第15話 風呂場の事件

 その日の夜。信一は真帆乃の家に泊まることになった。


 ルームシェアの提案こそ受け入れていないものの、泊まることについては押し切られてしまったのだ。

 

「男たちに襲われたから、怖いの」


 そんなふうに真帆乃から上目遣いに懇願されたら、断ることなんてできるはずもない。

 信一が仕方なくうなずくと、真帆乃が「やった!」と言って喜んで、「私はシャワーを浴びてくるから」と言って風呂場へ行ってしまった。


 あまりにも無防備すぎる気はする。とはいえ、受け入れたのは信一の責任だ。

 信一自身に真帆乃と一緒にいたいという思いがあるから、断れなかった。


 二人は単なる幼馴染という関係なわけだけれど、一緒に一晩いたなんて、同僚に知られたら、確実に誤解される。


 今日一日なら、バレないだろう。だが、ルームシェアしたら?

 隠し通すことができるだろうか?


「無理だな……」


 真帆乃のルームシェアの提案は、考えれば考えるほど、非現実的だ。頭の良い東大出身の官僚が考えたとは思えない。


 他人から見たら、同棲にしか見えないだろう。いや、同棲という言葉の辞書上の定義は、単に男女が一緒に住むことなので、信一がこの部屋に住めば、間違いなく同棲ということになる。


「どうしたものかなあ」


 信一はつぶやいて、二杯目の紅茶を飲んだ。

 真帆乃が淹れてくれたのだ。


 紅茶が美味しいな、と思う。真帆乃と一緒に住むことができたら、それはとても楽しいかもしれない。

 やましいことは何もない。いや、仮に真帆乃と恋人になったところで、二人は立派な大人なのだから、何の問題もない。

 

 ただ、平の刑事と付き合うのは、真帆乃の人事や出世にとって、良い影響を与えるだろうか?

 性別が逆なら珍しい話でもないかもしれない。つまり、キャリア組の男性エリートと若い婦人警官が結婚するというのは、ありがちな話だ。


 その逆が想像できないのは、ジェンダーバイアスと言われても仕方ない。ただ、現実に自分より優秀な女性と付き合うのを忌避する男性は多い。

 

(だからこそ、真帆乃はこれまで彼氏がいたことがなかったわけで……)


 それでは、どんな男なら、あの優秀で美人でエリートの真帆乃にふさわしいのだろうか?

 まったく想像がつかない。

 

 少なくとも、自分でないことは確かだ、と信一は思った。


 そのとき、風呂場の方から、何かを叩くような大きな音がした。


「きゃあああああっ、助けてっ。信一っ……!」


 真帆乃の悲鳴を聞いて、信一は背中に冷たいものが走る。

 信一は慌てて席を立ち、風呂場の方へとすっ飛んでいった。


 脱衣場へ入り、その奥の風呂場の扉を信一は勢いよく開けた。普段だったら、女性の入っている風呂に乱入するわけないが、真帆乃は信一に助けを求めていた。


 たとえば、窓から不審者の男が侵入して真帆乃を襲っていたら?

 想像しただけで、恐ろしくなる。

 

「真帆乃!? 大丈夫……あれ?」


 そこにいたのは、真帆乃だけだった。不審者もいなければ、火事が起きているとか、そういうこともない。

 裸の真帆乃が、横を向いてうずくまっている。しっとりと濡れた黒い髪が、身体にふわりとかかっていて扇情的だ。

  

 その白いなめらか背中を見て、信一はどきりとするが、それどころではない。

 いったい、何が起きたのか……?


「あ、あれ……」


 真帆乃が震えながら、壁を指差す。

 そこには、大きな蜘蛛がいた。たぶんアシダカグモ。ゴキブリを捕食する益虫だが、見た目がなかなか、インパクトがあるから苦手とする人が多い。


(そういえば、真帆乃は虫が苦手だったっけ……)


 完璧超人の真帆乃でも、不得手とするものはある。

 その一つが昆虫が大嫌いということだった。真帆乃は名古屋の都会から東京の大都会に引っ越しただけなので、虫が嫌いでも困ることはあまりないのだが、たまにこういうことがある。

 

 信一は風呂掃除用の道具を手に取ると、その先端で蜘蛛をしっしっと追い払った。

 蜘蛛は仕方なさそうに、窓から逃げて行っていなくなった。


 拍子抜けといえば、拍子抜けだが、大事件とかではなくて良かった。

 ただ……。


「真帆乃、大丈夫?」


「え、ええ……ありがと。あっ……」


 真帆乃はうなずいて、それから自分の格好に気づいたらしい。

 一瞬のうちに、頭の上からつま先まで、真帆乃の肌が朱色に染まる。真帆乃は一糸まとわぬ姿を信一の前にさらしてしまっていた。



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