 オウルはその時まだ、年若い青年だった。

 けれどメイヴィがオウルよりも年上だった為に、なるべく早く子を設けようと2人で話し合い、結婚した1年後にはマリーが誕生した。



 思えば、その頃が一番幸せだった。


 オウルは仕事で、メイヴィは育児でとても大変だったけれど、それでも2人支えあって生きていた。

 愛と笑顔が溢れる家庭だったと、誰が見てもそう思うだろう。

 オウルは深くメイヴィを愛していた。

 メイヴィの少女のようなあどけない笑顔を見れば、愛しいという想いが溢れて止まらなかった。

 オウルの人生の中で、メイヴィと出会えた以上の幸運は他にない。

 そう思っていた。





 マリーが生まれた4年後、フィスがアデルを出産すると、ジェニーレン男爵家は騒がしい日々が続いた。

 先代男爵が病気で亡くなり、ダヴ・ジェニーレンは30手前で爵位を引き継ぎ当主となった。

 ダヴの母は彼が幼い頃に亡くなっていた為、名実共にジェニーレン家の顔はダヴとフィスの2人になったのだ。


 更に、オウルの父である前執事長もその1年半後に急逝し、オウルは20代半ばで執事長の座に就くことになった。

 既に仕事を学んでいたとは言え、想像以上に男爵家の執事長としての責任は重く、オウルは必死だった。

 当主になったばかりのダヴの補佐も含め、朝から晩まで働き詰めで、家族で過ごすことが出来るのは、夜のほんのひと時だけだった。



 メイヴィはメイヴィで、アデルの乳母として働いていた。

 赤ん坊の頃から天使のように愛らしかったアデルをメイヴィはとても可愛がり、実の子のマリーと分け隔てなく愛情を注いだ。

 それこそ、まだ幼いマリーが嫉妬してしまうくらいに。

 当然メイヴィはマリーのことを愛していたし、ずっと一緒に居たいと思っていたが、アデルはマリーよりも幼い。

 そして仕事としても、アデルを優先しなければならないこともあった。



 マリーが6歳になったある日のこと。

 メイヴィと離れ難かったマリーは、珍しく酷くグズって泣いた。

 ある程度大きくなり、自分の置かれた立場と周囲が見えるようになって余計に、「母は自分よりもアデルを優先して行ってしまう」と強く思ったのだろう。


 メイヴィはとても困り果てた。

 もうすぐアデルの昼寝が終わる頃だ。


 アデルの昼寝の時間はメイヴィの休憩時間となっていて、いつも子供部屋の隣室でマリーと過ごしていた。


 メイドが付いてはいるものの、寝起きにメイヴィの顔が見えないとアデルは酷く泣く。

 あまりに泣くために、その後暫くは水さえ口にしないほどだ。

 だからこそ、アデルが起きる前には子供部屋に戻らなければいけない。

 けれどその日はどうにも、マリーを宥めることに苦労した。


 すると、隣室から「メービー!! メービー!!!」と激しい泣き声が聞こえた。

 アデルが起きたのだ。

 メイヴィは慌てて隣の子供部屋に向かう。

 その激しい泣き方にマリーも虚を衝かれたのか、抵抗しなかった。


 暫くはアデルの火のついたような泣き声が屋敷中に響き渡った。

 しかしメイヴィが必死に宥めたことで漸くアデルは泣き止み、泣き疲れてまた眠ってしまった。



 けれど、その後悲劇が起こった。



 アデルの眠っている子供部屋に、フィスがやってきたのだ。


 この時、フィスは心を病んでいた。

 フィスがジェニーレン家に嫁いでから数年、子供になかなか恵まれなかった。

 そのことをフィスは酷く気にしていたが、ついに念願叶って授かったのが、アデルだ。

 ついに抱くことが出来た我が子だ。

 乳母がいるといっても、フィスは熱心に自ら子育てに励んだ。

 けれど間も無く、産後鬱を発症してしまう。

 気分の浮き沈みが激しくなり、とても子供の面倒が見れるような状況ではなく、乳母であるメイヴィが育児の主体となっていった。

 アデルはまだ自分の母が誰なのかよく理解しておらず、いつも面倒を見てくれるメイヴィにより懐いた。

 そして産んだはずの自分よりメイヴィにアデルが懐くことに苛立ち、フィスの精神は不安定になるという悪循環に陥った。

 出産を機に体が弱くなり、以前のように快活に活動出来なくなったことも原因の一つだろう。

 事実、体調不良と鬱症状によって、ベッドから起き上がることさえ出来ない日もあるくらいだ。

 せっかく授かった子が、後継者になる男の子ではなかった、ということもあるかもしれない。

 フィスは時に激しく怒りを爆発させたかと思ったら、一転して死にたいと落ち込むこともあった。

 彼女は非常に不安定な状態だった。



 ゆらりゆらりとふらつきながら、蓬髪ほうはつをそのままに歩いて来る様は、まさに幽鬼そのものと言った様相だった。

 まだ幼いマリーはそんなフィスを酷く恐れており、脱兎の如く逃げていった。




 ここまでが、屋敷の皆が知っている話。


 この後メイヴィは、いつもの如くフィスに無理難題をぶつけられ、アデルのためのおもちゃを買いにナサリーの繁華街へと向かって、馬車の事故にあった。

 そう言われている。



 けれど、オウルは知っている。


 本当は。

 本当は、メイヴィはフィスに殺されたのだ。






『お前は自分の子供を優先して、私のアデルを蔑ろにしてるんだろ……! アデルが死んだらお前のせいだ!!』


 そう叫んだフィスはメイヴィの髪の毛を引っ張った。


『何故アデルが起きる前に側に行かない!! マリーの方が可愛いからか!? なのに何故アデルはお前を呼ぶんだ!!』


 その細い体のどこにそんな力があったのかと思うほど、フィスはメイヴィの髪を掴んだまま振り回した。

「おやめください! おやめください!」というメイヴィの必死の声を無視し、決して手を離そうとしなかった。

 やがて、ゴンッという鈍い音がした。

 フィスがその音の方に目をやると、額から血を流して倒れている、メイヴィが居たのだ。


 フィスは一瞬にして顔を青褪めさせて、震えながら腰を抜かした。


 どくどくと額から溢れ出す血がドレスを汚して、それに比例してメイヴィの血の気は失せていった。




 何故オウルがその一部始終を知っているのか。

 見ていたからだ。

 その凶行を。




 マリーはフィスを恐れて部屋を去った後、オウルの元へと駆けていった。

 母の身に危険が迫るのではないかと、父に助けを求めに。

 オウルは嫌な予感がして、マリーに他の使用人の子供たちと遊びに行くよう言い付け、アデルの部屋へと急いだ。

 そして聞いたのだ。

 フィスの半狂乱で叫ぶ声を。

 部屋に近付くにつれその声は大きくなり、扉を勢いよく開けて目に飛び込んできたのは、メイヴィの髪を鷲掴みにして振り回しているフィスの姿だった。


 あまりのことに一瞬頭が真っ白になるも、すぐに止めようと駆け寄った、その時。

 ゴンッという音ともに、メイヴィの額がチェストの角にぶつかった。


 フィスの手がメイヴィの髪から離れるのと同時に、オウルはメイヴィに駆け寄った。


「メイヴィ! メイヴィ!!」


 額を割り血を流すフィスを抱きしめながら、オウルは必死に血を止めようとハンカチで押さえる。

 フィスはただ床にへたり込んで震えているだけで、何の役にも立たない。

 オウルは必死に「誰か! 医者を呼んできてくれ!!」と叫んだ。

 しかし、周囲には誰もいないようだった。



 メイヴィが、フィスの唯ならぬ様子にメイドを皆下がらせてしまったこと。

 防犯上の理由から、アデルの部屋に続く廊下の出入りを制限していたこと。


 この2つの状況が、医者を呼ぶこともままならず、フィスの凶行を目撃した者がオウルしかいなかったという、最悪な状況を作り出したのだった。



『メービー……?』


 フィスとオウルの大きな声に目が覚めたのか、アデルがむくりとベッドから起き上がった。

 よく状況が理解出来ないながらに恐怖を感じたのか、またギャーッと激しく泣き喚く。

 咄嗟に、それまで腰を抜かしていたフィスが立ち上がり、アデルを抱き締めた。

 それと同時に、キイィと音がして、部屋の扉が大きく開いた。

 そこには、ジェニーレン男爵である、ダヴが立っていた。


『これは……?』

『奥様が! 奥様が妻の髪を持って振り回し、このようなことに……!』


 オウルは唇を噛み締め、必死にメイヴィを抱きしめながら、何かを堪えているような様子だった。


『本当なのか……? フィス!』

『っだって! あいつがアデルを蔑ろにして自分の子供しか可愛がらないから! 私は悪くないわ!』


 そう叫ぶフィスの姿は、宛ら悪鬼の如く醜い姿だった。

 まだアデルが生まれる前、クリフを屋敷に招き入れた優しさは、微塵も感じられなかった。

 フィスの腕に力が篭っているのだろう。

 アデルは痛い痛いと泣き叫んでいる。


『……急いで病院へ連れていく。フィス、アデルを離しなさい。この部屋から出ないように』


 普段の温厚なダヴからは想像が出来ないほどの冷ややかさで、無理矢理フィスからアデルを引き剥がす。

 そして泣き叫ぶアデルを抱き抱えながら、オウルたちを伴って部屋を出たのだ。



 ダヴがごく少数のメイドに何やら指示を出したかと思うと、まるで隠れるように裏口からそっと出された。

 ジェニーレン男爵家にもお抱えの医師がいるが、常に屋敷に常駐している訳ではない。

 2人は馬車に乗せられ、ナサリーの街にある中央病院へと向かった。



 けれど、残念ながら……。

 病院に着く頃には、既にメイヴィは事切れていたのだった。





 この事件を、ダヴは徹底的に隠した。

 どうやらダヴはメイドたちに指示し、使用人たちの動きを制限して意図的に目撃者を減らしたようだ。



 結果。

 分かっているのは「メイヴィが馬車で屋敷を出た」「そして亡くなった」という事実だけが取り立たされ、メイヴィの死の真相は葬られた。



『オウル、考えてもみろ。事実が白日の元晒されれば、アデルは殺人者の娘になる。そしてマリーだって、自身の我儘が引き金になったようなものだ。誰かに後ろ指を指されるかもしれない。それに真実を知れば、きっと苦しむぞ』


 そのダヴの言葉を、オウルは一生忘れない。


 子供たちを出しにして、結局は男爵家の名誉を傷付けたくないだけなのだ。

 なんて卑怯で、なんて矮小な男だろう。

 けれどマリーのことを思えば、その通りだろうと口を噤まざるを得なかった。






 結局、フィスは心労も祟ったのか急激に体調を崩し、そのまま儚くなった。

 オウルの行き場のなくなった怨嗟は全て、ダヴへと向けられた。



 あいつが、あいつが全て悪いのだ。

 あいつが自分の妻を制御出来なかった故に、メイヴィが死んだのだ。



 オウルはメイヴィを深く、とても深く愛していた。

 その喪失感たるや、ただ生きていくのさえ難しいと感じる程だった。

 恨み、怒りを糧に、今日まで生きてきた。


 オウルは復讐の機会を窺っていた。

 その為には、執事長の座を利用しない手はない。


 そしてついに、その機会が訪れた。

 ダヴに恨みを持つフライ男爵に話を持ちかけられ、ダヴの事業の邪魔をする為、あらゆる情報の横流しを行った。

 一切、良心は痛まなかった。

 徐々に徐々に、ジェニーレン家の事業は上手くいかなくなっている。

 何か新しい企画をすれば、全てフライ男爵に先を越されるのだ。


 このまま、こんな家は滅びればいい。

 淡々と日々業務をこなしながらも、オウルはそう思っていた。

 オウルの心は、復讐心で塗り潰されていた。










 オウルは手に持っていたメイヴィのデッサン画を小物入れに戻した。


 ふと、マリーの部屋を見渡す。


 マリーはこういった異国の物が好きだっただろうか。

 絵を描くなんて、聞いたこともなかった。

 あの髪飾りは、クリフに貰ったのだろうか?

 何も知らない自分にオウルは初めて気が付いた。



 オウルはオウルなりに、マリーを愛していたつもりだった。

 様々なことを教育したし、不自由な生活をさせていたとも思えない。


 けれど、ダヴの放った『マリーの我儘が引き金となった』という言葉が、耳について離れなかった。

 その言葉が正しいことは、マリーやメイドから聞いて分かっていた。


 あの時、もうマリーは6歳だった。

 十分に分別のつく年齢だ。

 あの時、マリーが駄々を捏ねなければ。

 あの時、アデルが起きる前にメイヴィが戻っていたら、あんなことにはならなかったのではないか。


 そんな思いが頭を掠めて、どうしてもマリーに複雑な感情が湧いてしまい、それまでのような接し方が出来なかった。

 けれどただぎこちないでけで、きちん娘のことを見て理解し、愛情を注いだと思っていた。


 しかしどうだ。

 一人娘が死んだというのに、心は凪いでいる。




『私は他の可能性も考えています』


 先ほどのモーガンの言葉を思い出す。

 あの言葉はつまり、ただの事故ではなかった、マリーの死には誰かの意図が絡んでいる。

 そういうことだろう。


 それを聞いてもなお。

「何故アデルではないのか」という思いばかりが溢れる。


 オウルは多くのものを奪われた。

 メイヴィも、マリーさえも。

 何故奪われるのがダヴではないのか。

 何故私ばかり……!


 そう言った理不尽に対する怒りばかりが湧いてくる。


 待てど暮らせど、マリーを失った悲しみは湧いてこなかった。



「メイヴィ……。私は結局、お前ほどにマリーを愛せなかったようだ……」


 マリーの残滓が残る部屋で、オウルは自嘲しながら呟いたのだった。


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