第5話 浮気者!
好きな人がいるか、という佳奈の問いに、信一は答えられなかった。
一瞬の間が空き、佳奈は「やっぱり、いるんですね」とつぶやき、うつむいてしまう。
「えっと、梓さん……」
「別に深い意味があって聞いたわけじゃないんです。でも……覚悟しておいてくださいね?」
「覚悟って何を?」
「いろいろです。それと、わたしは好きな人、いると思いますか?」
「えっ……」
信一も、佳奈が自分のことを好きなのかもしれないと、考えないこともなかった。
ただ、単にからかわれているだけの可能性を捨てきれない。
かつて両思いだと思っていた真帆乃と、絶縁したこともあるし、人の本心なんてわからない。
信一が答えられずにいると、佳奈はくすくすっと笑った。
「わたしの好きな人は、内緒です」
「そっか」
「でも、いつか教えてあげます」
佳奈はそう言うと、つないだ手をとても大切なもののように、そっと撫でた。
☆
結局、二人はそのまま歩いて、天丼屋に入り、天丼を食べた。
天丼はとても美味しかった。佳奈の分も出したので、多少財布は傷んだけど、喜んでくれたようだし、悪い気分ではない。
(それに、比較的安い天丼にしてくれたみたいだし)
天丼も具の種類の多さで値段に差がある。
最初、佳奈は一番安い天丼を頼もうとしていた。気を使ってくれたのだ。けれど、信一が「遠慮しなくていいよ」と言って、もっと高いメニューを選んでもらった。
「先輩、優し―!」
なんて言って、佳奈は満面の笑みを浮かべる
とはいえ選び直したメニューも、一番高い部類の天丼に比べるとだいぶ安い。
それでも佳奈は大満足だったようだ。
佳奈は名残惜しそうだったけれど、友達との約束の時間が近いようで、天丼屋を出たら解散になった。
「友達に先輩を紹介してもいいんですけどね」
「ははは。でも、邪魔しちゃ悪いし」
「いえ、きっとわたしの友達も先輩を気に入ると思います。あっ、でも、気に入り過ぎたら、それはそれで困るかも……」
「その友達は、梓さんとは同い年?」
「いえ、二つ年上なんです。もちろん女の子で、二十歳の花の女子大生ですよ! すっごく美人で優しい人なんです」
「へえ。それはいいね。楽しんで来てよ」
「はい!」
佳奈が嬉しそうに言う。
そういえば、真帆乃の妹の梨香子も二十歳の女子大生だったな、と思い出す。
梨香子もこの東京で元気に暮らしているらしい。信一は梨香子に会いたいな、と思うと同時に、会うことが怖くもあった。
きっと梨香子は信一を恨んでいるだろうから。
佳奈は屈託のない笑顔で、信一に手を振ると、「来週も楽しみにしていますから!」と言って立ち去った。
(来週のデート……どうしようか)
約束したことだし、佳奈は楽しみにしているし、もちろん行くのだけれど。
まだ何も考えていない。信一も恋愛経験豊富な方ではないし、佳奈を喜ばせられるかどうか。
それに、もう一つ問題がある。
真帆乃のことだ。
真帆乃は、信一と佳奈のデートをどう思うだろう?
いや、もちろん、信一と真帆乃は付き合っているわけでもなんでもないから、理屈の上では気にする必要はないのだけれど。
信一は真帆乃のショックを受けたような表情を思い出す。
真帆乃とのルームシェアを受け入れるなら、なおさら佳奈とのデートは問題になるかもしれない。
(単なるルームシェアのはずなんだけどね)
真帆乃の仕草や態度の一挙一動が、信一を揺さぶり、心動かしていた。
(もしかしたら、真帆乃はまだ俺のことを……)
そんなことを信一は考えてしまう。いずれにせよ、ルームシェアの提案をどうするか決めないといけない。
真帆乃と一緒に二人きりで暮らして、何も起こらないと言えるだろうか。仮に真帆乃にその気がなくても、信一が耐えられなくなるかもしれない。
ともかく真帆乃に一度連絡を取ってみよう。佳奈とばったり会ったきり、連絡をする時間がなかった。
そんなことを考えて、浅草の混雑した商店街を歩いていたそのとき。
後ろから、信一はとんとんと肩を叩かれた。
驚いて振り返る。警察官だから、信一は襲われたときの訓練通り、反射的に相手の腕をつかんでしまった。
「きゃっ!」
相手は可愛らしい甲高い悲鳴を上げた。
そこには顔を真っ赤にした、美しい女性がいた。
「ま、真帆乃……?」
信一の肩を叩いたのは真帆乃だった。つまり、信一の右手が真帆乃の左腕をつかんでいる。
ちらりと真帆乃は信一を上目遣いに見る。そして、頬を膨らませた。
「信一の……浮気者」
真帆乃はそんなふうに小声でつぶやいた。
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