第10話 鴉と雲雀、そして胸赤鶸
モーガンはまるで泥の中を歩むような気分で、警察署まで戻った。
なんとも気分の悪い。
なんとも重い気持ちになる事件だ。
署に着くと、モーガンは思わずどさりと倒れ込むように椅子に座り込んだ。
「お帰りなさい。どこに行ってたんですか? 」
コーヒーマグを両手に持ったラークが現れた。
北部第3警察署では、刑事一人一人に個室が与えられている。
首都の警察署など手狭すぎてそんな余裕はないから、恵まれていると言えるだろう。
ラークは一つのマグをモーガンのデスクに置くと、自分は部屋の隅に置かれていた木製の折り畳み椅子を開いて座った。
背もたれを前にして、その上に両腕を乗せながらコーヒーを啜る姿は、まだ10代の少年のようだ。
ミルクにほんの少しコーヒーを垂らしたような色合いの前髪を立たせ、後ろは刈り上げているが、彼なりに童顔を気にして「男らしい髪型」を意識しているという。
残念ながら、その苦労は全く功を成していないのだが。
猫舌なのか、ふぅふぅと息を吹きながらちびちびとコーヒーを啜っている。
時折苦そうに眉を顰めており、背伸びしてブラックコーヒーを飲んでいることが窺い知れる。
こいつはいつまで経ってもお子様のままだな、と内心思いながら、モーガンは表情を変えずにコーヒーを啜った。
「さっきまでジェニーレン男爵家に行っていた」
「えっ! 1人でですか!? 」
「ああ」
ラークは驚いてマグを落としそうになった。
かつてないモーガンの行動力に、驚きを隠せない。
今回は本当にどうしたというのだろう。
「男爵が協力的でな。事前に連絡したら、何も問題なかった」
「その割に、随分疲れてそうですね」
両足をマホガニーに乗せ背もたれに完全に重心を預けている姿は、如何にも疲労困憊といった様子だ。
こめかみを両手で揉みほぐしながら、まるで頭痛を堪えているようだ。
「あの屋敷の奴らはおかしい。誰1人、彼女の死を悲しんでいないんだ」
「え、そんなまさか。彼女の交友関係は、特に問題なかったのでは? 」
「調書ではな。だが間違いないと思う。誰1人聞かなかったんだよ。彼女が、いつ帰って来るのか」
「本当ですか……!? 」
そう。
モーガンが感じた最も強い違和感はそれだ。
いくら「検死の為」と言っても、もう既に3日が経過している。
最近になりホルマリンによる防腐処理が試験的に進められているが、まだそう一般的なことではない。
この国では、墓地まで棺の蓋を開けた状態で運び、家族や知人が故人の棺に花を入れるのが習わしだ。
これは故人に、遺された者の想いを伝える大事な儀式と言われている。
もしも時間が余りに経ち死体が腐敗してしまうと、最初から蓋を閉め花を入れられなくなる。
家族や友人が故人を愛しているならば、一刻も早く葬儀を挙げたいと思うのが普通の感情だ。
なのに。
幼い頃からの友人も、婚約者も、ましてや父親でさえ、誰も口にしないとは。
本当ならもっと前に嘆願されていてもおかしくない。
モーガンは、より一層この事件に疑いを深めた。
「クロウさん。それでも、あんまり長引かせるのは無理だと思いますよ。オックス署長が、気にし始めてました」
「そうか……。それは厄介だな」
「あの、今回の件にどうしてそんなに熱心になるんです? 」
いつものモーガンなら、絶対にここまでしないと断言出来る。
自身の行った宣言のこともあるし、そもそもが、あまり熱くなる質ではない。
確かに不審な点は多いが、そう珍しい事件ではない。
他にも抱えている事件は幾つもあるのだし、わざわざ事故として捜査しているものを、敢えて別の線で捜査する暇はない。
ラークは不思議で堪らず、思わず疑問が口を突いて出たのだった。
「どうして、か……。どうしてだろうな。何だか気になるんだよ。マリー・ロビンという女性が」
「っ!もしかして……」
「ああ、いや。そういう愛だの恋だのじゃない。事件の被害者に……そんな悪趣味な性癖はない」
「ならいいんですが……。あ! いけない!! 署長にこの後来るよう呼ばれてたんでした! すいません、また明日!! 」
チラリと時計を見てからギョッとした顔になったラークは、慌てて折りたたみ椅子を仕舞い、足速に部屋から出ていった。
相変わらず慌ただしい男だと、モーガンの口から笑いが漏れる。
どうにも、彼と居ると場が和んでしまうのだ。
それは一種の才能だが、刑事としてはどうなんだと思わないでもない。
時計に目をやると、既に退勤時間まで残り5分といった所だった。
ならば、もう店仕舞でいいだろう。
モーガンは元々あまり残業をしない。
自分が居ても、周囲が扱いに困るだけだと自覚しているからだ。
それがまた周囲の顰蹙を買っていることも分かっているが、一番周りに迷惑を掛けない丁度いい塩梅が、今の働き方だとこの15年で学んだ。
今日も少し早めに身支度を整え、退勤時間丁度に警察署を出た。
と言っても、歩く距離はそう長くない。
警察署の敷地の中には刑事のための寮があり、モーガンはそこに住んでいるのだ。
警察署に向かって右手奥、2階建の署と同じ煉瓦造りの建物が、モーガンの住んでいる寮だ。
北部第3警察署は、警察組織が創設された早い段階に設置された警察署である。
そのため、署も寮も建物は築10年を超える。
まだまだ修繕の必要はないが、汚れは目立つようになる頃だ。
煉瓦独特の赤みの強い茶色は色がくすみ、背後の森と調和が取れた色になっている。
南北に走る街道に並行して建てられた警察署とは異なり、寮は街道に直角、東西に長く長方形に建っている。
寮の西側、署と最も近い辺に、寮の入り口が開いている。
モーガンが署から真っ直ぐ寮へと向かうと、入り口の前で、1人の若い女性が箒で掃除をしていた。
「あ、お帰りなさいクロウさん!お疲れ様でした!」
女性はモーガンに気が付くと、明るい笑顔で元気よく声を掛けた。
彼女の名前はリネットという。
この寮の諸々の世話をしてくれている女性だ。
寮母をしているオックス署長の妻、ジルが、もう1人で刑事たちの面倒を見るのが辛い年になったと言い始めたことで雇われた新人だ。
新人ながらとても気立が良く、明るく笑顔で皆に接する為、とても評判が良い。
既に早くも刑事の何人かは、このリネットに気があるようだ。
かく言うモーガンも、リネットのことは気にいっている。
モーガンはにこりと、先程アデルやリンジーの前で作った偽物の笑顔ではなく、心からの笑みを返した。
「そっちもお疲れ。どう? 仕事は大変? 」
「いいえ! とっても楽しいです! ジルさんもすごく良くしてくれるし、私、ここで働けて良かったです! 」
そう言ってにこにこと笑う彼女の笑顔に、モーガンは今日一日の疲れが癒やされていくようだった。
彼女の笑顔は、人を元気にする力があるのではないかと感じる。
「ああ、いいね。リネットの顔を見たら何だか元気が出たよ」
「そんな。何だかお疲れですね。あ、もしかしてアレですか。この前言ってた湖の事件のやつ」
リネットは周りをキョロキョロと見回して、口元に手を当てながら小さな声でモーガンに囁く。
一応、捜査上の秘密を守ろうとしてくれているようだ。
「うん……、まあ、そんな感じだよ」
「あっ今日のお夕飯のスープは私が担当したんです! お口に合うかは分かりませんが……栄養はバッチリですから、それを飲んで元気出してくださいね! 」
モーガンの体が傾げるような重みの疲れに気付いたのか、リネットは努めて明るく振る舞う。
そんな姿が、とても健気に思えて、今は逆に辛い。
1人、冷たい湖で溺れていくマリーの顔が浮かんでしまったから。
マリーは果たして、リネットのような笑顔を浮かべたことがあったのだろうか。
あの薄寒い、静かな悪意が犇く屋敷の中で。
まだモーガンにはその悪意の正体が分からない。
アデルとクリフが本当に不倫をしていたのかも、リンジーの証言だけでは信じるに足りない。
けれど、このモーガンの不快感は、的外れではないはずだ。
ともすればまた沈みそうになる気持ちを切り替えて、モーガンはリネットに「ありがとう」とだけ返し、自室へと向かった。
ガチャリと大袈裟な音を立てて開いた部屋に入ると、モーガンはそのままベッドへと倒れ込んだ。
この寮の居室は全て同じ広さ、同じ間取りだ。
階級や勤続年数に関係なく、皆平等の部屋が与えられている。
例外としては署長級ともなればこの寮の管理者としての側面もあるために、1人だけ広い部屋が与えられている。
さらに言えば、寮母のジルはオックス署長の妻であるため、彼だけは妻と同じ部屋に住んでいるのだ。
基本的に北部第3警察署に勤める者は、この寮に入ることになる。
急な出動に備えるためだ。
妻子と別れて暮らしている者も多い。
それが辛くて、ここより激務でも首都の配置を願う者もいるくらいだ。
まあそうは言っても、独り者のモーガンには何も関係がないのだが。
モーガンは暫し目を閉じて、今日の出来事を思い出す。
彼らが実際、マリー・ロビンに対しどのような感情を持っていたのか、モーガンには分からない。
だが調書の通りの、傍から見える関係性をそのまま文字にしたような、そんな単純なものではなかったのだろう。
モーガンはゆっくりと目を開き、天井を見つめた。
「分からないよ。一体君に何があったんだ? 君は彼らの隠した顔が何なのか、知っていたのか?
教えてくれよ、マリー」
何処か悲痛な、懇願するような声色で、モーガンは独り言ちた。
この数日、何度もあの青白く色を失った顔を思い出す。
モーガンは、あの日、マリーを湖から引き上げた警察官の一人だった。
マリーを病院へと搬送したのも、モーガンだ。
あの時のマリーの顔が、いつまで経っても頭から消えない。
モーガンはその顔を掻き消すように、腕で目を隠すようにした。
再び暗闇が訪れる。
それはまるで、湖に落ちたマリーの絶望のように、真っ暗だった。
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