第4話 約束


 病室の扉が開いたのは、そのときだった。


 扉の入り口に立っていたのは、真帆乃だった。黒のスーツをびしっと決めた姿で、凛としている。


 思わず、信一は「真帆乃」と言いかけて思いとどまる。隣に佳奈がいるからだ。


 話をさえぎられた形になり、佳奈は困惑していた。


「あの……どなたですか?」


 やはり佳奈は真帆乃のことを覚えていないらしい。

 真帆乃はちらりと佳奈を見た。


「そういうあなたは梓佳奈巡査ですね」


 佳奈が固まる。信一も驚いた。真帆乃は佳奈の名前を知っている。浅草で鉢合わせした後、説明したからだ。


 だが、それを佳奈に言うのは、まずい気がする。信一と真帆乃が幼馴染だと隠しているのだから。


 佳奈は首をかしげる。そして、はっとした顔をした。


「浅草で会った、先輩の知り合いの方ですよね」

 

 さすがに佳奈も思い出したらしい。


「そうね。そのとおり」


 真帆乃は静かに言う。


「先輩にこんな美人の知り合いがいるなんて驚きましたけど……病院に駆けつけるほど親しいんですか?」


 警戒するように、佳奈が真帆乃に尋ねる。信一もはらはらした。真帆乃は何と答えるつもりだろう。

 真帆乃は何かを決意したように、深呼吸した。

 

「信一が無事で、本当に良かった」


 真帆乃は佳奈の質問を無視する形で、そんなことを言う。真帆乃が心から信一の無事に安堵してくれているのはわかる。


 だが、その言葉にはもうひとつ、別の意味があった。佳奈の前で、信一を下の名前で呼ぶというのは、つまり――。


 真帆乃は佳奈に向き直った。そして、静かに告げる。


「私は信一の幼馴染なの」


「お、幼馴染……?」


「そう。私にとって、信一はこの世で一番大事な幼馴染」


 真帆乃ははっきりと言い切った。もう幼馴染だと隠すつもりはないらしい。

 佳奈の視線が交差する。まるでばちばちと火花を散らすように。


「わたしにとっても、先輩はとっても頼りになって優しくて大好きな先輩です!」


 佳奈は言ってから、はっとした表情で口を押さえる。そして、「だ、大好きっていうのは、先輩と後輩の関係で、ということで深い意味はなくて……」なんてしどろもどろになりながら言う。


 真帆乃はくすりと笑った。


「そうね。信一は頼りになるもの。私もよく知っているわ」


「せ、先輩はわたしのものです。あなたに渡したりしませんから! それに、わたしは先輩と同じ職場で同じ仕事していて……いつもそばにいるんです」


「信一と同じ仕事をしているのは、私もだけどね」


「え?」


「私は秋永真帆乃。誘拐される失態を犯した、警視庁捜査一課の管理官よ」


 真帆乃は自分の正体を佳奈に告げた。


「あ、秋永警視……!?」


 佳奈からしてみれば、真帆乃ははるか上の天上人といっても過言ではない。佳奈の階級の巡査の上に、巡査部長、警部補、警部の3つの階級をはさみ、やっと真帆乃の階級・警視になる。

 

 だが、佳奈が驚いているのは、真帆乃が偉い役職者だからではないだろう。

 

「あ、秋永警視の幼馴染が先輩だなんて……わたし、聞いていません!」


「ごめん。騙すつもりはなかったんだ。ただ、真帆乃に迷惑がかからないように黙っていようと思っていて……」


「先輩も秋永警視のことを下の名前で呼ぶんですね」


 佳奈に指摘されて、信一はしまったと思う。佳奈はむうっと頬を膨らませた。


「ずっと黙っていたんですね……先輩ってばひどいです」


「いや、その……ごめん」


「別に先輩は悪くないですけど、でも、代わりに一つお願いを聞いてくれませんか?」


「お願い?」


「幼馴染の秋永さんのことを名前で呼ぶなら、可愛い後輩のわたしのことも名前で呼んでくれないと嫌です」


「え、でも……」


「佳奈、って呼んでくれればそれでいいんです」


 佳奈が上目遣いに信一を見る。浅草で会ったときも信一は佳奈に嘘をついてしまったし、真帆乃との関係をずっと伏せていた。


 その負い目から、結局、信一は佳奈の言う通りにしてしまった。


「わかったよ、佳奈」


 そう言うと、佳奈は「ありがとうございます」と言い、嬉しそうにふふっと笑った。

 一方、今度は真帆乃がヤキモチを焼いて、信一をジト目で見ていた。


「へえ。後輩の女の子を名前呼びするんだ……」


「そ、それより真帆乃が何もされていなくて安心したよ。一時はどうなることかと……」


「私のこと、心配してくれたんだ?」


「当たり前だよ。幼馴染なんだから」


 信一の言葉に、真帆乃がふうんと嬉しそうな笑みを浮かべる。


「そうよね。私たち、幼馴染だものね。ただの同僚とは違うもの」


 真帆乃がわざとらしく、ちらりと佳奈を見る。佳奈とは違って、真帆乃には信一と深い絆がある……と言いたいのだろう。

 佳奈もその意図に気づいたのか、端整な顔に憮然とした表情を浮かべる。


 最初こそ二人が幼馴染であることは秘密にしていたが、浅草デートのとき、真帆乃は幼馴染であることぐらい隠さなくてもいいとは言っていた。

 とはいえ、ここまではっきり宣言するとは思わなかった。


 真帆乃はくすりと笑い、肩をすくめた。


「誘拐されて危険な目にあって、もう二度と信一に会えないんじゃないかと思ったら……警察の人間関係なんてどうでもよくなっちゃった」


「そっか」


 それはそうかもしれない。信一も、真帆乃の同居の提案を受け入れなかったのを後悔したのと同様に、真帆乃も幼馴染関係を無理に隠そうとしたのを悔いていたのだ。

 ということは、真帆乃は、信一と同居する予定なのを隠すつもりもないかもしれない。


「ねえ、だから、信一、わたしと一緒に――」


 実際、真帆乃が頬を赤らめて何か言いかけた。けれど、ちょうどそのとき、佳奈が信一のいるベッドと真帆乃の二人のあいだに割って入った。


「だ、ダメです!」


「な、なにが?」


 信一が尋ねると、佳奈はぶんぶんと首を横に振った。


「何がなんでもダメなんです! わ、わたしの方がずっと若いですし……わたしが先輩にはふさわしいんです!」


「若い以外に取り柄はないわけ?」


「わ、わたしは可愛いですし、それに……」


「容姿が優れているのは私も同じよ」


「それはそうですけど……でも、きっと先輩が好きなのは、大人な美人じゃなくて、わたしみたいな美少女なんです!」


 二人が謎の言い争いをした後、同時にベッドの上の信一を見る。

 

「信一はロリコンじゃないから、私のような大人の美人の方が好みよね?」


「せ、先輩はわたしみたいな可愛い子が好きなんです! ですよね……?」


 二人に同時に問われ、信一は焦った。真帆乃と佳奈のどちらも、容姿端麗な超絶美人と美少女だ。

 どちらが好みかと言われれば、たいていの男は困るだろう。どちらもあまりに魅力的な女性だから。


 だが、どちらかといえば、信一は――真帆乃のような凛とした女性に憧れていた。

 とはいえ、それを言えば、この場は収拾がつかなくなる。


 幸い、看護師の女性がやってきて、「病人と長話をしないでください」と二人を叱ってくれた。

 真帆乃も佳奈もしょんぼりした様子で「はい、すみません……」とうなずいていた。 佳奈はいたずら好きな性格なので、よくこんなふうに叱られていそうで、まあいつもどおりのイメージだ。


 反対に、真帆乃は、普段はたくさんの部下を抱え、カッコよく仕事をしている。だから、そんなふうに小さくなっているのは、ちょっと新鮮で……可愛く感じた。


 もっとも、その真帆乃の立場が今後も続くかはわからない。


 今回、誘拐されたことで真帆乃の立場が悪くなるのは明らかだ。経緯がわからないので、真帆乃にどれほどの責任があるかは不明とはいえ、このまま捜査一課の管理官を続けられるだろうか?


 それが心配だった。

 面会時間も終わるということで、佳奈は名残惜しそうに別れを告げると、「結局、いちばん大事なことが言えなかったです……」とつぶやきながら、部屋から出て行った。


 真帆乃もそれに続こうとしたが、そのまえにベッドの上の信一の耳元に、その赤い唇を近づける。


「退院したら私の家に来て」


「もちろん、行くよ」


「うん。……約束だからね」


 真帆乃はそう言って、信一を見つめると「お大事にね」と言って部屋から去った。

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