第10話 信一の意地悪

 あんな事件さえなければ……と考えてしまう。そうしていれば、信一と真帆乃は今頃……。

 と考えて、きっと何も変わらなかっただろう、という結論に達した。真帆乃は別世界の人間で、ただ幼馴染という関係があったに過ぎない。


 二人は小さなエレベーターに一緒に乗る。翌日は土曜日で、非番だ。新人警察官と違って、巡査部長の信一は独身寮の門限に縛られていないし、外泊も許されている。


(というか、外泊……するのかな?)


 真帆乃が信一を招き入れた理由が不透明で、そのあたりはよくわからなかった。

 エレベーターの中でも、真帆乃は信一の腕をつかんだままだった。


「えっと、真帆乃? そろそろ……」


「あっ、ごめんなさい……」


 真帆乃は慌てて、信一の腕を放す。そして、ちらりと信一を見た。真帆乃も女性としてはすらりとしていて長身で、信一の方が若干背が高い程度にとどまる。


 だから、目線はほぼ同じ高さだ。手を放しても、真帆乃はぴったり隣にいたまま。

 密室で二人きりで、ちょっと気まずい。真帆乃はそわそわとしていた。


「ね、恋人同士で同棲していて、一緒に帰るときとかこんな感じなのかな……?」


「俺は彼女と同棲していたことがないから、わからないな……」


「信一って大学のときとか、彼女いたの?」


「知りたい?」


 信一が問い返すと、真帆乃は肩をすくめて、首を横に振る。


「やっぱり、いい。嫉妬しちゃいそうだから」


「え、嫉妬? そ、そっか」


「ご、誤解しないでね? 信一と付き合っていた子が羨ましいとか、私が信一の彼女になりたかったとかじゃなくて……! 一般論として、恋人がいることが羨ましいという話だから!」


「さっきも言ったけど、真帆乃だったら、男が放っておかなかっただろうに」


 真帆乃は、不自然に何も答えなかった。どうしたんだろう?


 ちょうどそのとき、エレベーターが真帆乃の部屋のある四階についた。


 扉が開く。信一が扉を押さえ、真帆乃が先に外に出た。信一がエレベーターから降りると、真帆乃がくるりとこちらを振り向いた。


 後ろ手を組んで、恥ずかしそうにうつむく。

 

「私、彼氏がいたことなんてないわ」


「え?」


「大学のときも就職してからも、恋人なんていたことないの」


「そ、そうなの? それは意外……」


「しょ、処女で悪かったわね!?」


「悪いなんて言ってないよ!?」


「一応言っておくけど、モテなかったわけじゃないんだからね? ただ、私にふさわしい男がいなかったというか、その……」


 真帆乃はしどろもどろになってしまう。なんとなく、気の毒なことをした気分になってくる。


 真帆乃ほど可愛い容姿だったら、忙しい社会人になってからはともかく、大学で彼氏の一人ぐらいいたのが当然かと思っていた。


 ただ、考えてみると、それほど意外でもないかもしれない。まず、大学のときも真帆乃は勉強漬けで忙しかったのかもしれない。


 それ以上に、優秀で頭が良くて、強気な美人。おまけに長身……とくれば、男たちが敬遠してもおかしくない。


 真帆乃は誰にでもはっきりと意見を言うタイプだったし、可愛げがないと思われたのかもしれない。


 多くの男は、自分よりも優秀な女性を受け入れられない。男女平等の観点からは正しいことではないだろうけれど、現実にはそういう価値観が根強いことは確かだ。


 たとえば、そういう意味では佳奈はモテるだろう。可愛くて、愛嬌があって、フレンドリーで親しみやすい。


 真帆乃も「くだらない男とは付き合わない」みたいなプライドもあるだろうし、理想が高いということもあるかもしれない。

 それに、梨香子の事件もあるから、男を信用できないのも理解できる。


 とはいえ、真帆乃が魅力的な女性であることは確かなはずだった。信一は、自分が平凡な分、優秀な人間が好きだということもある。


「それは、周りの人間に見る目がなかったんだね」


「信一は私のこと、可愛いと思う?」


「昔からずっと可愛いと思ってたよ」


 信一が言うと、真帆乃はぷいっと顔をそむけた。

 なにか不機嫌にするようなことを言っただろうか? 可愛いなんて、付き合ってもいない女性に、しかも同僚に言うのは、セクハラになるかもしれない。


 とはいえ、真帆乃から聞かれたのだけれど……。


 真帆乃が顔をそむけた理由は、もっと別のことだった。


「高校生のときは、そんなこと、一度も言ってくれなかったのに……」


「言ってほしかった?」


 信一はつい軽口を叩いてしまう。真帆乃はちらりとこちらを見る。

 その頬は真っ赤になってた。


「どう思う?」


「それは……」


「あまり見つめないで。たぶん私の顔、赤くなっているから……」


「さっきから真っ赤だったよ」


 信一が言うと、真帆乃はびっくりしたようで、それから恥ずかしそうに瞳を潤ませた。


「信一の意地悪」


 やがて、廊下の真ん中の四〇三号室にたどり着く。それが真帆乃の部屋のようだ。黒い無機質な扉がある。

 

「入っていいの?」


「もちろん。ちゃんと片付けてあるもの」


 相変わらず赤い頬で、真帆乃はくすっと笑う。

 そして、勢いよく玄関の扉を開けた。


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