第2話 誘拐・ふたたび

 放送とともに、東京都全域に緊急配備がかかる。数億円を載せた現金輸送車が奪われたとなれば、大事件だ。

 

 信一含む押上署の警察官も駆り出されることになる。

 

 状況は刻々と変わっている。容疑者たちは武器を所持しているらしい。すでに当初の現金輸送車を捨て乗用車に乗り換えている可能性が高いようだった。


 1968年に起きた三億円強奪事件は、現金輸送車にこだわるあまり犯人逮捕を逃した。


 今回は徹底的に検問が行われ、不審な車両を洗い出すことになるだろう。信一も早速、検問に向かわないといけない。


 信一が部屋の外に出ようとすると、佳奈が「気をつけてくださいね」と心配そうに声をかける。

 信一は肩をすくめ微笑んだ。


「平気さ。実際に容疑者に当たる可能性も高くないし」


「そうですけど……」


「無事帰ってくるから安心してよ」


「……はい!」


 佳奈はうなずいて微笑み返してくれた。少しでも危険な事件があると、佳奈はこんなふうに心配してくれる。

 事件を検挙するのは大事だが、それで刑事自身が殉職したりすれば元も子もない。


 職務を全うするためにも、佳奈のためにも、信一は危険な目にあうつもりはなかった。


(それに、真帆乃も……きっと俺のことを心配してくれる)


 今、真帆乃はどうしているだろう? 本庁の捜査一課の管理官として捜査の指揮に当たっているのかもしれない。


 係長と二人一組でパトカーに乗って、検問実施場所へと向かう。隅田川にかかり、押上と浅草をつなぐ厩橋で信一たちは降りた。

 

 かなり大きな橋で、交通の要所でもある。

 係長があくびをしながら、周りを見回した。


「月曜の朝からこんな大事件があるようでは先が思いやられますね」


「まあ事件は土日もお構いなしに置きますからね……」


 信一と係長はそんなこと言いながら、怪しげな車を止めて検問を実施していった。

 特に異常はない。


 世間では大事件でも、このままだったら信一たちにとってはありふれた日常の一部になるはずだった。


 止めた車の一台が走り去ったとき、係長の無線が受信する。そこから流れてきたのは、信じられないような情報だった。


 秋永真帆乃警視が容疑者たちにさらわれている、と。


 信一は絶句し、係長は天を仰いだ。。


「どうして……そんなことが……」


 信一は途切れ途切れに言う。係長は肩をすくめた。


「普通、管理官ともなれば、前線には顔を出さないはずですね。とはいえ、重大事件だから現場検証には同行したのかもしれない。そのときに容疑者たちにさらわれたのかな……」


 経緯はわからないが、真帆乃が誘拐されたことは事実だ。相手は数億円の大金を盗んだ容疑者たちで、何をするかわからない。


 梨香子が誘拐されたときのことを思い出す。

 もし真帆乃が何かされていたら……。


 信一は居ても立っても居られなくなった。


(だけど……俺に何ができる?)


 信一は一介の刑事にすぎない。

 今も昔も、信一は真帆乃に何もしてあげられない。


 信一が焦った様子を見せていると、係長が「別場所での検問に指示が変わったよ」と言う。

 慌てて信一は運転席に乗り込んだ。けれど、心はここにあらずだ。

 こうしているあいだにも、真帆乃は危険な目に合っているかもしれない。


(こうなるとわかっていたら……)


 真帆乃と同居する、と信一は伝えていたと思う。そうすれば、きっと真帆乃は喜んでくれたはずだ。

 後悔することになるぐらいだったら、真帆乃の願いを叶えてあげるべきだった。

 最悪の事態になれば、もう信一は真帆乃と言葉を交わすこともできなくなる。


(いや、まだ真帆乃に何か合ったと決まったわけじゃない)


 落ち着かないと、と自分に言い聞かせる。そんな信一に、助手席の係長が声をかける。


「もしかして原橋くんは秋永管理官と知り合いなんですかね?」


「ど、どうしてそう思われるんですか?」


「刑事の勘、といったら信じますか?」


 冗談めかして係長は言う。信一の様子が尋常ではないのを気遣って、あえて軽い調子で尋ねてくれているのかもしれない。


「係長は勘に頼るタイプではないでしょう?」


 信一は思わず言ってしまう。係長は理論家の実力派刑事として知られていて、かなりの合理主義者だ。

 言ってから失礼かと思ったが、係長は気にしたふうでもなかった。 


「まあ、そうですねえ。秋永管理官と最初に会ったときも、彼女がうちの警察署に来たときも、原橋君の様子は普通じゃなかったですから。それで気になっていたんです」


 そして、今も信一は焦っている。それが顔に出ているのだろう。


 信一はパトカーを運転しながら、自然と真帆乃が幼馴染だと係長に話してしまった。本当は秘密にしておくはずだったが、状況が状況だし、係長なら口が固いから、他の人に漏れる心配も少ない。


 梨香子が誘拐された事件のこと、愛知県警の捜査員が犯人を取り逃がしたことを含めて、係長は黙って聞いていた。


 一通り話し終わると、係長は「それは君のせいではないですよ」とつぶやいた。


「ですが、私があのとき逃げ出さなければ……」


「一般人の少年にできることは多くない。現実はヒーロー物語のようには行きませんから。君も警察官ならわかっているでしょう?」


「それは……そうかもしれませんが……」


「第一の悪は犯人であり、次に悪いのは犯人を取り逃がした県警の捜査員たちです。責任を負うべき人間は罪の意識を持つべきだが、君はそうではない」

 

 係長は断言した。


「ありがとうございます……」


「もちろん理屈では割り切れない思いもあると思います。君が罪の意識を持つのなら、君にできることはたった一つ。警察官として、今、目の前の業務を正しく行うことだけです。そのために君は警察官になった。違いますか?」


 そう。信一が刑事になったのは、自転車泥棒のときに会った刑事がきっかけだが、やはり梨香子の事件の影響がある。


「そうですね……おっしゃるとおりです」


「容疑者たちは秋永管理官を人質にするつもりでしょうから、すぐに危害は加えませんよ。きっと無事に帰ってきます。我々にできることは、目の前の検問を行うことです」


 係長は優しい口調で言った。

 信一を含む、都内に緊急配備された警察官たちの働き次第で、容疑者たちは見つかる。そうなれば真帆乃が戻ってくる可能性も高くなるのだ。


 焦っている場合じゃない。係長の言葉に、信一はうなずいた。

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