第5話 浮気者!

 好きな人がいるか、という佳奈の問いに、信一は答えられなかった。

 一瞬の間が空き、佳奈は「やっぱり、いるんですね」とつぶやき、うつむいてしまう。


「えっと、梓さん……」


「別に深い意味があって聞いたわけじゃないんです。でも……覚悟しておいてくださいね?」


「覚悟って何を?」


「いろいろです。それと、わたしは好きな人、いると思いますか?」


「えっ……」


 信一も、佳奈が自分のことを好きなのかもしれないと、考えないこともなかった。

 ただ、単にからかわれているだけの可能性を捨てきれない。


 かつて両思いだと思っていた真帆乃と、絶縁したこともあるし、人の本心なんてわからない。

 信一が答えられずにいると、佳奈はくすくすっと笑った。


「わたしの好きな人は、内緒です」


「そっか」


「でも、いつか教えてあげます」


 佳奈はそう言うと、つないだ手をとても大切なもののように、そっと撫でた。





 結局、二人はそのまま歩いて、天丼屋に入り、天丼を食べた。


 天丼はとても美味しかった。佳奈の分も出したので、多少財布は傷んだけど、喜んでくれたようだし、悪い気分ではない。


(それに、比較的安い天丼にしてくれたみたいだし)


 天丼も具の種類の多さで値段に差がある。

 最初、佳奈は一番安い天丼を頼もうとしていた。気を使ってくれたのだ。けれど、信一が「遠慮しなくていいよ」と言って、もっと高いメニューを選んでもらった。


「先輩、優し―!」


 なんて言って、佳奈は満面の笑みを浮かべる


 とはいえ選び直したメニューも、一番高い部類の天丼に比べるとだいぶ安い。

 それでも佳奈は大満足だったようだ。


 佳奈は名残惜しそうだったけれど、友達との約束の時間が近いようで、天丼屋を出たら解散になった。


「友達に先輩を紹介してもいいんですけどね」


「ははは。でも、邪魔しちゃ悪いし」


「いえ、きっとわたしの友達も先輩を気に入ると思います。あっ、でも、気に入り過ぎたら、それはそれで困るかも……」


「その友達は、梓さんとは同い年?」


「いえ、二つ年上なんです。もちろん女の子で、二十歳の花の女子大生ですよ! すっごく美人で優しい人なんです」


「へえ。それはいいね。楽しんで来てよ」


「はい!」


 佳奈が嬉しそうに言う。

 そういえば、真帆乃の妹の梨香子も二十歳の女子大生だったな、と思い出す。

 

 梨香子もこの東京で元気に暮らしているらしい。信一は梨香子に会いたいな、と思うと同時に、会うことが怖くもあった。

 きっと梨香子は信一を恨んでいるだろうから。


 佳奈は屈託のない笑顔で、信一に手を振ると、「来週も楽しみにしていますから!」と言って立ち去った。


(来週のデート……どうしようか)


 約束したことだし、佳奈は楽しみにしているし、もちろん行くのだけれど。

 まだ何も考えていない。信一も恋愛経験豊富な方ではないし、佳奈を喜ばせられるかどうか。


 それに、もう一つ問題がある。

 真帆乃のことだ。


 真帆乃は、信一と佳奈のデートをどう思うだろう?

 いや、もちろん、信一と真帆乃は付き合っているわけでもなんでもないから、理屈の上では気にする必要はないのだけれど。


 信一は真帆乃のショックを受けたような表情を思い出す。


 真帆乃とのルームシェアを受け入れるなら、なおさら佳奈とのデートは問題になるかもしれない。


(単なるルームシェアのはずなんだけどね)


 真帆乃の仕草や態度の一挙一動が、信一を揺さぶり、心動かしていた。

 

(もしかしたら、真帆乃はまだ俺のことを……)


 そんなことを信一は考えてしまう。いずれにせよ、ルームシェアの提案をどうするか決めないといけない。


 真帆乃と一緒に二人きりで暮らして、何も起こらないと言えるだろうか。仮に真帆乃にその気がなくても、信一が耐えられなくなるかもしれない。


 ともかく真帆乃に一度連絡を取ってみよう。佳奈とばったり会ったきり、連絡をする時間がなかった。


 そんなことを考えて、浅草の混雑した商店街を歩いていたそのとき。

 後ろから、信一はとんとんと肩を叩かれた。


 驚いて振り返る。警察官だから、信一は襲われたときの訓練通り、反射的に相手の腕をつかんでしまった。


「きゃっ!」


 相手は可愛らしい甲高い悲鳴を上げた。

 そこには顔を真っ赤にした、美しい女性がいた。


「ま、真帆乃……?」


 信一の肩を叩いたのは真帆乃だった。つまり、信一の右手が真帆乃の左腕をつかんでいる。

 ちらりと真帆乃は信一を上目遣いに見る。そして、頬を膨らませた。


「信一の……浮気者」


 真帆乃はそんなふうに小声でつぶやいた。


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